政治家・軍人・武将・指導者

ワシントン:
 11歳の時、父が急病で他界。独立戦争を指揮した「アメリカ建国の父」。「桜の木」を切り倒したことを父親に正直に告白した話で有名。しかし、これは真面目で正直であったということから、伝記作家によって作られた完全な創作。任期の第3期目を拒否した。アメリカ「初代大統領」。67歳。(George Washington)

リンカーン
 9歳の時、生みの母を失い、第二の母に愛され育てられる。幼少の時から貧しさの中に父と共に居を移し、畑仕事、船夫、柵木割り、教師の助手、商店、測量、郵便局などを経て弁護士となる。教育は12カ月ほど受けただけ。ただ、12歳のころから、本を手放さなくなる。リンカーンが本を手に持っていないところを見たことがないと従弟が言っている。本を借りに30キロも歩いて行くこともあった。22歳で、事業に失敗。23歳で、州議会議員に落選。25歳で、再度事業に失敗。婚約した相手アン・ラトリッジが19歳で、リンカーン26歳の時に、病死。27歳で、神経の病33歳の時に結婚した相手は家柄もよく教養もあったが、肝癪持ちで、結婚生活は慰安よりもむしろ忍耐を要するものであった。34歳から5年に3度下院議員に落選。46歳で、上院議員に落選。47歳で、副大統領になろうとするが失敗。49歳で、上院議員に落選。51歳で、「第16代大統領」となる。奴隷を解放。南北戦争終了の5日後、凶弾に倒れる。(Abraham Lincoln)

ジェファーソン
 14歳で父死去27歳まで共に過ごした母を憎む。王朝風のかつらの着用を辞め、大統領の誕生日を祝日にし国民が祝うことを廃止。ワシントンにならい、第三期を拒否。黒人使用人を愛人として息子3人娘1人を設けたことが、今世紀になってDNA鑑定の結果、事実であると立証された。アメリカ「第3代大統領」。(Thomas Jefferson)

フランクリン・ルーズベルト
 一人っ子に生まれ母に溺愛され、後々も絶えず母から結婚を邪魔される39歳で小児麻痺にかかり下半身不随となり、補助具や杖がないと歩けなくなった。母は息子に政界からの引退を勧めたが、エレノア夫人は真っ向からこれに反対、歩行困難な夫を助ける。たった一度だけ、母の死後、母が残した形見を目のあたりにした時、人前で涙を見せた。「唯一の恐れるべきことは、恐れることそのものだ」と述べ、国民を勇気づけた。4選されたアメリカ「第32代大統領」。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトとは従兄弟にあたる。(Franklin Delano Roosevelt)
 
ケネデイー:
 父親は4人の息子全員に、2番でなく1番であることを厳しく要求、ジョンも生まれた時から激しい闘争精神を教え込まれた。母親ローズは、4男5女の子を生み、一人一人の子供のファイルカードを作り、それぞれの成長の様子を記録した。子供たちが食堂に集まる途中のかならず目に付きそうな場所に掲示板を置き、新聞や雑誌の切り抜きを貼っておき、食事のときの話題にすることができるようにした。そして質問を出したり、論評したりして、巧みにリードし、食事の時間を、ものを考える力と議論する力をつけるのに役立てた。勝敗を決めたケネディとニクソンのテレビ討論で、ローズは子供時代の議論が役立ったと思ったと言う。42歳で、アメリカ「第35代大統領」となり、若さとはつらつたる知性とケネデイ構想といわれた洋々たるビジョンで期待されたが任期半ばで狙撃され暗殺された。そのニューフロンティア政策は、目標を10年先においた、人口、生存、教育、住宅、都市郊外、科学、宇宙空間、オートメーション、余暇など多彩な分野にわたり、社会福祉政策、人種差別の廃止、平和共存の確立など、全世界的視野に立っての構想であった。(John Fitzgerald Kennedy)
 
クリントン:
 誕生の3カ月前に父が交通事故死。養父の酒乱による家庭内暴力を子供の頃必死になだめる。高校生代表団の一員として ケネデイ大統領と握手。その3カ月後に大統領が凶弾に倒れる。32歳から州知事。一期目の州政ではその独断専行がそっぽを向かれたことがある。46歳、歴代3位の若さで、アメリカ「第42代大統領」に就任。
 
ロイド・ジョージ:
 幼くして、父が死去、靴屋の叔父に育てられ、弁護士のところへ徒弟奉公に入る。弁護士になり評判をとり、下院議員へと転身。チェンバレンを激しく攻撃、暴漢に襲われたが意見を変えなかった。大蔵大臣等を歴任、金持ちの負担を重くする「人民の予算」を提出、「国民保険法」を成立させ社会保険制度の基礎を作り、首相として連立内閣を作る。大戦でイギリスに勝利をもたらし、ヴェルサイユ講和会議でも影響力を発揮した。(David Lloyd George)

スー・チーチ女史:
 2歳の時、父親(ビルマ建国の父、アウン・サン将軍)が暗殺される。「ビルマにおける民主主義と人権への非暴力闘争」で、1991年46歳で「ノーベル平和賞」授賞。89年7月、軍政当局に軟禁され、’02年5月、軟禁を解除されたが、’03年5月また拘束された。(Aung San Suu Kyi)
 
メンチュ女史:
 少女時代は砂糖キビ、コーヒー、綿花栽培などを手伝いながら、お手伝いとして働く。正式の教育は受けていない。21歳の時、父親が軍事政権当局に焼き殺され、同年、母親と二人の兄弟が誘拐され、拷問の末、殺される兄弟の一人は裁判なく、公開の銃殺刑であった。迫害を逃れるために81年メキシコに亡命、本格的活動を始める。「先住民の人権闘争の実態を知らせる重要な役割を演じた」として評価され、1992年33歳で「ノーベル平和賞」受賞。(リゴベルタ・メンチュ) 
 
ネルソン・マンデーラ:
 9歳前に父が病死。人種隔離闘争の中で反逆罪となり終身刑を受ける。27年6カ月ぶりに釈放されるアパルトヘイト下の南アフリカ黒人2千6百万人の精神的支えとなる。一人一票の参政権が実現し、1994年5月、大統領に就任。酒を人には気前よく振る舞ったが、自分は飲まなかった。「ノーベル平和賞」受賞。(Nelson Mandela)
 
ガンジー
 13歳で結婚、3年後に父死去。妻との営みにふけっていたため、父の死に目に会えずに終る。18歳の時、酒、女、肉食を断つ誓いを立て、ヨーロッパへ単身留学。3年間誘惑に負けず頑張る。南アフリカで言語に絶する人種差別を体験、決定的人生の転機となる。37歳でヒンズー教の禁欲生活の誓いを立て、政治と宗教の指導者として全生活を捧げる。イギリスと対決、インド独立を勝ち取る9回投獄され18回断食。ヒンズー教とイスラム教の和解をもたらそうとする運動の最中、ヒンズー教徒の狂信者による凶弾に倒れる。しかし、長男はやくざ崩れの生活をし、非業の最後を遂げた。(Mohandas Karamchand Gandhi)
 
ホー・チーミン:
 10歳の時、父の留学中に、母死去。父はその後、子どもたちを、自活するにまかせる。ベトナムの独立を決意してフランスに渡り、植民地解放運動を開始、中国でインドシナ共産党を創設、ベトナムに密かに戻り、ベトナム独立同盟を組織、反仏・抗日ゲリラを指導。自らの目標を実現するために困苦欠乏と危険をくぐり抜け、飢えと寒さと病気をのりこえ、逆境と戦う。フランス、日本、中国、さらにアメリカを相手にし、アメリカ軍の第一陣が立ち去るのを見届けたとき、心臓病で急死する。「ベトナ独立の父」。(Ho Chi-ming)
 
