心理学

フロイト
 ユダヤ人ウィーン大学の教授ブリュッケから、「このまま研究を続けても教授への道は約束できないよ。残念だが、君はユダヤ人だ」と言い渡される。「ユダヤ人のくせに歩道を歩くな」と言われ悔しがった父のことを思い出す。教授の忠告に従い、研究の道を捨て、現金収入が期待できる医者へと転身。若い頃、原因の分からない奇妙な苦しい発作に悩まされていたフロイトは、変人扱いされながらも、ウィーンの診療所で心の研究を進める。人間の心理生活を、「潜在意識」の領域内に抑圧された「性欲衝動」の働きに帰し、心理解明の手段として「精神分析」の立場を創始。オーストリアの精神医学者。『夢分析』他。「幸福を求める様々な手段の中で最も目的に近い方法、それはあらゆるものの中心に愛を置き、愛し、愛されることに全ての満足を見い出すという方法である」と、晩年の言葉の中に残す。(Sigmund Freud)

ユダヤ人
 飢饉に見舞われてパレスチナからエジプトへ移り、奴隷生活を強いられ、モーゼに従い、エジプトを脱出。敗れて捕虜となり、国亡びて世界に離散。2千年の離散と流浪の中、差別と迫害を受け、財産を没収され、虐殺される敗北の苦杯をなめつくし、苦難の歴史の中に生き延びた民族。逆境を越えるエネルギーがその試練の歴史から生まれている。あつくユダヤ教を信じ戒律[肉と乳製品を食べない]を守りヘブライ語を話す
 
アドラー
 ユダヤ人。虚弱体質、くる病、肺炎、弟の死、二度の交通事故などを幼児に体験。神経症の原因を、誰もが持つ「劣等感」に求め、これの補償として「優越の努力」が生まれるとした。(Alfred Adler)
 
 1歳過ぎ、両親が性格上の相違からしばらく別居母親はしばらくユングを捨てて消えていた。フロイトの学説を批判、独自の分析心理 を創始した。(Carl Gustav Jung)
 
エリクソン
 誕生前に両親離婚。3歳のとき母再婚。中学を中退し、ヨーロッパを遍歴する。フロイト晩年の弟子。ドイツ生まれのアメリカの精神分析家・思想家。心理歴史研究の創始者。(Erik Honburuger Eriksen)
 
ウェイン・ダイアー
 2歳の時、父母離婚。母に育てられる。「個人」の生き方重視の意識革命を提唱。マズローの「自己実現」の心理学をさらに発展させた。心理学博士。(Wayne Dyer) 
 
学者・医学者
 
カール・マルクス
 ユダヤ人。科学的社会主義の創始者。思想家、哲学者、経済学者で理論と実践をみごとに結びつけた革命家。「わがいとしい永遠に愛するイエニーに」ささげる3冊の詩編を受けたマルクスの将来の伴侶は、あまりのうれしさ、悲しさに感激の涙を流した。次々と3児を失い、家に1ペニーもないという窮乏の中、朝9時から夕方7時まで、大英博物館にこもって研究に没頭帰宅後は夜中すぎまで執筆した。2晩3晩と立て続けに徹夜することも珍しくなかったという。『資本論33年の歳月をかける。(Karl Marx)
 
ヴィクトール・フランクル
 アウシュヴィッツなどの強制収容所に家族と共に入れられ、両親、妻、二人の子どもはガス室などで死亡。その間、速記の記号で自らや周囲の「囚人」の精神状態を数十枚の紙に記録。収容所から解放されたときから生き方を変えた。「患者に本当に必要なのは、生きる意味をいかに気づかせ、見つけだし、そして希望をもち続けさせるかにある」と考えた。人間にとって、「生きる意味を意識するという、本質的なものに目を向けること、神経症から免れるのにいかに必要かを主張した。『夜と霧…ドイツ収容所の体験記録』は、戦後の復興期にあった日本人に大きな衝撃を与え、今日まで版を重ねている。ユダヤ人、オーストリアの精神医学者。(Viktor Emil Frankl)
 
ルース・ベネディクト
 2歳の時、外科医の父が死去、教師の母に育てられる。幼児期に麻痺になり、片耳が聞こえなくなり、とても内気であったが、学者としては男性をしのぐ心の強さを見せた。結婚後、大学に入り直し、文化人類学を専攻、博士号を取得。日本人研究『菊と刀』で、日本文化を西欧文化の罪の文化に対して恥の文化と規定したことで知られる。同書は、その後の日本学の古典となったばかりか、戦後の日本人にも大きな反響を呼んだ。夫は、別居中に死去、家庭よりも学究生活に賭けた。アメリカの女性文化人類学者。(Ruth Fulton Benedict)
 
クーデンホーフ・カレルギ
 内気で学者肌の性格の持ち主であったが、「人生最大の転機」を迎えた。新進女優イダ・ローランと出会い、熱烈な恋愛の末に周囲の反対を押し切って結婚したからである。父ハインリッヒから1つの宗教や人種にとらわれない幅広い教養を受け継ぎ、母の光子から日本精神を教えられてヨーロッパを越える世界的な視野を持つことを少年期に教えられていた。ウィルソン米大統領の国際連盟構想に感銘を受け、政治への関心を呼び起こされる。一国家に属するのではなく、国際連盟の市民として生きることを決意。雑誌「パンヨーロッパ」を創刊、諸国連合に基づくヨーロッパ統合を提唱。「汎ヨーロッパ連盟」を結成、汎ヨーロッパ会議を主催して、統合運動に指導的な役割を果たした。オーストリアの政治学者。(Richard Nikolaus Coudenhove-Kalergi)
 
ヘルマン・ロールシャッハ:
 12歳で母、18歳で父を亡くす。義母との関係はうまくいかなかった。父が画家(美術教師)で、 美術家になろうとも考えたが、チューリッヒ大学で医学を学び、フロイトやユングの理論に関心を深める。インクブロット法、ロールシャッハ・テストの考案者。インクブロット・テストは彼の生前には非科学的として受け入れられなかったが、死後に臨床心理学の分野で急速に発展する。スイスの精神医学者。37歳。(Hermann Rorschach)  
    
アレクシス・カレル:
 4歳の時に、父が死去。24歳の母が3人の幼い子どもを抱えて生活を支えることになった。医学界の大物たちの反感を買い、リヨンでの採用試験ではじき出され、失意のうちに、アメリカに渡り、ロックフェラー医学研究所に入る。動物を使って最初の臓器移植。39歳で、血管縫合ならびに臓器移植の業績で、「ノーベル生理学・医学賞」受賞。著書に『人間、この未知なるもの』。(Alexis Carrel)  
  
ベンサム:
 11歳の時、母死去。少年時代、身体がひ弱で、神経質な子供であった。12歳でオックスフォード大学に入る。快楽の助長、苦痛の回避をすべての道徳や立法の窮極の原理とし、「最大多数の最大幸福」の実現を説いた。「功利主義の代表者」。生涯独身(Jeremy Bentham)
 
ジェンナー:
 5歳の時、両親を失う。24歳で医師の資格を得て開業。「種痘法」を発見。生涯故郷の開業医で通した。(Edward Jenner)
 
ダランベール:
 私生児で捨てられ出生当時から、実の父母を欠いていた。フランスの物理学者、哲学者、数学の天才。ニュートンの力学を剛体に拡張してダランベールの原理を樹立、また、積分の原理、弦・空気の振動、天文学に関する理論などを発表。哲学上は感覚論・相対主義をとり、不可知論を主張。ディドロらと『百科全書』を刊行、その「序論」及び「数学」を執筆。(Jean Le Rond d'Alembert)
 
ギボン:
 幼少時代に病弱で、小学校にも満足に通えず、16歳からようやく正規の修学をした。ある牧師の娘と恋愛に陥ったが、父の反対で結婚できず、ついに生涯独身で過ごした。しかし、『ローマ帝国衰亡史』の第1巻を刊行すると、一躍大史家・文豪の名を勝ち取り、一時下院議員をして後、著作に専念した。イギリスの歴史家。(Gibbon)

ト・ブーブ:
 やもめの母の手で貧困のうちに育てられたが、パリに出て、古典、歴史の他、自然科学、特に生理学、解剖学などを学ぶ。フランスの批評家。「近代批評の父」。『ポール・ロワイヤル史』他。(Charles Augustin de Sainte-Beuve)
 
ア:
 青年期に父親を失う。高等代数方程式の解法の理論を発展させる。フランスの数学者。(Evariste Galois)
 
アダム・スミス:
 出生当時から、父親を欠いでいた。「古典派経済学の始祖。『富国論』。(Adam Smith)
 
アンリ・ファーブル:
 貧しい家に生まれ、山奥の祖父母の家に3歳から3年間預けられる。父の仕事の失敗から14歳の時、一家離散。一人で放浪生活、自活するようになる。食事を抜いて詩集を買うなどする。独学で師範学校に給費生として入学、18歳で科学の教師となる。30歳の時、昆虫の研究を志し、論文を発表。48歳で教師をやめ、片田舎のあばら屋に篭り昆虫の研究に専念、昆虫を観察し、本を書いた。『昆虫記第一巻を書き終えたのは55歳の時3年に1冊の割で刊行し、83歳の時、第10巻目を仕上げ、全10巻の完成に30年をかけた。63歳の時に迎えた二度目の妻は、当時のお手伝いさんで、40歳年下であった。91歳。(Jean Henri Casimir Fabre)

ザメンホフ(1859-1917)
 国際語エスペラントの創始者。その提唱の根底には人類愛やすべての民族の平等という少年期の素朴な理想主義があった。ロシア帝政下で抑圧されたユダヤ人として彼は青年期に一時シオニズムに傾いたが、それをも偏狭な民族主義として退け、民族や国家を超克する必要性を認識。その著書等で、民族や宗教の敵対関係を人類最大の不幸の一つと見なして、民族・言語・宗教・社会階層による人間の抑圧を野蛮行為と断じ、排外主義や偏狭な愛国心、少数民族抑圧の不当性を指摘するばかりでなく、国土は、民族や言語にかかわらず、すべての居住者に平等に所属すると主張した。(Lazaro Ludoviko Zamenhof)

司馬 遷:
 死期が近づいてきた父に対して、先祖以来書き継がれてきた前代の知識を必ず著述にまとめると涙ながらに誓った、時に36歳。宮刑を受けて(去勢されて)出獄したときはすでに50歳になっていた。恥辱感と憤りに耐え、冷徹な目で現実を見つめつつ、以後歴史の著述に専念した。極悪非道を重ねながら天寿を全うした大盗人の蹠セキという男と貧窮の中で若死した孔子の弟子のうち第一の賢人といわれた顔淵、はたして天道は是か非か。懸命に生きた過去の人々の生前には正当な報いを受けなかった人々を歴史の中で正しく位置づけようとした。自らもまた自己編纂の『史記』によって永遠に生きるあかしを得ると信じていた。中国の大歴史家
  
科学者
 
コペルニクス:
 10歳の時、父死去。伯父に引き取られる。伯父の死後孤独の生活を送る。ギリシア時代のアリスタルコスが述べた「地動説」の理論を確信、書きためたものを自分の手元に置いて少しずつ改良を重ね、周囲の勧めで公表をためらっていた著書を出版。1543年、『天体の回転について』が世に出たとき、死の床にあり、意識も薄れていた。ケプラー、ガリレイ等に衝撃を与えた、ポーランドの聖職者。(Copernicus)
 
ガリレオ:
 母親ジュリアはガミガミ女として有名で、夫婦仲が悪かった。そういう生育のためか、後年マリナ・ガンバという女性との間に3人の子をもうけたが、結婚はせず一緒に住むこともなかった。1609年、望遠鏡を作り、木星の衛星の発見などの後、コペルニクスの地動説を確信。1632年、『天文学対話』を出版。宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を誓約させられ、軟禁された。(Galileo Galilei)
 
ニュートン:
 誕生3カ月前に父死去3歳の時、母が再婚して家を去り、その後8年間、母方の祖母と二人きりで暮らす。「万有引力の法則を発見したのは22、3歳の頃。『プリンキピア』(1687年)で、「運動の3法則」「万有引力の法則」等力学大系を集大成。反射望遠鏡を発明。王室アカデミー総裁。イギリスの物理学者、数学者、天文学者。84歳。生涯独身。(Issac Newton)
 
アイン・シュタイン:
  9才になるまで、うまくしゃべる事が出来ず、両親に知恵遅れかも知れないと思わせたアインシュタイン、学校でも出来が悪く、1894年にミュンヘンの高等学校を「教室を混乱させる」という理由で退学になった。非常に無口で、学校嫌いであった。大学当局の偉い人たちにも、廊下を掃除する婦人にもまったく同じ態度で接し、周囲の人達から愛されたが、一部には変わり者と評判を生んだ。ユダヤ人であるという事実は、彼の一生に、はかり知れない大きな影響を残した。1905年、相対性理論発表。ナチスに追われて渡米。「光量子説」、「ブラウン運動の理論」、「特殊相対性理論」、「一般相対性理論」などの首唱者。また、世界政府を提唱。1921年に、「ノーベル賞」受賞。(Albert Einstein)
 
レオ・シラード:
 ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者。ロンドンで、原子爆弾の原理を思いつく。収容所送りを逃れ、アメリカに亡命したシラードは、やはりアメリカに亡命していたアインシュタインを説き伏せ、ナチスに対抗するため、原子爆弾の開発を強力に進言する手紙を、アインシュタインの名で当時のアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトに、送る。ドイツよりも先に原爆を持たなければならないと強く考えていた亡命ユダヤ人の学者たちの協力で、原爆開発は進められることになった。原爆の誕生は、ユダヤ人迫害に対する対抗措置から生じたものと言える。シラードは、ドイツの無条件降伏の後、原爆の日本投下には強く反対したが、ハリー・トルーマン大統領は聞き入れなかった。
 
ダーウィン:
 8歳の時、病気がちであった母が死去。医学を諦め、牧師になるために進んだケンブリッジでヘンズロー教授に出会い、博物学に惹かれる。海軍の測量船「ビーグル号」でガラパゴス諸島等を探検、生物の進化を確信、1858年「進化論」を発表。創造説を取る教会と対立、大きな影響を世に与えた。『種の起源』。(Charles Darwin)

キュリー夫人:
 11歳で母死去。故国 ポーランドで19歳の時家庭教師先でその長男からプロポーズされるが、貧乏を理由にその両親から反対され侮辱を受ける。結婚の望みを捨て、パリに留学。ガスもなければ電灯も暖炉もなし、冬でもストーブの石炭なしで過ごすことが度々の屋根裏暮しの中、寸暇を惜しんで勉強。28歳の時、36歳のピエールと結婚。「ラジウム」を発見。夫が後に馬車に敷かれて死去。「ノーベル賞を二度(物理学賞と化学賞)受賞。(Marie Curie)
 
ファラデー:
 誕生の直前に、父過労死。一家は文無し状態が続き、家族を養うために幼いうちから働くようになる。正規の学校教育はほとんど受けずじまいであった。少年時代の徒弟奉公先でよき親方に恵まれる。店の客からもらった科学の講演会の入場券が縁で、ベンゼン、電気分解の「ファラデーの法則」など、数々を発見・発明する。イギリスの物理学者・科学者。(Michael Faraday) 
 
レントゲン:
 ドイツに生まれたが、3歳の時からオランダの親類の家に預けられ、高校卒業を前にして友人をかばって退学させられる。スイスで 生涯の良師、物理学のクリント教授に出会う。見えない光線「X線を発見、「第一回ノーベル物理学賞」受賞。(Wilhelm Konrad Rontgen)
 
ラヴォアジェ:
 幼少で、母を失う。酸化現象としての新しい燃焼理論を確立、化学命名法を体系化。「質量保存の法則」を発見するなど、近代化学の基礎を据えたフランスの化学者。フランス革命の際、徴税請負人として国庫に入れるべき金を着服したとして逮捕され、処刑された。51歳。
(Antoine Laurent Lavoisier)
 
モーズリー:
 幼い時に、父を失う。「原子番号」の考案者。
 
ベルセーリウス:
 幼いとき両親を失う。苦学し、医学部を卒業、28歳でストックホルム大学教授となる。酸素を標準とする諸元素の原子量を決定。「原子記号」を考案。56歳で、24歳の女性と結婚。(Jons Jakob Berzelius)
 
メンデレーエフ:
 高校卒業の頃父を失う。生活の苦労を味わいながら成長。14人兄弟の末っ子。元素の「周期律」を発表。未発見の元素の存在及び性質を予言。(Mendeleef) 

プリーストリー:
 貧しい家庭に生まれ、幼いとき父を失い、叔母に養われる。40歳で化学の研究に入る。「酸素」の発見者。(Priestley)
 
ツイオルコフスキー:
 9歳で猩紅熱にかかり聴覚を失い、小学校へ行けず、父親の蔵書で独学。16歳から19歳までモスクワで物理、数学、自然科学を独学。家庭教師、35歳で高校教師に、空想科学小説も書き、ロケット方程式を導き出す。61歳で科学アカデミーの会員になり、「多段式ロケットの理論を発表。宇宙飛行の基本的な問題に独自に解決方法を見いだした。ソ連の月ロケット発射の成功は、彼の功績によるところが大きい。「ロケットの父」。(Konstantin Eduardovich Tsiolkovskii)
 
ハットン:
 幼い頃、父死去。が、財産を残される。「人間の観察にもとづくかぎりでは、この世界には初めもなく終わりもないと述べた。「近代地質学の生みの親。(J.Hutton)
 
メンデル:
 生前その業績が認められず、死後後世の学者がその研究の真意を認識。僧侶で植物学者。遺伝に法則性のあることを発見。「メンデルの法則」。遺伝学」の始祖。(Mendel)
 
ライナス・ボーリング:
 9歳の時、父死去。苦しい少年時代を過ごす。アルバイトをしながら高校に通ううち、実験中に垂らした2、3滴の濃硫酸が、激しい反応を起こし、もうもうたる蒸気が部屋中に広がりこれが化学への道を開くことになる。やがて大学で化学を講じ、ヨーロッパで物理の量子力学を勉強。これを化学に応用、「化学結合論」を著し、「ノーベル化学賞」受賞。物質の根源を探る中、原水爆禁止の道へ進み、核実験反対運動を推進。世界中の1万人以上の科学者の署名を国連に提出、全面軍縮を提唱し、その功績により、今度は、「ノーベル平和賞」受賞。ノーベル賞を単独で二度受けた唯一の人。米国オレゴン州ポートランドの生まれ。93歳。
 
ウェルナー・フォン・ブラウン:
 小学校1年の時ベルリンで ロケットに出会う。数学ができずに中学を落第。全寮制の学校に父親が転校させる。14歳の誕生日に天文学好きの母親が天体望遠鏡を送り、毎日天体を観測、ほとんどの星を覚える。一冊の本、ヘルマン・オーベルトの『惑星空間へのロケット』に巡り会い、液体燃料によれば月に行くことができると確信。猛勉強を開始。高校時代に宇宙船の設計図も書く。18歳で、「宇宙旅行協会(宇宙旅行を実現させる会)」に参加。兵器開発にも加わり、3000人の研究員で最新ロケットの研究にあたり、V2号を作成、これはロンドンを攻撃する。500人が、100台の自動車他でナチスを逃れ、33歳の時、夢の実現のためにアメリカに亡命。ソ連との宇宙開発競争で、ケネディのアポロ計画により、オーベルトの本を読んで40年後、1969.7.21.人間が月に降り立つまでを実現させた。しかし、本人の夢はさらに火星に向けられていたという。話し上手で人の気持ちをつかむ天才であった。(Wernher Von Braun)
 
ステイーブン・ホーキング:
 21歳の時、筋萎縮性側索硬化症であと2〜3年の命と宣言される。絶望して部屋に閉じこもり、ワーグナーを聞き、SFを読みふけり、酒に溺れた。そんなとき、ジェーン・ワイルドに出会い恋をする。生まれて初めて、文字通り必死になって研究に打ち込む。ジェーン・ワイルドと婚約、結婚。32歳の頃からは自分で食事をとることも、起きあがることもできなくなる。現在ボイス・シンセサイザーなしでは会話もできない。しかし、精力的に研究を続けており、宇宙のすべてを語る理論に取り組んでいる。もしホーキングがALSにならなかったら、そしてジェーン・ワイルドに出会わなかったら、これほどの学者にはならなかったかもしれない。発病するまではそれほど真面目な研究者ではなかった。7歳で科学者になろうと考えたが、クラスの中では中以下の成績、大学時代も決して真面目な学生ではなかった。ホーキングが真剣に宇宙への探求に向かったとき、彼はもう生きている時間があまりないというせっぱ詰まった状況にあった。「退院してまもなく、自分がこれから処刑されるという夢を見た。そして、自分にはまだしたいことがあると突然気づいた」と語っている。
 
レーウェンフック:
 16歳のとき父を失い、店員、布地商、市役所勤務などを経て、公会堂の守衛をしながら顕微鏡を自作し、観察を続け、「赤血球精子」の発見などおびただしい観察の結果を発表。(Anton van Lauwenhoek)


思想家・哲学者
 
ソクラテス
 ギリシャ彫刻の男性は、顔の彫りが深く、体型は均整が保たれ、美しいが、ソクラテスは小男で、その容貌は理想の男性像とはおよそかけ離れていた。しかし、彼は内なるものに美を秘め、大きな夢を抱いた。享楽を追い求める多くの人々を前にして嘆き、多くの学問を吸収、ついに結論を下し、決心。「己の無知を自覚するところからすべてのことは始まる。真の認識は「実践的能力(人生は実践である)」である」とした。50歳でクサンチッペと結婚、その妻に水をぶっかけられ、人前で罵られもした。「国の認める神々を認めず青年に毒害を与える」とのかどで告発され、裁判の結果死刑となり、最後は毒杯を仰ぐ。(Socrates)
 