チトー:
 農家の15人兄弟の7番目として生まれる。徒弟奉公をした後、機械工となる。軍に徴集され、捕虜となりロシアへ。帰国後、共産党に入党、ユーゴスラビア共産党書記長となる。反ナチス・ドイツ抵抗勢力・パルチザンを組織、首相兼国防相を経て、大統領となる。この間、スターリンと衝突、ソ連型を排除したユーゴ独自の社会主義を構築、歴史、宗教、文化を異にする多民族国家ユーゴスラビアを、安定した統一国家として発展させた。(Tito)
 
キム・イルソン(金日成):
 貧しい農村に3人兄弟の長男として生まれ、小学校を終えた年に、父が死去する。故郷を離れ、共産主義青年同盟に加わり、抗日パルチザン部隊の政治局員、指導者として活躍。36歳で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国を宣言、初代首相に就任。中ソの干渉を排除し、北朝鮮の独立と主体性を確立させた。新憲法採択で、国家主席に就任。後ろの首筋に、肖像画では消えている、誰もが気づく大きな瘤(コブ)があった。マイナス要素であったかもしれないこの瘤は、その恰幅の良さと意志の強さにうち消されて、象徴的であった。

ラサロ・カルデナス:
 父が早くに死去、14歳で小学校を卒業後、徴税吏事務所・印刷所で働く。革命軍に入って後、将軍になる。州知事の後、中央政界入りし、内務・国防大臣、党総裁を歴任、大統領となる。長年英米資本の独占状態にあった石油会社の国有化を、カルデナスは不屈の意志で決断、これを発表すると、熱狂した市民がメキシコ市の中央広場を埋め尽くした。(Lazaro Cardenas del Rio)
 
ウィリアム・モリス・ヒューズ:
 ロンドンに貧しい大工の子として生まれ、幼くして母と死別。22歳で、オーストラリアに渡り、職を転々、労働党内で力を発揮。労働党政権の首相に就任。「強いオーストラリア」を掲げたその姿勢は国民から絶大な人気を博し、死後は国葬に付され10万人が参列した。(William Morris Hughes)
 
ヘンリー・キッシンジャー
 9歳の時、ユダヤ人教師であった父がナチに教職を追われたために、ギムナジウムを退学させられ、ユダヤ人学校に入れられる。さらに、14歳になるまでに、14人もの親族がナチスの手で殺される。ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人を、政府、民間を問わず一斉に追放。ナチスの脅威下にあったユダヤ人900万人のうち600万人の大量虐殺という人類史上まれにみるその迫害から逃れるために、ヘンリーの一家はロンドンへ逃げ、さらにニューヨークへと移り住んだ。ニューヨークの貧民街で、父は会社の事務員、母はコックとなって働き、ヘンリーはマンハッタンの ジョージ・ワシントン高校に入学。そこでオールAの特待生となる。高校卒業後、シティ・カレッジの夜間コースに入り、会計士への道を歩みながら、昼間はブラッシュ工場の職工として働く。第二次大戦に従軍、市民権を得て、まだ1等兵であったが、優秀な頭脳の持ち主であることを見いだされ、ドイツのクレフェルト行政機構の再建をまかされ、これをみごとにやってのける。やがて軍曹に昇進、ヨーロッパ駐留アメリカ軍の情報学校教官となる。帰国後、ニューヨーク州の奨学金を得て、ハーバード大学経営学部に入学、大学院を出て哲学博士となり、非常勤講師、助教授を経て、正教授となる。『核兵器と外交政策』を著し、認められてケネディ、続いてジョンソン大統領のブレインとなり、ロックフェラー大統領候補の演説草稿を手がけたりもし、ニクソン大統領の特別補佐官、国務長官に任命されて、実際上、アメリカ外交を切り回し、現代のビスマルクと称せられるまでになる。 ベトナム和平協定の功労により、「ノーベル平和賞」受賞。戦後一貫して反共反中国を通してきたアメリカ外交を、忍者外交により、180度転換させて、世界をアッと言わせもした。
 プレイボーイとしてのうわさも高く、その行くところ、いつも美女をともない、ロマンスのうずの中を泳ぎまわっている。彼の相手はハリウッドの大スターから、ポルノ映画に出演するグラマー女優、ワシントン社交界で花形とうたわれる才女から、パリの街かどで出会ったと思われる若い女性まで、多種多彩を極めており、当代のベスト・ドレッサーとしても名をはせている。 (Henry Alfred Kissinger)
 
ヴィクトリア女王:
 赤ん坊の時に父(ジョージVの4番目の王子)死去。18歳で女王となる。身長は、150cmの小柄。夫アルバートが42歳で、急逝。英国史上最も長く女王として在位。ヴィクトリア朝時代の象徴であった。(Queen Victoria)
 
ルイ・14世:
 ルイ13世の死去に伴い、5歳で、フランスの国王に即位。スペイン王女マリア・テレサと結婚。ヨーロッパ随一の陸軍創設、豪華なベルサイユ宮殿を造営。「朕は国家である」。
 
エリザベス一世:
 父ヘンリー八世が男子の世継ぎが欲しいばかりに、不倫の相手をはらませた結果誕生。2歳の時、母親が、ヘンリー八世によって処刑され、父によって母を奪われた。13歳の時、父死去。25歳で王位につく。国内の激しい宗教的対立を緩和させ、制海権を握り、植民地を拡大して英国の国勢を高めた。国民は女王の幸福と後継者の誕生のため、結婚を強く要請したが、生涯をはなやかな「処女王」として終わった。生涯独身(Elizabeth I)
 
チャールズ二世:
 19歳の頃、父チャールズTクロムウェル一派に首をはねられたという悲報を父の忠告に従って亡命していたフランスで聞く。慎重に計画を練りながら機会を待って英国に戻り、クロムウェルの後継者たちを打ち負かす。彼は洞察力の鋭い政治家であり、国民たちから慕われた。イングランド、スコットランド、アイルランドの王。(Charles II)
 
クロムウェル:
 18歳の時、父死去。カレッジを退学、家督を相続、21歳で結婚。23年間、農牧、家庭、祈祷の生活を経て、議会へ進出。43歳で軍務につき実力を発揮。「神を信じる正直な人間を将校に選べば正直な部下がついて来る」として陣容を固めチャールズ一世を刑して共和制を布く。イギリスの海上制覇の端を開いた、ナポレオンと比せられる武将。(Oliver Cromwell)
 
ハマーショルド:
 中東の動乱に際して活躍。内戦調停のためコンゴへ向かう途中で、飛行機事故死。携えていた本の書名は『キリストに倣いて』であった。第二代国連事務総長生涯独身(Hammersold)
 
ネルソン提督:
 9歳の時、母死去。叔父が少年ネルソンを、北極、西インド諸島等を連れ周り、マラリアにかかり家に戻され、勉学に励んで任官、21歳で指揮官として最初の船に乗船。フランス軍の破裂弾の破片で片目を失明。右肘をぶどう弾によって砕かれ腕を切断。額にも傷を負う。ナポレオンのフランス軍をエジプトで破り、トラファルガーの戦いで祖国を護り、艦上で英雄的な死をとげ、国葬に付された。イギリスで最も人気があり勲功を上げた海軍指令官。(Horatio Viscount Nelson)
    
T.E.ロレンス:
 父親の不義によってできた子。第一次大戦中、トルコの支配に対するアラブ人の反乱を指導。その英雄的行為は母親の名誉挽回のためであったといわれる。映画『アラビアのロレンス』の主人公となった人。46歳の時、運転するオートバイが子どもを避けようとして転倒し、波乱の生涯を閉じた。イギリスの探検家・考古学者・軍人。(Thomas Edward Lawrence) 
 
デヴィッド・ブランケット:
 盲目に生まれ、 4歳で隣市の盲学校の寄宿舎へ、 12歳で王立師範盲学校へ進学。その直後父親が煮えたぎる湯の入った巨大な桶の中に落ち、 1ヶ月後に死去。16歳で労働党に入党、貧困の中、働きながら猛勉強、大学へ。22歳で市議会議員、教師となり、長年の市議会での活躍、教師としてのキャリアが認められ、1997年、英国で初の盲目の大臣、教育雇用相となる。
 