プラトン:
 幼時に、父死去。政治家を目指したが、ソクラテスの刑死に会い回心。哲学を著作の形で世に問うたアテネ出身の哲学史上最大の哲学者。キケロによれば、プラトンは書きながら亡くなった。生涯独身80歳。(Platon)
 
アリストテレス:
 若くして、父母を失う。後見人である姉の夫に育てられる。アレキサンダー王子が王となるまで7年間その教師となる。古代ギリシャの哲学者。(Aristotle)
 
セネカ:
 子どもの時、ローマの伯母の所に引き取られ、そこで感化を受けながら育った。ローマ帝政初期の、エピクテトス、マルクス・アウレリウス帝と並ぶ3大ストア哲学者の一人。中傷によってコルシカに流され、ここで8年間苦労。召還後、ネロの家庭教師となる。しかし、最後はネロから死を言い渡され、血管を切って風呂に入りながら静かな諦観の中に死んだ。「私たちの持っている時間は短くありません。だが、私たちは多くを空費しているのです」。『幸福論』他。(Seneca)

マルクス・アウレリウス:
 幼くして父を失ったが、善き母たちに囲まれて育った。ローマ5賢帝最後の皇帝。ローマ3大ストア哲学者の一人。幼くしてローマ皇帝の養子となり、皇帝の死後、40歳で皇帝となった。最高の地位にありながら、まことに謙虚な、しかも上品な、暖かい心を持った寛大な人であった。『自省録』は戦陣の中でギリシャ語で書かれた自己反省の記録。「哲人皇帝」。(Marcus Aurelius)

デカルト:
 生まれた翌年、母死去。母方祖母と乳母に育てられる。生まれつき虚弱。学校では横になって授業を受ける。成人の後も、寝床で研究する習慣を持つ。「我思う、ゆえに我有り」。「近世合理主義哲学の祖生涯独身(Rene Descartes)
 
ニーチェ 
 4歳の時、父死去。ついで弟も亡くす。26歳でバーゼル大教授となる。梅毒になり、45歳から11年間、精神病院で過ごし、母と妹の世話を受ける。近代における最も重要な哲学者の一人。(Nietzsche)
 
キルケゴール:
 父56歳、女中から後妻となった母が45歳の時の7人目の末っ子虚弱で、せむし気味の貧弱な体躯。14歳のレギーネ・オルセンに24歳の時出会う。25歳で15歳のレギーネに愛の告白。21歳で母、25歳で父が死去。レギーネとの関係を立切ったのが28歳。36歳の時、レギーネ宛の手紙を未開封のままその夫から送り返される。生涯独身虚偽にみちたキリスト教教会に対して闘いを挑んだが、体力つきて、街頭に倒れ、42歳の生涯を閉じた。デンマークの宗教思想家。(Kierkegord)
 
パスカル:
 3歳の時、母死去。16歳で発表した円錐曲線論はデカルトを驚嘆させ、確率論、積分論、物理学に多くの業績を上げた。31歳の時、宗教的回心を体験。流体力学に関する「パスカルの原理」。気圧の単位、「ヘクトパスカル」は、彼が初めて考案した機械で大気圧を測った名残。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。しかし、それ(人間は考える葦である」。生涯虚弱、39歳で病死。『パンセ瞑想録)』は、死後公刊された。フランスの早熟の天才、宗教哲学者、数学者、物理学者。(Pascal)
 
スピノザ:
 6歳の時、母死去。「神即自然」の汎神論哲学者ユダヤ人生涯独身(Spinoza)
 
ー:
 生まれて10日目に母死去父親も10歳の時小事件を起こして出奔弟と共に伯父の許に残される。15歳のとき、徒弟奉公中に家出、放浪生活を送る。19歳の時、ヴァラン夫人のもとに落着き、その愛人となり、自己教育を決意、勉学に励む。下宿先の女中テレーズに親しみ、一生連れ添うが、生まれた子は5人とも捨てたため、これが後悔の種となった。37歳の時エッセイコンテストで優勝、著述家に転向。「人間不平等起源論」などで、民主主義理論を唱えて、フランス革命の先駆をなすとともに、「新エロイーズ」などで情熱の解放を謳ってロマン主義の父と呼ばれ、また「エミール」では自由主義教育を説き、「告白」では赤裸々に自己を語った。「自然に還れに基づく教育論を提唱。「性善説」を唱える。(Jean Jacques Rousseau)
 
サルトル:
 2歳の時、父死去3歳の時に右目の機能が衰え、以後はほとんど左眼のみ頼る生活を強いられる。12歳の時に母が再婚。サルトルは義父との折り合いが悪く、その少年時代は幸福とは言えないものであったらしい。内気で醜い少年であったため、友達もできず家に閉じ込もって夢想にふけり読書に親しんだ。母親に甘やかされ、祖父に押さえつけられ、自己主張の強い性格を築きあげる。パリ高等師範の哲学科を首席で修了し、高校の哲学教師となる。『嘔吐』でデビュー。従軍するが捕虜となり脱走、レジスタンス運動をしながら執筆。哲学論文『存在と無』を発表。人間は自由に生きるべきであり、その自由を獲得するための行動の選択、そのための時代への参加の思想を唱えて自らも実践、活発な運動と発言をおこなった。「人はたとえ無秩序で不条理な世界にあっても、自分の行為に対しては責任がある」と考えた。実存主義哲学の第一人者。24歳頃、ボーボワールを知り、初めは恋人として、後には思想的な同志として、生涯を通じて協力しあうことになるが、互いに相手の自由な恋愛を拘束しないことを申し合わせた二人の恋愛関係は、当時としては斬新なものだった。「ノーベル文学賞」を受けたが、辞退。(Jean Paul Sartre)
 
ト:
 13歳で大きな影響をカントに与えた信仰のあつい、最愛の母を失う。大学卒業の翌年、22歳の時、父死去。貧しく、父の葬式費用が払えなかった。生来虚弱。若き日、毎晩手錠をはめて寝る。「近世哲学の祖。その思想の課題は、@人間は何を知ることができるか、A人間は何を願うことができるか、B人間は何をなさなくてはならないか、であった。「汝の人格および他のあらゆる人の内なる人間性を、決して単に手段としてのみ用いず、つねに同時に目的として遇するように行為せよ」。生涯独身実は、背中に団子のような瘤(コブ)があった。しかし、これを見た医者が、「これは生まれつきだ。苦しい、辛いと言えば、言うほどよけい苦しくなる。心の丈夫なことを、喜びと感謝に変えるといい」、と言ってくれた。その言葉に励まされ、将来の方向が定まったという。(Immanuel Kant)
 
ヘーゲル:
 13歳の時、母死去。終生この母に対して深い敬慕の念を抱き続ける。41歳で20歳年下の女性と結婚。ドイツ観念論哲学の最後の代表者。「弁証法哲学的方法、統一的論理として体系化した。『精神現象学』。(Hegel)
 
ショーペン・ハウエル:
 17歳の頃、父自殺と思われる死をとげる。母は息子の才能にやきもちを焼き、二人は絶えず争った。25歳の頃母が男を作り、その男の方を母が選んだため、それを限りに以後二度と母には会うことはなかった。「生への意志」という概念を、人間生活の第一の原動力として、また人間の苦悩の根本原因として打ち出した。ペシミズムの哲学者。梅毒にもなったが、生涯独身で、享年72歳。(Schaupenhauer)
 
ライプニッツ:
 6歳の時、父死去母は再婚せず、本人17歳の時に亡くなる。哲学者で数学者。生涯独身(Leibniz)
 
ヴォルテール:
 7歳の時、母死去。10歳の時、父は教育に気遣いせぬよう、息子をイエズス会のルイ大王校へ入れ寄宿生とする。ここで7年を過ごす。父の希望で一事法律を学ぶが、やがて文学に傾倒する。獄中で書いた『エディプス王』で文名を上げる。再投獄・追放され、イギリスへ行き、自由主義を体験。その後各地を転々。スイス国境近くに安住、20年間充実した啓蒙活動を行い、フランス革命を思想的に用意した。フランスの文学者、啓蒙思想家。(Voltaire)
 
エマーソン:
 牧師の子として生まれ、8歳の時、父死去。苦学してハーバード大学を卒業、牧師となる。間もなく結婚するが、1年半で新妻が肺炎で死去。牧師を辞任、欧州に渡りカーライルと語り、終生の友となる。帰国後は、講演者として、物質主義、教会の伝統に反抗し、個人の人格の尊厳と汎神論的な神秘主義を主張。 「コンコードの哲人」として海外にも名が響き、日本にも影響を与えた。(Ralph Waldo Emerson)
 
マルティン・ブーバー:
 3歳の時、両親離婚。祖父母の許で育てられる。隣の少女に言われた「いいえ、あなたのお母さんは二度と帰ってきませんよ」という言葉をずっと後まで、まるで昨日のことのように思い出すことができたという。14、5歳になったとき、この「二度と帰ってきませんよ」という言葉が、自分だけではなくて人類全体に関係しているのではないかと考えるようになる。『我と汝の出会いの哲学を唱えたユダヤ人哲学者。(Martin Buber)
 
べルクソン
 ユダヤ系ポーランド人の父と、イギリス人の母のもと、パリに生まれる。父は音楽家で、ドイツ、イタリー、フランスを転々、アンリが生まれて4年後、スイスに移る。アンリは4男3女の次男、母は子供たちに英語で話し、英語で手紙を書いた。7歳の時、一家はパリに戻り、9歳で、給費生としてイスラエル学院に寄宿、10年間をそこで過ごす。その後一家はロンドンに移住、アンリは一人パリに残って勉学を続けた。家族から離れた孤独な生活は、アンリの内省的な性格を一層強めることになった。「生の哲学」の代表者。「ノーベル文学賞」受賞。フランスの哲学者。(Henri Bergson)
 
バートランド・ラッセル:
 幼時に、父母と死別。古い家柄の厳格な長老教会派の祖母に育てられる。自分の「罪」をひどく気に病む、内気で神経過敏な子どもに育った。大恋愛の末、家族の猛烈な反対を押し切って結婚したが、その母親は、「自分の知る限りでは最悪の人間」と評するような女性であった。その母をこよなく崇拝する妻をうとましく思うようになり、十年の別居の後離婚する。第一次大戦に際し、平和論を唱えて失職、投獄される。第二次大戦後は、反戦運動や原水爆禁止運動、植民地解放運動に献身。イギリスの哲学者、数学者、平和運動家。「ノーベル文学賞」受賞。97歳。(Bertrand Russel)
 
モンテスキュー:
 7歳の時、母死去。「三権分立」を説いて、フランス革命、アメリカ独立に影響を与える。政治思想家哲学者。(Montesquieu)