ワレンバーグ:
 誕生3カ月前に、父親が癌で死去。一人息子を亡くした祖父と母は甘やかすことなく国際人となるべくこれを教育。6歳の時母再婚。高校を終えるまでに英独露語をしゃべるようになり、仏語を身につけるためにフランスに1年留学。アメリカの大学で、成績トップとなる。貿易会社、銀行などに勤め、世界中をまわる。32歳の時、スエーデンの外交官としてブダペストに派遣され、6カ月の間にナチスの大虐殺から10万人以上のユダヤ人の命を救う。直後ソ連軍に逮捕され、以来釈放されないまま、12年後刑務所で死去したと発表される。アメリカでチャーチルに次ぐ2番目の名誉市民に選ばれ、カナダ、イスラエルの名誉市民ともなる。(Raoul Wallenberg)
 
サダム・フセイン:( Saddam Hussein 1937〜)
 誕生前に父が死去。父は妻子を捨てたとも。母方の親戚に育てられる。イスラムの世界では4人まで妻を持つことができるが、自分だけが妻であることを望んだ母は、先妻を追い出して再婚。無学な農夫であった継父は、フセインに鶏や羊を盗ませてはそれを売ったという。クウェート侵攻、湾岸戦争、イラク戦争などでアメリカ他の攻撃を受け、その身は2003年12月米軍特殊部隊によって拘束された。政敵粛清、虐殺や毒ガス使用などで、国際的に悪評の高かった独裁者。イラクの元大統領

レーニン:
 皇帝暗殺の謀略加担で、兄が絞首刑になり、7カ月後本人も学生デモで逮捕される。国家検定試験を受け最高の成績で合格、弁護士となったが、革命運動に走る。1895年の投獄以後22年間、ボルシェビキ派を指揮。その間、シベリア、ドイツ、フランス、イギリスポーランドを転々とする。シベリアで女性革命家クループスカヤと結婚。農民がロマノフ王朝に対して立ち上がると、絶好の機会が訪れたことを確信、ロシア統治の全権を治める。旧制度の破壊、新社会主義国家機関の創設、大土地所有の没収、土地・銀行・大企業の国有化、赤軍の編成などをすすめ、ドイツと講話を結び内外からの干渉からも革命を防衛した。 ソビエト連邦の建設に努力した革命家。20世紀最大の政治的影響を及ぼした人物。 スターリンに毒殺されたとも言われる。(Nicholai Lenin)
 
ヒトラー:
 家政婦をしていたクララ・ベルツルを母に生まれる。13歳の時、父病死18歳で母死去。実業学校を途中でやめ、美術学校の入試に失敗、18歳から25歳まで、職もなく、ボヘミアンの生活を送る。物事をはっきりさせ、そこから結論を出す能力、引き出した結論を、過激な形で実行に移す勇気があった。軍事面、経済面で奇跡を行う人でドイツ人の92%、ほとんど全国民、10年足らずの間に業績によって、支持者とした。当時、事故か心筋梗塞で倒れていたら、ドイツの最大の政治家の一人として終るはずであった。56歳でピストル自殺。父の母が、ユダヤ人の雇主の息子に誘惑され、未婚のアンナ・マリアはメイドをしながら、ヒトラーの父、アイロスを出産した。ユダヤ人に対する憎悪はそこから出ているという見解もある。(Adolf Hitler)

ナポレオン:
 15歳の時、父死去。軍功により、24歳で少将に。27歳で、未亡人ジョセフィーヌと結婚。30歳で、フランス革命を終結させ、第一執政官に。ナポレオン戦争を推進、ヨーロッパを侵略・征服し、ナポレオン法典を公布。35歳で、フランス皇帝。40歳で、皇后ジョセフィーヌを離縁。翌年マリー・ルイーズと結婚。ロシア遠征を始め、失敗、敗戦を経て、退位。イタリア西岸のエルバ島に流され、その後、復位して100日天下の後、イギリス政府により南大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、厳重な監視下のもとに孤独な余生を送る。51歳。革命精神を輸出して諸国民の民族意識を目覚めさせもしたが、ヨーロッパ支配の野望のために、フランスのみで、100万余の兵が失われた。(Napoleon Bonaparte)

イヴェット・ルーディ:
 12歳の時、母と死別。16歳で工場のタイピスト。夜学と通信教育を受けたのみ。F・ミッテラン大統領に「女性の権利省」の大臣に抜てきされる。これを機に、コンプレックスの固まりのようなフェミニストが、変貌を遂げる。「性差別禁止法案」を提出、これを通過させる。(Yvette Roudy)
 
クレオパトラ:
 誕生の年に母が死去18歳の時父が死去。22歳の時、53歳の執政官ジュリアス・シーザーと出会い、共通の敵を相手に一緒に戦う。シーザーはエジプト遠征の直後からクレオパトラの神性の助けを得てガラリと人柄が変わったと言う。暗殺されたシーザーに続いてアントニウスと組し、世界制覇を夢みるが、オクタビアヌスに敗れ、毒蛇に噛まれて自殺する。
 
チンギス汗:
 9歳の時、父が毒殺され、他族の長老に預けられる。戦場においては極めて非情な反面、部下や友に慕われる人情を合わせ持っていた。13世紀前半、アジアからヨーロッパにまたがる史上空前の大帝国を築く。記録に残っているだけでも39人の后妃を持ったとある。モンゴル系、イラン系、ロシア系、ゲルマン系、インド系、中国系と世界の美女を後宮に迎える。都市に攻め込んだ軍隊はまず男を皆殺しにし、奪うものがなくなると犯した女を奴隷として引き連れ、次の攻撃目標に向かって移動していった。
 
テイムール:
 貧しさのために教育も受けられぬ村のがき大将であったが、仲間を思いのままに動かす抜群の指導力で部族のリーダーとなる。27歳の時、右腕と右脚に重傷を負い以後「びっこのティムール」と呼ばれる。モンゴル2万の大軍を1500騎で打ち破り、ついには、東は中央アジアから 西はシリアに至る「ティムール帝国を打ち立てる。オスマン・トルコを破り、明を討とうとする途上、シル河畔で病没。サマルカンドに壮麗な王宮やモスク、学校などを建設、多くの学者や芸術家を住まわせ、イスラム文化の発展に寄与した。
 
イブン・サウド王
 一族は100年にわたりアラビアの大部分を治めていたが、 イブン・サウドが生まれるとすぐ、一族はライバルであるラシド一族に地位を奪われ、少年時代を貧しい亡命者としてクウェートで過ごす。亡命者として暮らす間、父親はイブンを鍛え毎日一番暑い最中に火のように焼けた岩や砂の上を素足で歩かせた。20歳の時、奪回を計り、数年後にアラビアを完全に掌握する。日に5回、必ずメッカに向かって膝まづき、祈りを捧げ、酒、タバコ、賭事には一切手を出さず、映画を見ることもなかった。アルコール類をことごとく禁止15歳の時に結婚した相手が6カ月後に他界。その面影は生涯彼の胸から消えなかったという。ただ、200人近くの妻を持ち男44人女64人の子宝に恵まれた(King Saud)
 
パーレヴィ国王
 幼くして父が世を去ると、母とともにテヘランの親戚に身を寄せた。コザック旅団に10代で入隊、昇進を重ね、旅団の指導権を手にする。そのコサック旅団を率いてイランの首都テヘランを制圧、武力で実権を掌握した。宗教界が共和制に反対したために、大統領でなく国王となり、パーレヴィ朝がが創始された。イランの軍人・政治家・国王。(Reda Shah Pahlavi)
 
アヤトラ・ホメイニー
 幼時期に、父を失う。イスラム法学者の子として生まれる。学者としての評価を高め、アヤトラとなり、シャー(王)の政策に反対して国外追放される。シャーの近代化がつまずくと、イラン国内に支持層を広げ、帰国、熱狂的な支持を得て、カリスマ的存在として革命を成功させた。イラン・イスラム共和国の最高指導者。(Ayatollah Ruhollah Khomeyni)
 
始皇帝:
 13歳で、父、秦の荘襄王、死去。実父は呂不韋との説もある。幼少時には父とともに人質として趙にいた。父の跡を継いで即位。はじめは呂不韋に政治を専断されたが、成人すると彼を斥けて親政した。韓・趙・魏・楚・燕・斉を次々と滅ぼし、中国を統一。自ら始皇帝を名乗り、朕と自称し、天下を三十六郡に分けて統治。「万里の長城」など巨大な土木工事、焚書坑儒などの思想統制も大規模におこない、また度量衡を統一した。病没

ケマル・パシャ:
 7歳の時に、父死去。
母の意向に反し、軍の幼年学校に入学、第一次大戦で、イギリス連邦軍を敗退させ勇名をとどろかせた。トルコ共和国を誕生させ、初代大統領に就任。女性解放、教育改革などの近代化政策を推進した。トルコの軍人・政治家。(Mustafa Kemal Ataturk)

ガマル・ナーセル:
 8歳の時に、母死去。
中学生の時、反英デモに参加し、民主主義に目覚めた。陸軍士官学校に進み、軍人として、指導性を発揮。6発の弾丸がナーセルをかすめたが、彼は演説を続けた。この沈着な行動と演説でナーセルはエジプト人の心をつかんだ。その2年後、同じ場所で、スエズ運河の国有化を宣言。イギリスの中東支配に対する公然たる挑戦であった。エジプトの大統領。52歳。(Gamal Abdal Nasir)

マヌエル・アサーニャ:
 
9歳の時に、母が、10歳の時に、父が死去、幼くして孤児となり、少年時代を修道院学校で過ごす。マドリード大学院を出て、司法省に職を得、小説・評論などを手がけ、政治の世界に関心を示し、指導的役割を演じるようになる。共和主義行動党を結成、第二次共和政樹立に貢献。首相、大統領を歴任する。スペインの政治家。(Manuel Azana Diez)

ジャン・ベルトラン・アリスティド
 幼児に父を失い、敬虔なカトリック信者の母に育てられた。ハイチ国立大学を卒業後、カナダ、イスラエル等で神学と心理学を学ぶ。祖国で司祭になり、布教と奉仕活動を行うが、あまりにも急進的で、カトリック教会から追放される。大統領選挙で、貧民層の支持を集め当選、就任。軍事クーデターで国外に亡命。アメリカや国連の圧力と介入で政権復帰、任期をまっとうする。退任後、「民主主義のためのアリスティド財団」を設立。ハイチの神学者、政治家。(Jean Bertrand Aristide)

J.クビチェック:

 3歳の時に、父を亡くし、小学校教師の母親に育てられる。
医者でスタート、連邦執政官の秘書官となり政界に入る。連邦下院議員、市長、州知事を経て、大統領に就任。ブラジリア建設と基幹産業の開発を実現する。しかし、急速な経済開発は悪性インフレなどを招き、後に軍事革命政権から、10年間政治活動を停止させられる。自動車事故死。73歳。ブラジルの政治家。(Juscelino Kubitschek de Oliviera)

朱 全忠:
 父親と早く死別。地主の家で働いたが仕事熱心でなくいつも主人に殴られていた。反乱軍に参加、やがて一軍の將となり、時期を見て唐朝側に寝返る。唐を滅ぼし後梁王朝の初代皇帝に即位。
 
項  羽:
 幼時に孤児となる。叔父に引き取られて教育を受ける。叔父項梁と挙兵、劉邦(漢の高祖)とともに秦を滅ぼして楚王となったが、のち劉邦と覇権を争って敗れ、自刎(ジフン)。
 
諸葛孔明:
 9歳で母、12歳で父死去劉備の三顧知遇に感激し、軍師となる。三国時代、蜀漢の宰相。53歳。
 
劉備玄徳:
 生まれた頃、家は貧しく、父は早く死に別れたので、母と共に履クツを売り蓆ムシロを織って生計を立てた。人をひきつけるものがあり、関羽、張飛は早い頃からの仲間であった。三国蜀漢の初代皇帝
 
来:
 1歳になる前、亡くなった叔父の家の跡継ぎとして養子に行き、その妻に育てられる。養母を母と呼び、実母を義母と呼んだ。9歳で実母10歳で養母の二人の母が亡くなる。父は出稼ぎに出て、10歳の時9歳と4歳の下の子を連れて実家に帰り家長として借金と家事を引き受けることになる。日仏独の3国に留学。中華人民共和国首相
 
李   鵬:
 3歳の時、周恩来が指導した暴動に参加した革命烈士の父が国民党に処刑される。11歳の時に、周恩来夫妻の養子になる。17歳で共産党に入党。20歳で、モスクワ動力学院に留学。帰国後、各地の発電所に勤務。北京電力管理局を経て、国務院電力工業省次官、電力工業相、副総理を経て、総理に選出される。
 
石:
 8歳の時、塩の小売商であった父が死去。父の3番目の妻が、しつけ、教育の責任を負う。抗日統一戦線のために内乱を休止、国内統一を図ろうとしたが失敗、台湾に逃れ、死に至るまで反共復国の望みを捨てなかった。共産主義を憎み、中国共産党との闘いに一生を捧げた反骨の軍人中国国民党の指導者
 
フーバー:
 「FBI長官」を、死ぬまで48年間務める。何万人もの個人調査ファイルを保有する恐るべき法執行機関を作り上げる。26歳で父死去。女は男子の出世の妨げになるとの信条を表明、孝行息子のフーバーは母の死を看取るまで母と生活を共にする生涯独身後にホモであったことが発覚する。(J.Edger Hoover)


映画・俳優・舞台

イングリッド・バーグマン:
 2歳で母、12歳で父と死別。叔父に育てられる。少女の頃は極めて恥ずかしがりやで内向的であった。22歳で31歳の歯科医と結婚。13年後、突然夫と子供を捨て、ロベルト・ロッセリーニ監督の許へ走る。やがて別れ、8年後、ラルスと結婚。12年後、別れる。結婚歴は、3回。5児。約50年間に及ぶ女優人生を後悔なく演じ抜き、死の直前、「自分の豊かな人生に満足している」と語った。アカデミー主演女優賞を二度受賞。『カサブランカ』、『誰がために鐘は鳴る』、『ガス灯』、『凱旋門』他。スウェーデン人。67歳。(Ingrid Bergman) 
 
ジュリア・ロバーツ:
 幼時に、父母離婚。8歳の時父死去。演劇塾を開いていた両親、舞台に出ていた兄・姉を見て育つ。ホイットマンの『草の葉』を愛読。高校卒業後ニューヨークに出てモデル業。オーディションを受け映画界へ。『プリティ・ウーマン』など、演技力と魅力で人気を博す。女優史上最高額24.5億円の出演料となった「エリン・ブロコビッチ」で、アカデミー賞主演女優賞を勝ち取った。(Julia Roberts)
 
ジュリー・ガーラント:
 幼時に、父死去。子役で主演デビューしたュージカル『オズの魔法使い』が記録的な大ヒットとなり、アカデミー特別賞を受賞、17歳で大スターの仲間入りをする。「虹の彼方に」がヒット。歌手ライザ・ミネリの母親。睡眠薬中毒、麻薬中毒、神経症の発病、精神病院入院、自殺未遂を繰り返したあげく、47歳のとき、バス・ルームで冷たくなっているのを5人目の夫に発見される。
 
ジェームス・ディーン:( James Dean 1931〜1955 )
 厳格なクエーカー教徒の家庭のひとり息子として生まれる。9歳の時、母が癌で死去。父とも別れ、農場を営む叔父夫婦に育てられる。『エデンの東』等に主演。デビューしてわずか1年で、24歳の時、自動車事故で死去。