モメルロ・ポンティ:
 夫が軍艦に乗って外洋に出ている間に、妻である母がある大学教授と出来て生まれた私生児、その妹も。そのことを婚約者ザザの父親から告げられたポンティは驚愕し、妹の婚約に差し障りのないように自分の結婚をあきらめる代わりにこのことを誰にも漏らさないように頼み込む。婚約が破綻した事情を知らされなかったザザはしばらくして発狂、ザザの両親はあわてて結婚を許したが、時すでに遅く、彼女は廃人状態で精神病院で死んでしまう。遺作『見えるものと見えないもの』。フランスの哲学者。53歳。「人間の魂は、本当に寂しがりやである。自分と同じ境遇の魂に巡り会った時、その時初めて、人は自分の激しい孤独が癒されたと感じることができるのである」。(Maurice Merleau-Ponty)
 
アミエル:
 幼くして孤児となり叔父の手で育てられる。ベルリン大卒業後、ジュネーヴ大の教授となり、生涯独身で過ごした、スイスの哲学者思想家。死後2冊の日記「アミエルの日記」で有名になった。孤独な自我の慰めとして、あらゆる苦悩や悲しみや寂しさを30年間自分のためだけに書き続けてきたものであった。(Henri-Frederic Amiel)
 
アウグスティヌス:
 17歳の時、父病没。母は敬虔なキリスト教徒で、幼時その感化を強く受ける。身を持ち崩し、幾重にも苦しみ、神に祈らずにはおれなくなった自分について、『告白』の中で事細かに語った。「私がいかに醜くいかにひねくれていて不潔であり、染(シ)みと膿(ウミ)にまみれているか」と、彼がそのことを繰り返し想っていた時、となりの家から子供の声で「とりて読め」と歌う声が聞こえてくる。彼はあふれ出る涙を押さえて立ち上がり、回心し、神のお告げに従って、神の身許にまいることを決心する。洗礼を受けたのは、33歳の時。初代キリスト教最大の教父神学者。カトリック教会の教義と権威との確立に努めた。『告白』、『神の国』。(Augustinus)
 
孔  子
 3歳の時、父と死別。その後、父のめかけであった母とも別れ孤児となる。人間相互の愛情こそ人間の任務であるとし、それを「仁」と呼び、この「仁」を理想の道徳とした。「学」すなわち読書による教養こそ、任務としての愛情すなわち「仁」の自覚的な完成のための、必須の前提であり、また政治こそは「仁」実践の方法であるとした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと10余年、用いられず、時世の非なるを見て、68歳で魯の国に戻り73歳まで教育と著述に従事。孔は、姓、子は尊称、名は丘(キュウ)。「儒家」の祖。(Confucius)
 
孟  子:
 3歳の時、父と死別。一人子。母から厳格なしつけを受ける。学を孔子の孫の子思の門人に受け、王道主義を以て諸国に遊説して用いられず、退いて弟子万章らと詩書を序し、孔子の意を祖述して『孟子』7編を作る。その倫理説は「性善説」に根拠を置き、仁義礼智の徳を発揮するにありとした。
 
朱  子:
 14歳の時、父死去。中国近世最高の儒学者。「朱子学」の創始者。理論と実践がみごとに融合した生涯は、しかし苦難に満ちたものであった。
 
明:
 13歳の時、母死去。「知行合一」「万物一体」「致良知」を提唱、「心則理」の主観唯心論とされる。その説は、主意的、実践的、熱情的、開放的、平等主義的傾向を有し、その門流に左右両派の対立を生じた。中国・明の哲学者政治家


スポーツ

オクサナ・バイウル
 2歳の時、父が家出し、13歳で母をガンで失った16歳でリレハンメル五輪フィギュア・スケートで「女子シングル女王」となる。「彼女は泣きながら滑り、滑りながら泣いた」と当時のコーチはその時の様子を語る。ウクライナ出身で、アルベールビル大会男子シングルで金のペトレンコ等の援助でスケートを続けてきた。振り付けは「世界一貧しい振付師が、無償で考えた」と言う。演技を終えたバイウルの目から大粒の涙がこぼれた。 前日の練習中に他の選手と衝突、右足のスネを3針縫い、背中も打った痛みがよみがえったためだったかもしれないが、得点が表示されると、激しく泣き崩れた。(Oksana Vaiul)
 
ジャッキー・ロビンソン:
 生後6ヶ月の時に、父が失踪、母が5人の兄弟を女で一つで育てる。末っ子。UCLAで、走り幅跳び、バスケット、フットボール、野球にスーパースターぶりを発揮。士官学校に入り、陸軍中尉に。戦後大リーグ入りし、ナショナル・リーグの首位打者とMVPとなる。当時、黒人が大リーグに入るなど考えられなかっただけに、ロビンソンの大リーグ登場は、社会的大事件となった。黒人選手として初の野球殿堂入りを果たす。(Jackie Robinson)
 
ジョー・ルイス:
 7幼時に父を失い、母は連れ子をして再婚。この母と義父の感化で、後生に世界チャンピオンとなる素質を築いた。ルイスはフォードの自動車工場で働きながら、アマチュア・ボクシングをはじめ、プロに転向。名トレーナーのジョー・ブラックバーンによって磨かれ、大プロモーター、マイク・ジャコブスに見出され、世界の王座に君臨。世界ヘビー級のタイトルを25回防衛した。「しかしわたしはすべてそれらの誘惑をはねのけることができた。毎朝かならず5時には起きて、人影まばらな道路をはしった。酒やタバコにはまったく手を出さず、ひたすらトレーニングに身を打ち込んだ。もし長期にわたっての私の勝利に秘訣があるとすれば、それはまさにこれらの日々の生活の規則正しさにあったと言えよう」。
 
アーサー・アッシュ:
 7歳の時、母死去。人種差別に遭いながらもテニスを志し、UCLAに進学。1968年に全米オープン優勝、1975年には黒人選手で始めてウィンブルドンの覇者となる。引退後、1981年からはデ杯監督としてアメリカを2年連続優勝に導いた。人権擁護運動などの活動家として有名。輸血によるエイズ感染を公表。以後、エイズ撲滅財団を設立して活動中1993年49年の生涯を閉じる。(Arthur Ashe)
 
ピート・グレイ
 6歳の時、列車から振り落とされ、腕の付け根だけ残して右腕を切断される。ハンデイ・キャップを克服するために、涙ぐましい訓練を続け極端に指が短い、革だけのようなグローブを使って、「片腕の強打者」として、ついに大リーグ入りを果たし活躍する。
 
ジム・アボット:
 サリドマイド児で、生まれつき右手首から先がなかったが、5歳から野球を始め、高校で1塁、外野。ミシガン大学時代、通算28勝3敗。ソウル・オリンピックではアメリカ・チームの主力投手として金メダルを獲得。ドラフト1位でエンジェルスに入団。新人投手として、左腕一本で12勝。1993年9月、ニューヨーク・ヤンキーズで8人目の完全試合ノーヒットノーランを達成。左手にはめたグラブでボールを受けると、すばやくグラブを右腕の先端に乗せ、左手でボールを握り代えて投球。投げ終わると、またすぐに左手にグラブをはめて打球に備えた。この「アボット・スイッチ」は、日米大学野球の試合を見に来ていた日本の野球ファンを瞠目させた。(Jim Abbott)
 
ベーブ・ルース:
 貧しい家庭に生まれ、7歳の頃には、タバコ・ウイスキーをはじめ、盗みを働くなど手に負えない不良になっていた。父親に見放され、感化院の工業学校に入れられたが、矯正不可能というレッテルを貼られていた。マシアス修道士に感化され、年間154試合で60本の本塁打を打つ「ホームラン王」となる。通算714本のホームラン。(George Herman Ruth)
 
ネイスミス:(James Naismith 1861〜1939)
 9歳の時、両親を失い、叔父の許で育てられる。最初、キリスト教伝道の道を志した、体育教師。若者の心を成長させる手段としてのスポーツ、冬期間に天候にかかわらず行える青少年の運動欲求を満足させる室内競技として、「バスケットボールを考案。カナダ、オンタリオ州生まれ。

エミール・ザトペック:
 貧農の家に生まれ、地元のバター工場やクツ工場で働きながら中学を卒業。19歳頃から長距離で注目されるようになる。陸軍に入隊、陸軍陸上クラブで訓練。腕をだらりと下げ、荒い息づかいで走る姿は蒸気機関車を思わせた。ヘルシンキ・オリンピックで、5千、1万、マラソンで優勝、世界を驚愕させた。オリンピックで4個の金メダルを獲得し、「人間機関車」と呼ばれたチェコの長距離走者。78歳。
 
タイガー・ウッズ:
 黒人の父とタイ人の母の間に生まれ、3歳から父の手ほどきでゴルフを始める。愛称のタイガーは父の戦友の名前から付けられた。スタンフォード大時代に全米アマ3連覇を達成した、直後の96年夏にプロ転向。(Tiger Woods)
 
ファッション
 
ココ・シャネル:
 私生児として生まれ、幼くして母死去妹と共に父親に捨てられる。孤児院で7年の歳月を過ごす。この時代に裁縫の技術を取得したと言われる。その妹が15歳で死去。27歳で帽子店、32歳で高級洋装店を開く。ジャージーを素材にまったく新しいドレスで成功を納め、シャネルの黒、シャネルの膝下の丈、女性初のパンタロン、香水シャネルの5番、19番などを続々と発表、世界一金持ちの女となる。最愛の男、カペルが自動車事故死。その後も数々の有能な男と係わる。60歳の時の愛人は、30歳年下であった。通称となったココは孤児院を出てから働いたキャバレー時代の源氏名と言われる。71歳の時、シャネル・ルックが世界を制覇する。87歳。(Coco Chanel)
 
クリスチャン・ディオール:
 父親の事業の倒産、母親の死をきっかけにパリに出る。ファッション・デザイナーの仕事は美しくエレガントな、亡き母親の姿を追い求めていた心の現れであったという。(Christian D'or)   


社会運動

マザー・テレサ:
 歳の時、父死去。母の手ひとつで育てられる。母親は、週に一度は、身よりのない人や病人、貧しい人などを訪ねて、食事や掃除、看病などのボランティア活動を行っており、テレサはいつも母に同行し、その手伝いをしていた。18歳、修道女になることを神からの呼びかけと受け取る。29歳、清貧、貞潔、従順の「終生誓願」を立てる。「ノーベル平和賞」受賞に際して、それをためらい、受賞記念パーティーを中止しその費用をすべて貧しい人たちの食事にあてるように要請。(Mother Teresa)
 
マーガレット・サンガー:
 16歳の時、母が結核で死去。母親が11人もの子どもを産んだ果てに48歳で亡くなったのを契機に、産児制限こそ女性解放の道ではないかと模索し始め、家族計画の必要性をはっきりと確認。その運動に生涯をささげる決意を固める。カトリック団体などの反発や迫害をものともせず、性解放と避妊に関しての新しい道を切り開き、当時の女性観を一変させた。30日の懲役刑にも服したが、屈せず、女性解放の闘志を燃やし続け、産児制限の合法化を勝ち取り、全米の医学校で避妊法が授業の一環となるまでになった。産児制限運動の指導者。(Margaret Sanger)
 