グレゴリー・ペック:( Gregory Peck 1916〜2003 )
 5歳の時、父母離婚。父親に引き取られて祖母の許で育てられる。家計が苦しいことを知って医学部を中退、石油会社で働き、友人の薦めで舞い戻って、薬学部に。ボート部に所属したが、脊髄を痛めて、演劇部に移る。『アラバマ物語』でアカデミー主演男優賞受賞。『ローマの休日』他。第17代アカデミー協会会長、ハリウッド俳優組合長などを歴任。品位にあふれた紳士的で優しい、温厚な人柄は「アメリカの良心」とも言われた。

ジョン・ウェイン:
( John Wayne 1907〜1979 )
 6歳の頃、父が破産寸前状態になり、又、肺を病み、アイオアの厳冬を避け、カリフォルニアに移り住む。13キロの道を老馬にまたがり、小学校に通学。11歳頃から、新聞配達、トラックの助手などで、小遣い衣服代を稼ぐ。アメ・フトで奨学金を得て、大学に進学。法学部に入って1年後、父母が離婚。撮影所でのアルバイトがきっかけで映画界に入る。『勇気ある追跡』でアカデミー主演男優賞受賞。『駅馬車』他。「西部劇の王者」。

ジーン・ハーロー:
 9歳の時、父母離婚。母と共にハリウッドに移り、エキストラとなる。16歳で駆け落ち結婚、一晩で一晩で連れ戻され、映画界に入ってから結婚した相手が自殺、翌年結婚するがすぐ別居と、悲運が重なった。ジーンの登場ではじめてブロンドがグラマーのシンボルとなった。26歳の若さ、その死は、全米に衝撃を与えた。人気のあったアメリカのグラマー女優。(Jean Harlow)

マリリン・モンロー:
 父を知らず、私生児として誕生。7つになるまで里子に出され、その後、母と暮らすようになる。それも母が精神分裂で病院に収容されるまで。その後3年間、孤児院や養護施設を転々、11歳から、母の友人の世話になり、親の愛情に恵まれずに育つ。秘書、ヌードモデルで自活。16歳で工員と結婚。19歳からモデル業。20歳で離婚。主演作がヒットするようになり、不幸な少女は不遇時代を乗り越え、銀幕のスターとなる。27歳ジョー・ディマジオと結婚、30歳、アーサー・ミラーと結婚。いずれも失敗。時間にルーズなこと、うるさく電話をかけてくることなどで、ケネディーを悩ませた。ブロンドヘアとグラマラスなプロポーションで、コメディやミュージカル、歌、踊り、演技を通して、かわいらしい色気をふりまき、格別の人気があった。何回か自殺未遂をはかり、ついに睡眠薬自殺。全裸死体で発見された。36歳。(Marilyn Monroe)
 
マネーデ・デートリッヒ:
 10歳の時、父死去。母の再婚相手もすぐ戦死。100万ドルの脚線美を『嘆きの天使』でさらす。ヒトラーの帰国を促す声に反発。ゲーリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ジャン・ギャバンらが恋のお相手。90歳。
 
オードリー・ヘップバーン:
 5歳の時、両親離婚。母とオランダに渡る。9歳から終戦の15歳までアンネ・フランク同様の生活を送る。20歳、一人でロンドンに向かう。バレーで挫折、ミュージカルの端役でスタート。23歳、『ローマの休日』でアカデミー賞授賞、世界的スターとなる。ベルギー人。(Audrey Hepburn)
 
ソフィア・ローレン:
 私生児として苦しい少女時代を過ごす。戦後、美人コンテストに入賞して映画界に入るが、下積みが長かった。「ふたりの女」で、それまでのグラマー女優から、苦悩を表現できる演技派へと変身、アカデミー賞主演女優賞受賞、一気に国際的大スターになった。「ティファニーで朝食を」のヘプバーン、「草原の輝き」のナタリー・ウッドを押さえての受賞であった。他に、「ひまわり」等。料理好きで料理の本も出している。イタリアの映画女優。(Audrey Hepburn)
 
メアリー・ピックフォード:
 5歳の時、父死去。残された家族の生計を立てるために、子役となり初舞台を踏む。サイレント時代を通じて、トップ・スターとして君臨、「アメリカの恋人」と呼ばれた。身長152pの小柄で、巻き毛がチャームポイントだった。アメリカの映画女優で、最初のスーパースター、愛くるしい美貌が特徴であった。ユナイテッド・アーティスツ社設立。3度結婚。(Mary Pickford)
 
アンソニー・クイン:
 11歳の時、父死去。学校にはほとんど行かず、祖母、母、妹を養う。16歳で農園の責任者。運転手、肉屋店員、伝道師、ボクサーなどの仕事を転々、画家を志したこともある。21歳の時に初めて映画に出演、下積みが長かったが、演技力で、『革命児サパタ』、『炎の人ゴッホ』、でアカデミー助演男優賞、『』、『アラビアのロレンス』等に出演し、人気を決定的なものにした。61年間に、300本の映画に出演。結婚3回、子を産んだ愛人3人、80を越えても子どもを作った。呼吸器不全で死去、86歳。(Anthony Quinn)
 
クラーク・ゲーブル:
 生後7ヶ月の時、母死去。16歳の時、高校を中退しタイヤ工場で働き始め、21歳で旅芸人一座に。『或る夜の出来事』で、アカデミー男優賞。劇中披露したシャツの下に下着を着ないファッションが流行り、全米の下着の売り上げが激減する。3人目の妻キャロル・ロンバートが飛行機事故で33歳で死去。『風と共に去りぬ』でレッド・バトラー役。(Clark Gable)

ヒッチコック:
 15歳の時、父が死去。父親はカトリックの厳格な信者で、しつけが厳しく、この父に留置所入りを経験させられたと言われる。父の死後、10代の半ばで働きに出る。『レベッカ』他。スリルとサスペンスの巨匠。(Alfred Hitchcock)
 
ヴァスラフ・ニジンスキー:
 9歳の時、父が愛人とともに家族を捨てて去る。ロシアの バレーの主席ダンサータとして、短くも数々の作品の主役をこなす。クラシック・バレーの伝統にとらわれることなく斬新な技法、高度な芸術性で天才の評価を得た。29歳で神経衰弱になり、ダンスを止め後半生の30年間はスイスの精神病院で過ごす。ロシア舞踊界の先駆者。(Vasilav Nijinski)

マイヤ・プリセツカヤ:
 12歳の時、父がスパイ容疑で銃殺される。ボリショイ・バレー学校時代からその抜群のテクニックによって注目を集めていたが、権力者にへつらわなかったために、冷遇され、長いこと海外公演にも参加させてもらえなかった。しかし、屈することなく、自らバレー制作に乗り出し、プロデュースし、主役をおどり、ボリショイ・バレー団のプリマ・バレリーナとして、大評判を勝ち得ることになった。(Maiya Plisetskaya)
 
サラ・ベルナール:
 母は二号生活を送った未婚女性であった。病気がちで肺結核を患い、成人するまで生きながらえるかどうか危ぶまれていた。16歳の頃には修道女になる決心をしていた。「誘惑することこそ女性の属性」と考えていたサラは、女性の役割を実行するのに必要な手練手管こそ演技の本質であると考え、女優としてそして女神として疾走するように生きた。66歳で35歳も年下の男と恋仲になり4年間同棲。70歳で右足を膝の上から切る手術をし、なお片足で舞台に出続け、最後は国葬に付された。現在演劇界で最も愛されたフランスの名女優。(Sarah Bernhardt)
 
ジョーン・クロフォード:
 父が家庭を捨て、12歳で全寮制の学校で働く。少女時代は貧困にあえぎうちひしがれており、いつも惨めな境遇にあった。ニューヨークに飛び出し踊り子となり、MGMに認められてスタート。 40年に及ぶ女優生活で80本以上の映画に出演、第一線で活躍した。(Joan Crowford)
 