エレノア・ルーズベルト:
 8歳で母を、10歳で父を亡くす。15歳で イギリスの寄宿学校に行き帰国後、ルーズベルトと結婚。大統領の3期目をつとめるフランクリンが脳溢血で急死した時、傍らにいたのは妻ではなくて元秘書のルーシーだった。トルーマンが自分にできることはないかと言葉をかけた時、まったく取り乱す気配も見せず「何をおっしゃっているんですか、副大統領、今や土壇場に立っているのはあなたの方ですよ」と言ったという。生涯、自分の容姿に対するコンプレックスから解放されることはなかった。78歳。(Anna Eleanor Roosevelt) 
 
ヘレン・ケラー:
 生後19カ月で病気のため目と耳の機能を失い、耳が聞こえないために、言葉を話すこともできず、盲聾唖の三重苦の障害を持つに至る。7歳までは我がまま気ままで、気短かの手に負えない子供であったが、サリヴァン先生の教育により、絶望的とも思えるハンデイーを克服、盲人として初めて大学を卒業、盲聾唖者救済運動を開始する。世界各国を訪問して、講演。同じ不幸に苦しむ人々を、身をもって勇気づけ、『私の生涯について』『楽天主義』など、7冊の著書を書き残した。ヘレン・ケラーの存在は、盲聾唖者のみならず、すべての人間に、「人間はいかなる不幸のもとにあっても、努力と人生への愛によって、その苦しみを克服できる」こと、「人間に与えられた、本能をこえる『精神』の尊さ、生きることの素晴らしさ」を教えるものである。(Helen Keller) 
 
ジェーン・アダムズ:
 2歳の時、母死去。理想主義者であった父親の影響を強く受けて育つ。女子医大に入学するが脊髄を患い退学。同年、父死去。失意のまま訪欧し、ロンドンのスラム街の救済施設を見学して感銘を受ける。学友と共に、シカゴのスラムに救済施設(セツルメント)「ハル・ハウス」を設立。これ以後、全米に各地にセツルメントができていく。ソーシャル・ワーカーという仕事の原型も作る。「ノーベル平和賞」受賞。アメリカの社会運動家平和運動家生涯独身。(Jane Addams)
 
ヘンリー・ランドワース:
 ナチスのユダヤ人強制収容所に入れられ、両親を殺される。すさまじい飢えと虐待によって多くの仲間が亡くなるのを見る。18歳の時、終戦で釈放され、数日間走り続けて、チェコ人の夫婦に助けられる。5年後わずかな金を手にアメリカに渡り、ホテルのボーイから始まり、日々の努力と才覚により、巨大なホテルの経営者にまで上り詰める。"Give Kids The World" は、そんな経験を経た後に設立した、死を待つ難病を持つ子供達を楽しませてあげる無料の施設。子供達にとっては夢のような村で、ディズニーランドのミッキー達が遊びに来てくれたりする。この施設を支えているのはボランティア、企業の資金提供で、営利目的はない。「私の奇跡のような人生に対し、何か恩返しをすることが、私の役目だと思う」と語る。(Henri Landworth)
 
ペトラ・ケリー:
 10歳の時、母親がアメリカ軍人と再婚したために渡米。大学時代、ベトナム反戦運動、公民権運動等に参加し、弱者の立場に立ち人々のために闘うことに意味を見出す。EC事務局での実習生振りが認められ、経済社会委員会の評議員として正式に採用され、社会問題、環境保護、厚生・消費問題を担当、かたわら西ドイツ環境市民連合にも参加、女性・平和・環境・反核運動の実践者として活躍。緑の党創設に参加、連邦議会議員2期等。ドイツの環境運動家。(Petra Kelly)


その他

妃:(718〜756)
 幼時に、親を亡くし、親戚に育てられる。唐の第6代皇帝玄宗の息子の妃となるが、妻を亡くした玄宗皇帝に見初められいったんは寺に入れられ、玄宗の側室に迎えられる。玄宗50歳過ぎのことであった。玄宗は楊貴妃を得ると、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れ、このため、国内情勢が悪化。安禄山が叛旗を翻し、兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求。皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら、楊貴妃を絞殺せよと命令、楊貴妃は絞殺される。時に38才。

ダイアナ妃:(Princess Diana)
 7歳の時、両親が離婚。母は愛人だった実業家と結婚したため、母の愛に飢える。15歳の時、父親が離婚したばかりの伯爵夫人と再婚したが、ダイアナと二人の姉、弟はともに継母のやり方に反発、家庭の暖かさを知らずに育つ。長女のセーラとチャールズ皇太子の恋愛沙汰が消えた後、積極的に出てこれを射止める。19歳で婚約、20歳になったばかりの時に結婚。
 しかし二人の心はすでにハネムーンの時から離れていたという。チャールズは小さいときからナニー(乳母)に育てられ、いつも愛を与えられていたため、人を愛する方法を知らなかった。ダイアナも愛に飢え、愛を与えられることのみを求めていた。結婚生活に対する二人の姿勢は、初めからかみあわなかった。人生の生き方で二人に共通するものはほとんどなかった。
 夫のチャールズがカミラ夫人と付き合っていることを知ったダイアナは、元近衛将校ヒューイット少佐と愛人関係を結ぶ。のちにその関係を少佐が本の中で暴露、ダイアナは大きく傷つけられる。ダイアナは夫から愛されない悲しみをまぎらわすように、次々に男性と付き合い、浮き名を流し、愛を求め続けた。長男ウィリアム王子、次男ヘンリー王子を出産。チャールズ皇太子との関係が悪化、ついに離婚。その直後、再婚を前にして、フランスで交通事故に遭い、相手のアルファイド氏と共に死去。ダイアナの死を悼む多くの人々が国中の教会に花束を置き、彼女の死に涙した。
 最近、ヒューイット元近衛将校が、自分に宛てられた同妃からの手紙を1000万ポンド(約18憶円)で売却する意思があると伝えられた。64通にも及ぶ手書きのこの手紙は最も親密な関係にあった頃のものとされている。ダイアナ妃は秘密保持のために自分を「ジュリア」と名乗り、手紙の返事の宛て先には自分の召使の住所を使用していたという。

ジャックリーヌ・オナシス:
 11歳の時、父母離婚。ソルボンヌ大学に1年留学後、ジョージワシントン大学卒業、新聞記者。婚約を解消して、ケネディと結婚。イタリア語・スペイン語を話すファーストレディ。ケネディ死後、オナシスと結婚。オナシス死後、また再婚する。(Jacqueline Onassis)
 
エバ・ペロン:
 私生児として薄幸の少女時代を過ごした後、ラジオの声優として活躍中に、軍政の実力者ペロン大佐と恋仲になる。ペロンが失脚し幽閉されると、労働者とともに彼の解放を画策し、未曾有の大デモの組織化に一役買い、彼の復権を実現。正式に結婚、エバ・ペロン財団を設立して救貧事業に尽力し、大衆から聖女と慕われた。癌におかされ、33歳で夭折。「エビータ」として、映画やミュージカルにもなった。アルゼンチンの大統領夫人。(Maria Eva Duarte de Peron)
 
イサドラ・ダンカン:
 誕生前に父母離婚。音楽教師であった母の手一つで、姉と2人の兄と共に育てられる。この母に感化され、早くから「仕事」として家計を助けるために踊り始め、渡欧し、ロンドンで大成功を収める。古代ギリシャ風のスカートと裸足で踊る自由舞踏を編み出した。ドイツやソ連に舞踏学校を創設、奔放な恋の遍歴を繰り返した。アメリカのバレリーナ。 試乗のオープンカーにスカーフが巻き付き、首の骨を折り即死する。49歳。
 
アンネ・フランク
 4歳の時、ナチスのユダヤ人迫害を逃れるために、フランク一家は祖母の家に移った。13歳の誕生日に、父親から日記帳を送られる。密告によって逮捕されるまで、隠れ家から一歩も出ない、窓も開けられない生活の中で、2年間、「アンネの日記」は書き続けられた。ジャーナリストになることを夢見たアンネの日記はみずみずしい感受性の少女の成長の記録である。「人間は本当は善なのだと信じる」と書いた。50カ国以上で翻訳され、5000万部以上販売され、映画化されて世界中で上演され続けている。15歳の時、アンネは、栄養失調とチフスで、姉と同じ強制収容所で死去。(Anne Frank)
 
カラミティ・ジェーン:
 14歳で、母、15歳で父が死去。その後、大陸横断鉄道の建設現場で働き、後に射撃ショー等に出演する等、無頼の生涯を送った、美しく勇敢なアメリカの女性西部開拓者。物語化され、死後また映画化され、伝説化された。「平原の女王」。(Calamity Jane)
 
デモステネス:
 7歳の時、父死去。父に委嘱された後見人たちが遺産を使い果たしたが、生来の話し下手を克服しながら弁論修辞の法をおさめ、20歳の時、後見人たちを告訴、勝ちを得る。やがて、法廷弁論や弁論の法を教えるようになり、国事訴訟の原告として法廷に立つに至る。反マケドニア勢力の結集にも大きな役割も果たす。正義と祖国の自由のために論陣を張って、古代ギリシャ最大の雄弁家と目されるに至るも、最後は、親マケドニア派に死刑を宣告されて、服毒自殺。(Demosthenes)
 
バーナード・リーチ:
 母と死別して、祖父母のいた日本で幼児を過ごす。10歳の時イギリスに帰り、美術学校で学んでいたが、高村光太郎との交流、小泉八雲の著作を通じて、思いがつのり、中退して日本に。何人かの人物との重要な出会いがあり、陶芸を学び、作陶を続けた。ロンドン、パリで作品展。たびたび来日し、渡米し日本の陶芸を紹介。『陶芸の本』は、西洋における陶芸のバイブルとして読み継がれた。イギリスの陶芸家。92歳。(Bernard Howell Leach)
 
ロバート・キャパ:
 ユダヤ人。誕生の時、すでに頭は黒髪で覆われ、手には6本の指があったという。左翼運動に参加,、国外追放となり、写真代理店の暗室係として働く。「崩れ落ちる兵士」の写真を発表、一躍、名を世界的なものにする。生涯家を持たず、世間を渡り歩いた、「戦争報道写真の第一人者。最後は地雷で爆死。(Robert Capa)


宗教家

釈  迦
 生まれて7日目に母死去。17歳で結婚。29歳で出家。35歳で悟りを開く。さまざまな迫害や嫌がらせにも会うが、信念を揺るがすことなく、45年間にわたって、「人間が煩悩や老いや、病や死の苦しみから救われる道」を説く。「仏教」開祖。(Gautama Buddha)
 
ムハンマド(Muhammad 570〜632)
 誕生数カ月前に父死去、6歳で母死去。8歳で養育にあたった祖父死去。天涯孤独の身となる。25歳で40歳の2度の離婚歴を持つハディージャと結婚。40歳頃、ヒラーの洞穴で瞑想を続け、唯一神アッラーから選ばれた者であることを自覚。神の前で裁かれる最後の審判の日が来ること、行動を伴わない単なる信心は無意味であることなどを人々に強く説き始める。「イスラム教」開祖。