エリザベス・テーラー:
 ユダヤ人。裕福な家庭に育ち、3歳の頃からバレーを習い始め、11歳の時、M・G・Mのプロデューサーがその美しさに惹かれ「家路」に出演させたことで映画界にデビュー。子役スターから、ハリウッドのトップ女優への道を歩む。18歳でホテル王の息子ニック・ヒルトンと最初の結婚をして以来、7度の結婚と離婚を繰り返す。濃い三日月形の眉、すみれ色の瞳、完璧な唇、丸みを帯びた額、細いウェスト、ほっそりとした足、それに声は震えを帯びた甘い高音で、それがロマンチックに耳に響く、ゴージャスなスクリーンの女王が似合う通称リズ。『クレオパトラ』、『熱いトタン屋根の猫』他。(Elizabeth Taylor)
 
チャーリー・チャプリン
 生後まもなく、アル中の父が家族を捨て、発狂した母は何度も精神病院へ収容された。5歳で初舞台。10歳のとき父死去。道端、孤児院貧民収容施設を転々とし、青年時代には、床屋の職人、雑役夫、寄席の端役などの職を点々としながら生計をたてた。生涯に4度結婚。数知れない恋や浮気を続け、ハイティーンの女性を求めた。製作、脚本、監督、主演、作曲、編集を一人でし、綱渡り、ローラースケート等の曲芸、スタントをこなす。『独裁者』他、80本の映画を製作。服装に金をかけること以外の唯一の趣味は本を買うことだった。楽屋にはたくさんの本がならび、チャプリンは暇を見つけては本を読んでいた。88歳。ユダヤ人。「サイレント喜劇映画の王様」。(Charlie Chaplin)
 
エリア・カザン:(Elia Kazan 1909〜2002)
 ユダヤ系ギリシャ人。4歳の時、両親と共にトルコの圧政を逃れて、アメリカに移住。『エデンの東』、『草原の輝き』等、心にしみる名作を残した映画監督。

オーソン・ウェルズ:
 8歳で母を、12歳で父を亡くす。ウィスコンシン州生まれ。父の遺産を元に、アイルランドに渡り、ダブリンで初舞台。26歳の時、『市民ケーン』は初監督作で、主演も務めた。
 
クエンティン・タランティーノ:
 16歳のシングル・マザーの長男として生まれる。カリフォルニアで映画を子守歌代わりに育ち、学校は高校1年でドロップ・アウトする。ヴィデオ・レンタル店で店員をしながら脚本を書き、16ミリの短編を映画を撮っていた。処女作「レザボア・ドックス」で一躍人気No.1若手映画監督に、第2作「パルプ・フィクション」でカンヌ映画祭パルム・ドール賞(グランプリ)、翌年アカデミー賞でも最優秀脚本賞を受賞するなど、監督として第一線にいて、その特異な風貌を生かして俳優としてもひっぱりだことなっている。脚本に、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』他。アメリカ映画監督・脚本家・俳優。(Quentin Tarantino)
 
ピーター・フォーク:
 3歳の時、悪性腫瘍で右目を摘出。ポリオで障碍を持つマイク・ホラハンが生涯の友。学校では、スポーツ他で中心的な存在。海兵隊のコック見習い等を経て、28歳の時、商船を降り、俳優を志願。独特の演技ではまり役の『刑事コロンボ』他で、エミー賞を3回受賞。最初の妻と離婚後、50歳の時22歳年下のシェラと道で出会い、後に結婚。
 
スティーヴン・スピルバーグ:
 ロシアから移民してきた、ユダヤ系のアメリカの三代目。少年時代は、やせっぽっちのいじめられっ子であった。両親が始終言い争いをし、家の中に冷たい風が吹いていたためか、カメラに熱中、10代になって間もなく、父の8ミリカメラを専用するようになる。4分間の西部劇を作ったのは12、3歳の時。その頃映画監督になりたいと思うようになる。高校時代に15本以上の短編を作る。16歳の時、初の長編。処女作の主人公は、65歳のジョーン・クロフォード。この年、両親離婚。20歳の時、才能を見込まれ、7年間の映画監督の契約を申し込まれる。最初の名作「激突」は23歳の時の作品。2年後、26歳で劇場用映画監督に起用され、「ジョーズ」で、スーパー・フィルムメーカーとなる。「未知との遭遇」、「E.T.」など、片親しかいない子どもの物語で、家族がばらばらになる悲しさ、寂しさと、一家団欒への憧れが見られるが、これは少年時代の思いが映像化されたものと言える。(Steven Spielberg)
 
ウォルト・ディズニー:
 21歳の時、フィルム会社を設立、契約を交わした配給業者の倒産により、企画が頓挫。女の子とアニメとの共演の企画もうまくいかず、会社が倒産する。しかし、ウサギを主人公にしたアニメ・シリーズの制作を打診されたときが、転機となる。契約更新の折、一人を除く他の同僚が交渉相手に寝返り、不利な条件で再契約を迫られてしまう。出直しを決意、屈辱を経験した同じ年に生まれたのがミッキー・マウスであった。制作は裏切った相手には気づかれぬように進められた。「ディズニーランド」を開園、広範な娯楽産業を展開した、活力旺盛な事業家。4人兄弟の末っ子。(Walter Elias Disney)
 
ロマン・ポランスキー:
 ポーランド系ユダヤ人。母がアウシュヴィッツのガス室で殺される。ロマンも収容所に入れられたが奇跡的に脱出に成功、生き延びた。始め俳優を志し、のち映画監督に。「水の中のナイフ」で注目を浴び、イギリスで「吸血鬼」など、ハリウッドで「ローズマリーの赤ちゃん」などを作り、国際的な名声を得た。天才映画監督。妻で女優のシャロン・テート等5人の惨殺死体が発見されるという悲劇に見舞われ、妻は妊娠8ヶ月の身で、犯行はカルト教団よるものであった。(Roman Polanski)
 
シルヴェスター・スタローン:
 イタリアからの移民の子で、貧民街で育ち、離婚した母親が開いたボクシング・ジムでトレーニングに励んだ。モハメド・アリとチャック・ウェプナー戦を見て感動、アル中の無名のボクサーが15ラウンド戦い抜くという筋立ての脚本を3日半で書き上げ、映画会社に売り込んだ。翌年、初の自作・自演の映画「ロッキー」が公開され、大ヒット。アカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞した。
 
ジョン・オズボーン:
 幼児に、父死去事業に失敗した母は、パブ従業人として働く。16歳の時、不遜な態度故に放校になり、劇団の裏方として働くかたわら、俳優として舞台に立つ。戯曲「怒りをこめて振り変えれ」で、無名の作者オズボーンは、一躍怒れる若者たちの中心的存在となり、これが映画化され好評を博し、以後、イギリス劇界を代表する劇作家に成長する。22歳の時以来、3人の女優と一人の劇評家と、結婚・離婚を繰り返している。イギリスの劇作家・俳優。(John James Osborne)
 
セルゲイ・M・エイゼンシュタシン:
 少年時代に父母が離婚、母が家を出る。27歳で、『戦艦ポチョムキン』を完成。『イワン雷帝』他。映画芸術に大きな影響を与えた、ソ連映画の開拓者。(Sergei Mikhailovich Eizenshtein)
 
S.ゴールドウィン:
 幼いときに両親を失くし、 孤児となる。少年時にロンドンを経てニューヨークに渡り、 手袋のセールスマンから始まり、18歳のときに貯金を元手に映画プロダクションを設立。「MGMのオーナー。ポーランド生まれのユダヤ人。(S.Goldwin)
 
ジョン・フォード:( John Ford 1895〜1973)
 13人兄弟の末っ子。小学校で評点一を幾つももらう。9歳の時、ジフテリアで7カ月間寝たきりになり1年間休学。22歳で9本の映画を作る。西部劇史上の最高傑作『駅馬車』他。