イエス・キリスト
 ヨセフ早くに死去。前半生は不明。30歳頃家を出て、洗礼者ヨハネに悔い改めの洗礼を受ける。この時、自分の使命を感じ、救世主であることを自覚。神の国の来臨の近いことを告げ、ユダヤ民族の悔改を迫り、神の意志に従うべきことを勧めるようになる。神は、慈悲深い父で、人間は皆同胞として相愛すべきこと、一切の偽善を排し、正義と愛との徹底することを説いて歩く。33歳頃、両手足を釘付けにされ刑死。ユダヤ人。「キリスト教」開祖。(Jesus Christ)
 
ロ:
 回心の後、最も熱心なイエスの弟子となり、 伝導に献身する。「イエスが三日後に復活し、十字架の上の死が実は人間の贖罪のための犠牲であった」という教えを確立し、それを広めることによって、キリスト教の発展の基礎を築いた。ローマで殉教生涯独身。(Saint Paul)
 
モ ー ゼ:
 イスラエル人の男子は、当時、エイジプト王の命令で、生まれるとすぐ殺されていた。ためにモーゼは、母に、葦の籠に入れてナイル川に流されたが、エジプト王の娘に拾われ王子として育てられることになった。モーゼはシナイ山で神エホバの声を聞き、イスラエル人を導き出し、再び神の声「十戒」を聞く。それは、イスラエル人に、「民族としての誇りを自覚させ、神を崇拝せよ」というものであった。「戒を守ること」、即「神を意識すること」であり、それこそが救われる道であるとした。旧約聖書の伝説的な預言者。(Moses)
 
イグナチウス・ロヨラ:
 30歳の時、被弾、瀕死の重傷、びっことなる。病床でキリスト伝、聖人伝を読み、「聖人たちの模範に習いたい願望」が、神からの働きかけであると確信。終生貞潔の誓いを立てる。イエズス会創設。その初代総会長。(Ignatius Loyola)
 
カルヴァン:
 幼時に、母ジャンヌ死去。母は美しい信心深い婦人であったと伝えられる。21歳の頃、父死去。24歳の頃「突然の回心」によって福音主義に転じる。死にいたるまで、文書活動を続け、『キリスト教綱要』をしばしば書き改め、4巻80章からなる大著となした他、多くの著作も残した、キリスト教改革者。(Jean Calvin)
 
ー:
 貧しい父の血の出るような学資で大学に進み、その大学に戻る途中、隣にいた友が雷にうたれて命を失うのを目撃。恐怖に襲われ、土砂降りの中で大地にひざまずき、改心。「私は修道僧になりますと誓う。免罪符の販売を告発、破門され死刑必至となるが、1年後に民衆の英雄として再び登場、宗教改革の指導者となる。「神の義は行いによらず、ただ信仰によって恩恵として与えられる」というパウロの確信を自分のものとし、キリストの福音の神髄を再発見する。「ルーテル教会」の教義原理は、100巻の彼の著書に基づく。聖書を新訳、旧約ともにギリシャ語、ヘブライ語から直接に訳し、その普及は驚異的で、ゲーテ、シラー、ニーチェなども絶賛するほどの名訳であった。また、自ら30余編の賛美歌も作る。生涯、胃弱、便秘、腎結石、痔疾を病む。僧職者の独身解除を唱道。(Martin Luther)

ブリガム・ヤング:
 14歳の時、母死去。貧しい少年時代を過ごす。16歳まで学校に出たのは11日だけ。独学で本を読むようになり、『モルモン教書』に出会い、モルモン教に帰依。創始者ジョセフ・スミスがイリノイ刑務所で殺害された後を継ぎ、「モルモン教第2代会長となる。ユタの砂漠へ信徒を移動させ、モルモン教会を揺るぎなき組織へと発展させた。(Brigham Young)
 
ヨハネ・パウロU:
 貧乏な中、9歳の時、母が病死。13歳の時、ただ一人の兄も病気で世を去る。少年時代は通学の途中でいつも教会に立ち寄って祈る敬虔なカトリック信者であった。20歳の時、父が死去。天涯孤独の身となる。翌年言語学を捨て、突然神学校に入学。26歳で司祭。大学で教鞭を取り、倫理学正教授となる。38歳でポーランドで最年少の司教。6年後首都大司教。その3年後、枢機卿。ポーランド人として始めてイタリア人以外は450年振りに「法王(ローマ教皇)」の座に着く。(Johannes Poulus U)
 
ダライ・ラマ 14世
 3歳になった頃、ダライ・ラマの再生者を捜索する政府派遣の一隊が家にやってくる。他にも13世の生まれ変わりの候補者がいた中、新ダライ・ラマに認定され、4歳にして14世ダライ・ラマに即位、ラサに移り住む。15歳の時、中国の人民解放軍が東チベットに侵入。23歳の時、インドに亡命。54歳で、「ノーベル平和賞」受賞。北京との対立は続いたまま、亡命継続中。ラマ教(チベット仏教)最高指導者。(Dalai Lama XIV)
 
ザビエル
 10歳の時、父死去。東洋伝道のためインド、マラッカなどを遍歴。わが国にキリスト教をもたらし、鹿児島・豊後・山口・博多・京都等の地で伝導、2年3カ月滞在する。<ザビエルがローマに送った1548年の書簡>「私がアンヘロ(ヤジロウ)に向かって、もし私が彼とともに日本へ赴いたら、日本人は果たしてキリシタンになるであろうかと尋ねて見た。彼の答えによると、日本人はすぐにはキリシタンになることはないであろう。まず始めに多くの質問をするであろう。それから私の答えと、私にどれだけ智恵があるかを確かめよう。そして、何よりも私の生活が、私の教えることと一致しているかどうかを検討するであろう」。46歳。(Francisco Xavier)
 
コルベ神父:
 16歳の時、フランシスコ会修道院に入る。「聖母の騎士団」の熱烈なメンバーとして、信仰と奉仕に献身。月刊誌「聖母の騎士団」を創刊。始め5000部刷った同誌は17年後100万部に達した。その影響力が、反ナチス的と判定され、アウシュヴィッツ送りとなる。同房の囚人が逃亡に成功、みせしめのために10人が飢餓室送りになる時、妻子ともう一度会いたいと涙する囚人の身代わりとなる。来日し、6年間、長崎で布教活動。日本版「聖母の騎士団」も発行。ポーランド最大の修道院長に選ばれた後、殉死の道へ自ら進んだ。1982年、バチカンは、コルベ神父を「聖人」とし、サン・ピエトロ聖堂で列聖式が行われた。式を司ったのは、同じポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世であった。47歳。(Maximillian Maria Kolbe)
 
シュリ・ラーマナ・マハーリシ:
 12歳の時に、父と死別。父方の叔父のもとに引きとられた。人類史上まれに見る独悟の体験をしたと言われ、その教え、自己の内面に真我を探求する「真我の探求」で、安全で確実に進歩でき、どのような宗旨や信条の人でも修行できる普遍的な真我に至る道を示したと言われる。「真我を悟るようにしなさい。そうすれば真理は、ハートの中で太陽の光のように強く輝くであろう心は悩みを解消するようになり真の幸福がそこに溢れるようになるであろうと、その瞑想法を勧めた目を見つめることで目から発する「光」とともに真理を伝え、物質世界の幻影による束縛から解放し、真我に導いたと言われる。(Sri Ramana Maharshi)
 
クリシュナムルティー
 幼時に、母死去。幼い時に、その心霊的資質を見込まれ精神的指導者メシヤとなるべく特別の教育を受けた。教団の長となったが、これを解散、数千人の同志を放棄、「宗教や宗派をつくろうとしてはならない」と告げ、人間解放を唱えた。
 
スワミー・ヴィヴェーカーナンダ:
 祖父は、息子が生まれてすぐ、25歳で、出家。父は、弁護士で文学や音楽にも造詣が深く、母は敬虔な人柄で、抜群の記憶力で叙事詩などを暗唱していたという。彼は論理的に納得できないことは頑として受けつけないなど、近代合理主義の洗礼を受けたベンガルの知性派であったが、18歳、カルカッタ大学の学生であった時、ラーマクリシュナに出会う。22歳の時、父が急逝。ラーマクリシュナに出会ってから3年後、彼の心が大きく回転する神の実在が根底から感得され、善悪が織りなされるところに神の慈悲の在ることが体得され、出家を決意す。ラーマクリシュナの死後、方針がまだ十分に定まらぬ頃、若い弟子たちが彼を中心に集まり、出家し、瞑想と学問、議論に励む。1893年、シカゴでの世界宗教会議に参加。世界のすべての宗教が同一の根源に帰することと、相互の協調を説いて一躍名をはせる。
 ラーマクリシュナの教えをひろめ、社会的活動を行うのにしっかりした組織の必要を感じ、1897年、「ラーマクリシュナ伝導協会を設立、総会長に就任。1901年には日本から岡倉天心が訪れ、共にブダガヤの聖地に詣でている。39年の短い生涯であった。
 「わたしは全インドを旅行した。大衆のおそるべき貧困を目撃することは、耐えられぬことであった。この貧困を除かないで宗教を説くことは無意味であると悟った」。「神に近づき、解脱を求めるとき、社会的事象は、一見、遠去かるかに見えて、実はそうではない。個の実存的深まりはかえって人間、社会を見る眼をとぎすませる」。「目を閉じて瞑想し、心の平和を得るよりも、目をあけて貧しい人々に施し、無知なる者を教えることで心の平安は得られる」と説いた。
 ラーマクリシュナ・ミッションは、インドの各地で寺院、僧院、道場、学校、病院などを運営。今日でも活発な活動を続けている、「ヒンドウー教」のインド最大の教団。僧は、全員独身である。(Swami Vivekananda)
 
シュリ・ラーマクリシュナ
 7歳の時、父死去。親にはぐれた子供が必死に、母親を呼び求めるように、彼はひたすら神を求めた。子供の頃は剽軽(ヒョウキン)な面があり、歌と物語の上手な村の人気者であったという。最初の宗教体験は、6、7歳の時。第2回目は父の死後。第3回目は10歳の時であった。修行時代を経て、遂に、涯しない光輝く霊の海の底に女神、大実母を見る。
 ラーマクリシュナは学問は無論否定しないが、その限界を知っていた人であった。理論ではなく、現実の「生きる」ことの中に神の実在を確かめようとした。
 その語録『不滅の言葉、まことに純粋で奥行きの深い宗教性の中に、生の人間味があふれている。
 偽善を憎むきびしい姿勢と
ジョークを連発する軽妙さがあり、母と仰ぎ信ずるカーリー神と恍惚の瞑想の中でなされる会話が盛られている。癌で死去。50歳。(Sri Ramakrishna)
 
天台大師(智): 
 17歳の時、 父母が兵刃の露と消える。その翌年、 兄の反対を押し切って出家。『禅門修証』十巻は、 禅の修行と悟りを説いたもので大師30余歳の時の著作。その要略で、 弟子浄が書き記したと言われる、 『天台小止観』を、 大師の兄が読んで実践、 死の恐怖を乗り越えたという。
 『天台小止観』では、 『人間にとって一番大切なことは、感情を波だたせないこと思考力を正しく働かせること」…つまり、止と観という二つの機能を、正確に操作することにつきると主張。「心と体の調節法」の実際的練習法を、 十章にわけて丁寧に説明している。いつでも、 どこでも、 なにものにもほほえめるような人になること、 それは決して不可能なことではないとしている。
 天台山(中国、 浙江省)に入山したのは38歳の時。全十巻の大叙述、 『摩訶止観』は、 大師56歳のときの撰述。「天台宗」開祖。(チギ)
 
法  顕:
 10歳の時、父死去やがて、母も死去。3人の兄がいずれも幼時に亡くなり、父がこれを恐れ3歳の時に、得度させる。求める夢を果たすために、60歳という高齢を省みず、仲間と連れだって長安を離れ天竺に向けて、戒律を求めて旅立つ。前後14年に及ぶ求法の旅を終え帰国した時には70歳半ばを越えており、その後は、持ち帰った仏典の翻訳に従事する。
 
玄奘三蔵:
 10歳の時、父死去。翌年から、寺住みの身となる。13歳で得度。10数年遊歴、至る処の大徳の門を叩くが、満足な解答を得ず。26歳の時、インド行きを願い出るが、断わられること数度、ついに国禁を犯して長安を後にする。教義上の疑義の究明、梵語経典の獲得、聖地巡拝を目的に、宿願成就までは国に帰らぬ「不東」の二文字を胸に秘めての旅立ちであった。途中極寒極暑のタクラマカン砂漠、厳冬の天山山脈を越え、インドに入る。
 出発より16年後、インドの王ハルシアが、金貨3千枚、銀貨1万枚、像1頭と、特使4人に途中の国々への手紙を持たせ国境まで送り届け、玄奘は無事、経典仏像とともに戻ってくる。帰国後、持ち帰った経典の翻訳に従事、74部1,338巻を中国語に訳出。唐の大宗は密出国の罪を許し、代わりに詳細な報告書を提出するように求める。これに応えて日記を基に、『大唐西域記』12巻を著した。
 
 
 
  『 天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏(窮)せしめ、行にはその為さんとする所(意図)を払乱させしむ。 心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曽益(増益)せしむ所以なり 』   …………  孟子


  『 われわれはひたすら悩み、そして歓喜するために、生まれてきたのです。ほとんどこう言ってもいいでしょう。人は苦悩を突き抜けて、歓喜をかち得るのだと 』   …………  ベートーベン
 



            < 参考文献・資料 >


1.ヘーゲル(中埜肇著、中公新書) 1968年
2.父・山本五十六(山本義正著、光文社) 1969年
3.ホー・チ・ミン伝(チャールズ・フェン著、岩波新書) 1974年
4.歴史を変えたユダヤ人(梶谷善久著、地産出版) 1975年
5.教祖・近代日本の宗教改革者たち(村上重良著、読売新聞社) 1975年
6.ほんみち・民衆宗教の原像(梅原正紀著、白川書院) 1975年
7.哲人宗忠(延原大川著、明徳出版) 1975年
8.ベートーヴェン(ジャン・ヴィトルト著、音楽之友社) 1976年
9.ドストエフスキー(埴谷雄高著、NHKブックス) 1976年
10.若き日の哲学者たち(高間直道著、大和出版) 1976年
11.変革者の思想(奈良本辰也著、講談社現代新書) 1977年
12.本居宣長(本山幸彦著、清水書院) 1978年
13.ユングの生涯(河合隼雄著、レグルス文庫) 1978年
14.追悼録 上&下(朝日新聞社)  1979年
15.周恩来の実践(新井宝雄著、潮出版社) 1979年
16.ユダヤ人はなぜ優秀か(手島佑郎著、サイマル出版会) 1979年
17..アラーは偉大なり(ビ.・ゲオルギウ著、サイマル出版社) 1980年
18.日本の名僧100話(中島繁雄著、立風書房) 1980年
19.定理・法則をのこした人びと(平田寛編著、岩波ジュニア新書) 1981年
20.ザ・ワルチン・スペシャル 1&2(集英社) 1981年
21.喜多郎(喜太郎著、講談社) 1981年
22.正しきものは強くあれ(宮野澄著、講談社) 1983年
23.気骨の思想家(TBSブリタニカ) 1983年
24.信仰と精神の開拓者(TBSブリタニカ) 1983年
25.非行の火種は3歳に始まる(相部和男著、PHP) 1984年
26.若い日の私(毎日新聞社編、毎日新聞社) 1986年
27.岡田茂吉・企画行動力の秘密(小出進著、講談社) 1986年
28.鉄人を創る肥田式強健術(高木一行著、学研) 1986年
29.ヒッチコック(筈見有弘著、講談社現代新書) 1986年
30.天才はいかに育てられたか(G.H.ビドラック、PHP) 1987年
31.大実業家・蓮如(百瀬明治著、祥伝社) 1988年
32.人生 汗と涙と情(浅尾法灯著、講談社) 1988年
33.美女たちの神話(森瑤子著、講談社文庫) 1989年
34.山口組三代目田岡一雄自伝(田岡一雄著、徳間書店) 1989年
35.上杉鷹山に学ぶ(鈴村進著、三笠書房) 1989年
36.宗に生きる(宗教情報編集部、すずき出版) 1989年
37.法然の衝撃(阿満利麿著、人文書院) 1989年
38.私の尊敬する人(講談社) 1990年
39.大人のための偉人伝(木原武一著、新潮選書) 1990年
40.血族が語る昭和巨人伝(文藝春秋編、文春文庫) 1990年
41.新潮世界文学事典(新潮社) 1990年
42.母の教え(ノンブック編集部編、祥伝社) 1990年
43.父の教え(ノンブック編集部編、祥伝社) 1990年
44.女優ベスト150(文芸春秋編、文藝春秋) 1990年
45.ワーグナー(堀内修著、講談社現代新書) 1990年
46.マホメット(アンヌ・マリ・デルカンブル著、創元社) 1991年
47.ヒトラーとは何か(セバスチャン・ハフナー著、草思社) 1991年
48.あほやねん(桂銀淑著、双葉社) 1991年
49.妻の道 梶原一騎と私の二十五年(高森篤子著、JICC出版局) 1991年
50.広辞苑(岩波書店) 1991年
51.ワレンバーグ(M.ニコルソン・D.ウィナー著、偕成社) 1991年
52.新潮日本文学事典(新潮社) 1991年
53.1冊で初代・先駆者100人に学ぶ(平田康之著、友人社) 1991年
54.1冊で発明者・発見者100人に学ぶ(小林修監修、友人社) 1991年
55.エディ(山本茂著、PHP文庫) 1992年
56.1冊で創始・創立者100人に学ぶ(赤根肇著、友人社) 1992年
57.さよなら、ミケランジェロ(ヴャルデマー・ヤヌシャック著、白水社) 1992年
58.知ってるつもり(日本テレビ) 1992年
59.昭和スポーツ列伝(文藝春秋編、文春文庫ビジュアル版) 1992年
60.武将に学ぶ苦境からの脱出(松本幸夫著、総合ライフ出版) 1992年
61.四年目のラブレター(泉ピン子著、スコラ) 1992年
62.母の力(徳田虎雄著、市井社) 1992年
63.愛、深き淵より(星野富弘著、立風書房) 1992年
64.愛と革命 ジョルジュ・サンド伝(坂本千代著、筑摩書房) 1992年
65.ガラスの地球を救え(手塚治虫著、光文社) 1992年
66.フロイト(ピエール・ババン著、創元社) 1993年
67.男を成長させる悪妻の話(越智宏倫著、PHP) 1993年
68.津田梅子(大庭みな子著、朝日文庫) 1993年
69.アンデルセンの生涯(山室静著、教養文庫) 1993年
70.憂愁の作曲家・チャイコフスキー(志鳥栄八郎、朝日文庫) 1993年
71.静かな闘い(アーサー・アッシュ著、NHK出版) 1993年
72.大仁田厚・男の教科書(大仁田厚著、栄光出版社) 1993年
73.マドンナ・スーパー・サクセス・ストーリー(R.M.ワオーカー著、JICC出版局) 1993年
74.名作はなぜ生まれたか(木原武一著、同文書院) 1993年
75.吉田松陰 男の自己改革(森友幸照著、三笠書房) 1993年
76.蒼い時(山口百恵著、集英社文庫) 1993年
77.悪女・賢女の日本史(中江克己著、日本文芸社) 1994年
78.智ノ花 男の夢(蕪木和夫著、銀河出版) 1994年
79.晩年の生きよう(牧野弘道著、光文社) 1995年
80.天風先生座談(宇野千代著、廣済堂文庫) 1995年
81.教祖・意識変革者の群れ(朝日新聞社編、朝日新聞社) 1995年
82.イチロー物語(佐藤健著、毎日新聞社) 1995年
83.人生は「自分の力」で切り開け(田中真澄著、大和出版) 1996年
84.ミニヤコンカ奇跡の生還(松田宏也著、山と渓谷社) 1997年
85.井深大の心の教育(井深大著、ごま書房) 1997年
86.人にはなぜ教育が必要なのか(小室直樹・色摩力夫著、総合法令) 1997年
87.創業者の研究(加来耕三著、人社) 1997年
88.ユダヤ教の誕生(荒井章三著、講談社選書メチエ) 1997年
89.人物20世紀(講談社) 1998年
90.つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり(樋田慶子著、草思社) 2000年
91.尾崎豊・目覚めゆく魂(尾崎健一著、春秋社) 2001年
92.孤独(北野武著、ロッキング・オン) 2002年
93.小さいときから考えてきたこと(黒柳徹子著、新潮社) 2002年
94.ゆとり教育が国を滅ぼす(小堀桂一郎編著、小学館文庫) 2002年
95.ユダヤ人 復讐の行動原理(小坂井澄、講談社+α新書) 2003年
96.幼児教育と脳(澤口俊之著、文春新書) 2003年
97.世界伝記大辞典<日本朝鮮中国編>(ほるぷ出版) 2003年
98.人類の知的遺産 80巻(講談社)
99.文芸春秋(蓋棺録)
100.その他多数の書籍、新聞、雑誌、テレビ番組、インターネット情報等



はじめに

  『逆境』、それは、広辞苑によれば、「思うようにならず苦労の多い境遇のこと」とあります。
 『逆境』に立ち向かっていった人たちの人生ドラマが、「甘えた考え」を打ち破る手助けに少しでもならないだろうか。
  私は、逆境の人の生き方というものに、強い関心を持ち、いつの頃からか、見かけるたびに、これに当てはまる例を書き留めておくようになりました。
 気がついてみると、その例が日本と外国とで、795名にもなっていました。

 世界で一番有名な日本人はというと、 "Oshin" だと言います。
 1983年4月から放送された連続テレビ小説「おしん」は、その後世界59の国と地域で放送され、驚異の視聴率を上げたそうです。
 イランやタイでは8割以上、中国(北京)、ポーランドでも7割以上の高視聴率を記録した(NHKインターナショナル)とのことです。