発明・冒険家

コ・ポーロ:
 生後まもなく、母死去。親類の家で養育される。父がマルコに初めて対面したのは誕生から14年後。フビライの膝下に17年。命じられるままに各地を踏査、帰国後『東方見聞録』を著す。(Marco Polo)
 
シュリーマン:
 9歳の時、母が亡くなり、直後に父がスキャンダルに巻き込まれ、叔父の牧師に預けられる。父親の不祥事により14歳で学校をやめた後、雑貨商で丁稚奉公を初める。貨物船のボーイになり、船の難破でオランダに上陸、貿易商の簿記係となる。18カ国をマスター。国際的な商人として成功。41歳で商会と仕事のすべてをたたみ、8歳の時本で見たトロイの古都の発掘に、50歳近くになってからとりかかる。そしてついにトロイの遺跡を発見する。二人でトロイの城を掘り出そうと約束をかわした仲であったミンナに、14歳の時、再会。「(その時)ミンナがまだ私を愛していることをかたく信じた。そしてこの考えは私の功名心をあおった。その瞬間から私は無限の力をおぼえるとともに、たゆまぬ精励によって出世し、ミンナに値する男であることを示そうとかたく心に期した。当時私が神に願った唯一のことは、私が独立の地位を得るまで、彼女が結婚しないようにということであった」と自伝に記す。10年後ようやく独立できた彼が結婚の申し込みを決意したときには、ミンナは他の男の妻となっていた。「その時の驚きは、そして落胆は、私が会うかもしれないあらゆる運命のうちで、最も耐え難いものだと当時は思えた」と追記。但し、最近、自伝のなかの幼少時に関する部分がねつ造であるということが発表されているという。(Schliemann)
 
ヘンリー・スタンレー:
 私生児のため親に捨てられ、6歳まで祖父に、その後は救貧院で育てられる。18歳でまだ見ぬ父を追ってアメリカに渡り、商人の養子となる。行方不明のリビングストンをアフリカで捜し、その後を嗣いで、総勢356人でアフリカ奥地探検大陸横断、ナイルの源流発見、探検記の出版などする。
 
ピアリー:
 3歳前に父死去。一人っ子で母からは過保護に育てられる。きわめてつき合いにくい性格に育ちあがった。「限られた友人間で名を知られるだけの生涯に甘んじたくない」と宣言。足指を8本まで凍傷で失うが泣き言一つ漏らさなかった。 ピアリー率いる遠征隊が人類初の「北極点到達」を成し遂げたのは1909年4月6日のことである。(Robert)
 
トーマス・エジソン:
 小学校入学後3ヶ月で子供の態度を非難された母親は、校長に抗議し、子供を退学させ、以後、自らの手で教育した。母親は元教師だった。失望した父には何度もムチで打たれた。母親はさまざまな本をエジソンに買い与えて読ませたが、その中の1冊『自然・実験哲学概論』という本が彼の生涯を決定した。家計の一助として11歳で野菜の行商12歳で列車内での新聞売子となり、自分の新聞も印刷発行する。ついで電信技手となり各地を放浪。給料はすぐ本や実験道具に消えてしまい、食事代も同僚に借りる始末だった。24歳で最初の結婚。研究書を読みあさり、昼夜兼行で実験を見張り、フィラメントのためには6000種以上の材料試験を行い、京都産竹が一番であることを見つけた。文字通り寝食を削り、油まみれになった。80歳になってから、国内でのゴム自給を目指してのテストした植物の数が約12、000種。異常なまでの仕事への集中力があった。白熱電球、蓄音機、映画、謄写版、アルカリ電池など、数多く発明1,919の特許を取り、3,400冊の研究ノートを残した。葬儀の日、アメリカ中の多くの家庭で電気が数分間消されたが、これはエジソンへの感謝を表すための大統領の提案であった。ただ、発明活動に没頭、妻子との関係や子どもの教育はうまくいかなかった。「発明王」。(Thomas Alva Edison) 
 
グラハム・ベル:
 父親の助手として聴覚障害者の教育に携わる。幼時に耳が不自由になった16歳の少女メーブルの家庭教師をすることがきっかけで、モールス信号の改良を考え、電話の発明に没頭するようになる。音声を電流で伝える「実用電話の発明」を誰よりも喜んでくれたのはメーブルであった。二人は発明の翌年晴れて結婚する。電話の発明によって得た富を、聴覚障害者と科学一般の研究のために使った、アメリカの発明家。

グリエルモ・マルコーニ:
 内気だったために学校教育は受けず、家庭教師に学んだ。大学の物理学者から電磁気学の理論と実験の手ほどきを受け、後に独自のアンテナを考案、2.4kmの距離を隔てて無線通信に成功。無線会社を設立、これが1900年マルコーニ無線電信会社に。翌年大西洋横断通信に成功。09年、無線通信の開発の功績を評価され、「ノーベル物理学賞」受賞。(Guglielmo Marconi)

ベンジャミン・フランクリン:
 イギリスからの移民の、貧しいろうそく屋に、17人兄弟の15番目として誕生。牧師になるべくラテン語学校に入学したが、父親が学費を出せず1年で退学。10歳で学校をやめ、異母兄の印刷屋の見習い工になる。17歳の時、この兄と喧嘩して別れ、印刷業を開始する。学校教育を殆ど受けず、すべて独学で、多くの外国語に通じ、多数の啓蒙的著作で名を成した。他方、避雷針を発明、独立宣言の起草委員となり、ペンシルヴァニア州知事となり、合衆国憲法制定に最長老として参加、国葬をもって葬られた。自己修養のための「フランクリンの13徳」は、常識的かつ現実的な言葉で、これらの実際的な諸徳によって、自己を律することを勧めた。「13.謙譲、イエスとソクラテスに見習え」。アメリカの政治家、実業家、科学者、啓蒙思想家。著書に、『フランクリン自叙伝』。(Benjamin Franklin)

ヨハン・ルートヴィッヒ・フォン・ノイマン:
 銀行家で、非常に教育熱心な父親に育てられる。ノイマン家で毎日の夕食時の日課になっていたのが、父親のリードのもとに行われる一種の「セミナー」であった。家族全員がめいめいその日に見聞きしたことから、面白いと思ったテーマを発表し、これをめぐってみんなで分析と討論を行うというものであった。テレビもラジオもなかった当時、父親の知人や取引先の要人、学者、実業家、経営者や船主などが招かれ、子どもたちに会食にいつも同席させ、興味のありそうな話題を引き出し、子どもたちに自由に質問させた。「コンピューターの父」。数学、物理学、経済学など多くの分野で不朽の業績を残している。()


実業家

ワナメーカー:
 貧しい家に生まれ、10歳で働きに出て、転々と職を変えた後、18歳で紳士服店に勤める。夜も睡眠時間を削ってまでして独立に備えて勉強を進め、3年後、無理がたたって病気に倒れ、父をも失う。不死鳥のような再起をくり返し、アメリカに一大百貨店網を張り巡らせるほどまでに成長。世界のデパート業の開祖。「デパート王」。(John Wanamaker)
 
ヘンリー・フォード:
 12歳の時、母親を失う。13歳の時、無軌道を走るスチームエンジン車を見て、衝撃を受ける。16歳で、車輌工場の見習い工となる。6日でそこをクビになる。真鍮工場を6ヶ月でやめ、造船所で6ヶ月、製剤所でで3ヶ月。職を変える度に新しい技術を身につけ、10代の終わりには、使い捨てた草刈り機を2年かけて改良する。2世が死去した後、80歳で社長にカムバック。(Henry Ford)
 
フランク・ロイド・ライト:
 17歳頃父が去る。33歳になる頃にはその建築スタイル、斬新な設計と技法が世に認められる。20世紀アメリカ最大の建築家。東京の「帝国ホテル」は、彼の作品。(Frank Lloyd Wright)
 