 読売新聞の「あなたが選ぶ20世紀ベストドラマ」の投票で、第一位を得たのは、圧倒的な投票数で選ばれた「大地の子」でした。
 視聴者から寄せられた歴代反響件数で、ドラマ部門で第一位。昨今のドラマとしては異例とも言える高視聴率を、放送回数を重ねるごとに記録した(NHKソフトウェア)そうです。

 「おしん」「大地の子」共に、逆境を耐え抜き、けなげに生きる主人公が登場します。
 過酷な運命に翻弄されながら、まわりの人々の限りない愛情に支えられて、成長していく。
 このような逆境の人々の物語に、多くの人が感動し、生きる励ましを受けています。
 自分の人生を逆境と重ね合わせて考える人が多いということかもしれません。
 本当の「生きる喜び」は、『逆境』の中から生まれてくるのではないか、とさえ思えてきます。

 ここに載せてあるのは、フィクションではなく、皆、実在の人ばかりです。
 読みかじり、聞きかじりで集めた色々な苦労をされた先達の人生の記録です。
 この中で多くの方々の私的な内容を伝えています。
 先人の生き方を学び、生きる励ましとしたい、それが私の意図しているところです。
 いかに生き抜くか、いかに育てるかに強い関心をお持ちの方々へ、ぜひお伝えしたい、そういう私の思いをくんでいただければ幸いです。
おわりに

1 きっかけ

 「業績を残した人たちに、なぜか、ごく若い時期に親を亡くしている人が多い」と、ひところから考えるようになりました。
 「親はなくても子は育つ」どころか、かえって親を亡くして名をなした人の方が多いくらいではないか。なぜ特別に世に名をなしたような人物に親を早くに亡くした人たちが多いのか。
 そのことが、いつのまにか、自分にとっては特別なテーマになっていました。
 「親がいない方が子どもは偉くなる」、というのはおかしいと、強く反対されたりもしました。
 調べてみると、厚生施設等に入っている青少年の中には、家庭環境に恵まれていない人が非常に多いということも確かでした。しかし、世に名をなした人の中には、恵まれない環境に育った人がやはり多いということも事実のようでした。
 「逆境は人を造る」ということに関心を持って、趣味としてデータを集め始めたのです。
 親の有無について、特に強い関心を抱いたのは、「親のありがたさ」を、わが親が強調するように思えたということがありました。その理由を知りたいという思いがありました。
 同時に、「過保護」の弊害についても、強く身にしみて感じていたということもありました。

2 分かったこと

 逆境(親の欠損等)が、子どもの成長に与える影響を調べることで分かったことがありました。

 (1) 【小さい時の教育環境は、人に及ぼす影響が非常に大きい】

   @ 小さい時に親を亡くすなどのできごとの影響力は、非常に大きいものがある。
   A 小さい時の厳しい環境は、考え深い人間をつくる。

 (2) 【必要に迫られると、人は力を発揮せざるをえなくなる】

   B 必死になった時には、特別の能力が開発される。
   C 自分の力で生きるしか道がなくなると、人はやむをえず自分の力で生き始める。

 (3) 【依存的な生き方からは能力を開発する力は生まれない】

   D 自立心を養うことが大事である。
   E 甘えた環境では、潜在能力を発揮することは望めない。

 (4) 【集中することで力が発揮される】

   F 好きなことなら疲れを忘れて没頭できる。
   G 関心が強いことほど、エネルギーが動員される。

 (5) 【潜在能力は誰でもすばらしいものを持っている】

   H 潜在能力は、非常に大きいものを、誰もが持っている。
   I 潜在能力を生かす力(集中力、忍耐力)は、条件次第で養われる。

 (6) 【教育の力は偉大である】

   J 脳が最も急速に発達する幼児期には、母親の指導力が大きい影響力を持つ。
   K 幼児期からの父親の指導などの教育環境も、特別な能力開発につながる。
   L 父、又は母などが逆境に育った場合も、子どもは格別の影響を受ける。

 (7) 【筋肉と同様、脳は鍛えると開発される】

   M 脳は、筋肉と同様に、使えば使うほど発達する。

 (8) 【知的遺産の活用(読書)で自己教育ができる】

   N 読書によって、自己教育ができる。

 (9) 【指導者の存在で道が開ける】

   O 適切な指導者の存在が大きな意味を持つ。

 (10) 【ユダヤ人は集団で逆境を体験している】

   P ユダヤ人の優秀さは、迫害を克服するためには「教育」しかないと、「教育」最重視政策
    を取った所にあるように思われる。

 (11) 【悪い習慣づけは恐ろしい結果を招く】

   Q 悪い習慣[考え方]を植えつけられると、取り返しのつかないことになる。

 (12) 【愛の力は偉大である】

   R 愛に目覚めると、報いるための努力が生まれる。

 (13) 【失敗は成功の一過程である】

   S 早熟タイプと晩成タイプがあるが、いずれにあっても、失敗があってはじめて成功が生ま
    れる。

3 遺伝と環境

 個人的には認めたくありませんが、個々人の持っている能力の総量の差というものは、確かにあるかもしれません。
 しかし、天才エジソンが言っています。
 「天才とは99%の努力と、1%の霊感である」と。
 努力をするのも一つの才能かもしれません。
 この努力する才能はどこから出てくるものでしょうか。
 遺伝的な要素というよりも、そのほとんどが、後天的な環境によるのではなかろうかと思うのです。
 遺伝による潜在能力の絶対量の差は確かにあるかもしれない。
 しかし、どのような能力も、発揮されなければ、ないのと同じです。
 能力以上に、能力が発揮されるかどうかの方が、むしろ大きい意味を持つのではないでしょうか。

4 99.7%

 「人間は能力を発揮していない。普通、人は、その能力の0.3%しか発揮していない」ということをどこかで読んだことがあります。
 99.7%は、潜在能力、秘めた能力として、誰もが使わずに大事に持っているというのです。
 何度か見ていたそのような数字を、オーバーであるとして自分ではとても信じ切れないという思いでいました。
 そんなに能力は隠れているのか、しかも誰にでも言えることであるとは。
 これはどうしても本当の所を自分で確認したい、そういう思いがありました。
 自分の中にある潜在能力の大きさに気づくことがいかに大事であるか、そのことに気づくことが生き甲斐ある人生を送るための最大の秘訣であるという、このことは多くの書物で多くの先人が語っています。
 ですが、本当の理解は難しい。
 自分の持てる力を発揮するしか生きるすべがない、「命がけになるしかない」そのような環境に立たされるまでは、人はその持てる力、99.7%の潜在能力を発揮することはないということでしょうか。
 太陽光線を虫眼鏡で集める。さらに、一点を黒く塗っておく。そういう実験は誰もが経験済みではないでしょうか。
 集中すると力が出るということを教えるものです。
 「逆境」は、虫眼鏡のような働き、もともとあった力がそれによって集められて引き出される、そのような働きをするものではないでしょうか。

5 「教育」の大切さ

 運動神経がいくらいい人でも、最初から、イチローやタイガーウッズのように一流になれるわけはありません。
 「教育」がいかに大切か、それもごく小さい時からの「教育」がいかに大事であるかが分かります。
 幼時よりの「教育」の大切さをつくづく感じます。
 「逆境」は、とても大きな「教育」的な働きをすると言えます。
 「どの子も育つ、育て方ひとつ」
 この結論を発表されたのは、ヴァイオリンの「鈴木メソッド」で有名な鈴木慎一氏です。
 30数年の経験から、「どの子にも無限の可能性がある」と、主張されています。
 無限の可能性と同時に、教育の力のいかに大きいかを説いておられると思います。
 いま現在、逆境の真っ只中にあると考えている若者たちに言ってあげられることは、何でしょうか。 幼少時に出来上がった性格は、「三つ子の魂、百まで」のことわざのように、変えるのはとても困難です。
 また、何もないと思える状態で、ただ自信を持てと言われても、難しいものです。
 この私を含め、一人ひとりが「自分を育てる」ことができるということがあると思います。
 生き甲斐は、自分を育てることで生まれてきます。
 どうしたらよいかは、やはり、乗り越えてきた先輩たちに聞くのが一番ではないでしょうか。

6 自分を励ます

 自分を励ますために集めてきた色々な生き方のモデルですが、他の人にも参考になるのではないか、そういう思いでいます。
 ある人が、「トイレに置いておいて、少しずつ読むのに適している。トイレで人生を毎日振り返って考えるのにもよい」と、この価値をそんな形で表現してくれました。
 手元に置いて「座右の書」として、毎日見てもらえるなら、これに過ぎる喜びはありません。
 元気を無くした時、手にとって自分を励まし、奮起する材料にしてもらえるならと願っています。

7 最後に 

@ 精神的、身体的、経済的、その他色々の逆境は自分だけではないこと、またこれを乗り越え、逆にこれを踏み台にして、かえってより実り多い人生を歩いた人が多くいることを知り、生きる励ましとしたい。

A 持てる能力に気づいていないことが多い。「潜在能力は隠れている能力のことである」ということを、本当の意味で知るためにも、先人の生き方に学びたい。

B 「努力は報われる」という確信を得るには、やはりこれを教える師、教師が必要である。現実に、目の前にそういう教師がいなくても、このことを教える師にあたる人はたくさんいる。そのことを多くの先人に学びたい。

C 世の中には色々なタイプの人がいる。自分と境遇の似た人で苦境を乗り越えた人を早い時期に見つけ、その人を研究することで人生を前向きに生きることができるようにしたい。

D 色々な人生がある。自分はどのような人の生き方に共鳴するか、「自分には何が向いているか」を、早いうちに知ることが大事である。「好きなことなら、寝食を忘れて取り組む」というのが人間である。

E 小さい時からの「教育」が本当に大事である。「悪貨は良貨を駆逐する」というのが欲望を持った人間の一面の現実である。取り返しがつかなくなる前に、そのことを感じ取り、皆で取り組みたい。

F いじめられて、引っ込み思案になっている人が結構多いのではないだろうか。自分の自信の無さはどこから来ているのか考えよう。引っ込み思案を克服し、もっと堂々と生きるためにも、いじめに対して立ち上がった人たちに学ぼう。

G 「過保護」は教育上弊害が大きいという認識は持ちにくい。というのは、そこに快感が感じられるからであろうが、このことに本当の意味で気づくためにも、親も子も、先人たちに学びたい。

H 信じること、確信を持つことで、力が生まれる。また、継続的な努力が可能となる。どのようにして何を信じることができたのか。真の幸せを得るために、先人たちに学びたい。

                 *         *          *

 作成にあたって、多くの方々の労作である、書籍、新聞、雑誌、テレビ番組、インターネット情報その他数多くの資料を参考にさせていただきました。
 それらの作者、諸々の方々に、深甚なる謝意を表します。
 また、「逆境」であることを説明するために、多くの方々のご苦労された境遇への言及を避けられなかったことを深くお詫び致します。