キング・ジレット:
 17歳の時、父がシカゴの大火災で全財産を失い、自ら生計を立てざるをえなくなる。巡回セールスマンをしていたが、発明に興味を持ち、安全カミソリのアイデアを思いつく。ある技師との出会いが実現をもたらし、販売を開始。ある先見性のある投資家が莫大な開発費を援助。本社をボストンに置き、後に世界最大の安全カミソリメーカーへと成長した。(King Camp Gillette)
 
ヘンリー・ルース:
 貧しい宣教師の子で両親とともに中国に渡る。8歳でどもりになり、矯正治療を受けるがなおらず、14歳で、家族と離れ一人アメリカへ渡る。大実業家の未亡人の経済的支援でエール大学に入学、弁論部に入り、弁論大会で優勝する。大学で知り合ったハッデンと二人で、アメリカで初の本格的な週刊ニュース雑誌タイムを創刊、後に、「ライフ」、「フォーチュン」など雑誌創刊にも成功する。出版以外に、8つのラジオ・テレビ局、製紙会社、不動産会社を所有し、巨万の富を築き上げた。(Henry Robinson Ruth)
 
ジョーゼフ・ピューリツァー:
 ハンガリー生まれのユダヤ人。17歳で、北軍への入隊を志願しアメリカに渡り、ドイツ語新聞の記者を経て、32歳で新聞社主になる。「ワールド紙」を買い上げ、庶民の声を反映させ、アメリカ第一の新聞に仕上げる。毎年、ジャーナリズム・文学・音楽などで功績を挙げた米国市民に与えられる「ピューリツァー賞」は、彼の遺志で創設された賞。(Joseph Pulitzer)
 
アリストテレス・ソクラテス・オナシス
 ギリシャ生まれのためトルコを追放され、16歳の年 アルゼンチンに渡り、以後6ヶ国語を自由に駆使して、さまざまな商売を手がけ、船主の仲間入りをしたのがきっかけで億万長者となる。所有する船舶の総トン数は600万トン以上、身辺にまつわる話には世界一豪華な「クリスチナ号」のようにすべて「世界一」の表現がついて回った。世紀の名ソプラノ、マリア・カラスと浮名を流し、女優のグレダ・ガルボ、ジーナ・ロロブリジーダ等数多くの女性とのロマンスの主として知られ、故ケネディ大統領の未亡人、ジャックリーン・ケネディ夫人と再婚した。しかし、晩年は必ずしも幸福ではなかった。最愛の息子を飛行機事故で失い、深い心の傷を受けた。死の床につきそったのは娘だけで、ジャックリーン夫人の姿はなかった。「海運王」。69歳。
 
アンドリュー・カーネギー:
 毎日16〜18時間働く母を熱愛して、22歳のとき、「お母さんがいる限り、僕はいつまでも結婚しません」と約束。結婚したのはその30年後、彼が52歳の時、母が死んでからであった。母が亡くなって15年間、悲しみのあまり母の名を口にできなかった。貧乏で、学校に通ったのは合計4年間だけ。12歳の少年の頃から、糸巻きなどの仕事で家計を助け始め、21歳で最初の投資。製鋼所は全米の50%を占め、大富豪となる。66歳で仕事からすべて手を引き、巨万の富を「慈善事業」で社会に還元していった。カーネギー・ホールを初め、カーネギー財団、カーネギー研究所、カーネギー工科大学等を設立。各地の教会へ寄贈したパイプ・オルガンは総数7千台。「鉄鋼王」。84歳。(Andrew Carnegie)
 
ハワード・ヒューズ:
 16歳の時、母親が急死、2年後に父親も世を去る。一人っ子のため両親から溺愛され、過保護の母に植えつけられた種々の脅迫神経症が、後半生を支配。非常に内気、無気力・無目的の劣等生であったが、孤児になって、にわかに意志強固な性格を現し始め、 親譲りのヒューズ会社の持株を一族から買取り、事業権を掌握、19歳で大富豪となる。パイロットとして、世界一周記録を破り、墜落3回。病原菌恐怖症など脅迫的神経衰弱に陥り、晩年15年以上外界と離れて生活。70歳で他界した「アメリカの億万長者」。(Howard Hughes)
 
マーカス・サミュエル:
 迫害を受けて、東欧からロンドンに移ってきたユダヤ人一家の10番目の息子。18歳で横浜に着いた時、懐には5ポンドしかなかった。貝の加工品を売ることを考え、 商会を設立、 タンカーを建造、 ボルネオ油田の開発に成功、 ロイヤルダッチ社を合併。「シェル石油の創業者。(M.Samuel) 
 
リチャード・シアーズ:
 14歳の時から、母と二人の妹を養うために地元の駅で働く。22歳で、時計の前売り商売に成功、時計販売会社を設立。カタログを使った通信販売こそ将来を賭けるに足る事業であることに気づき、協力して、時計と宝石を中心にカタログ発行による通販事業を行うが、04年、配布部数が春秋共に100万冊を越える。06年、シカゴに世界最大のオフィス・ビルを開設。売上高5070万ドルで全米一となる。(Richard Warren Sears) 
 
ノースクリフ:
 15歳の時、父の急病により、長男として、7男3女の兄弟たちを養う苦難に見舞われた。ケンブリッジ大学への進学を諦め、学歴を棒に振り、17歳で新聞記者となった。執筆だけでなく、経営・販売にも手腕を発揮、他の追随を許さぬ大衆紙「デーリー・メール」を作り上げ、イギリス新聞界の最大の実力者となった。タイムズを始めイギリスの主要新聞・雑誌を独占する一方で、政府の密使としても活躍した。(Alfred Charles Willim Northcliffe) 
 
ジョージ・イーストマン:
 父親の早世により、14歳で学校をやめて働く。24歳の時、写真装置の改良を考え、写真乾板の製造プロセスを完成、終生の友ストロングとイーストマン乾板会社を設立。ボタンを押すだけのボックス型の「コダック」は、2年間に10万台以上売れ、ロールフィルムの製造を独占、ポケット・サイズは世界中に広まっていった。(George Eastman) 
 
ジョージ・シン:
 幼少の頃、父を亡くし、家計を助けながら高校を卒業し、ビジネス・スクールに学ぶ。卒業後、事業を始めたが失敗して破産の憂き目にあった。しかし、不屈の精神力で立ち直り、若くして30にも及ぶ会社のオーナーを務め、一代にして、30代の若さで巨額の財をなす。『動機づけの秘蹟(The Miracle of Motivation)』は、知見に満ちた書。(George Shinn) 
 
ルチアーノ・ベネトン:
 10歳の時、父を亡くし14歳で、洋品店の売り子として働き始める。20歳で、妹の編み物の才能を生かしてセーターを売る事業に乗り出す。以来3人の弟妹とスクラムを組んで「ベネトン」ブランドのニットウェアーを売りまくった。ヨーロッパの他の国々に販売網を広げ、アメリカやアジアにまで進出。広告戦略を強烈に打ち始め、イメージ広告を開始。上院議員も務める。イタリアアパレル企業経営者。(Luciano Benetton) 


教育者

ペスタロッチ
 5歳の時、父死去。痩躯醜貌、偏狭にして貧弱なる一青年が、詩と音楽に深い理解を示す美貌と心の美しさを持つアンナと結婚。貧民児童の教育を手掛け孤児教育、小学校教育に生涯を捧げる。ルソー、カントの影響を受け、「人間性の覚醒と天賦の才能の調和的発達によってのみ教育の目的は達し得る」とし、それを導くには「教育愛」によるとした。(Johann Heinrich Pestalozzi)
 
アン・サリヴァン:
 貧しい移民の子で、アル中の父親には生計を支える能力がなく、子ども二人と母親は病気であった。5歳の時、眼を患い、手当を怠り弱視となる。8歳の時、一家をなんとか支えていた母が病死。一家離散、10歳の時、弟と救貧院に送られ、6年間を過ごし、そこで弟を亡くす三重苦のヘレン・ケラーの教育を始めたのは21歳の時。教室ではいつもヘレンに付き添い、講義を指話によって伝え、家に帰ってからその内容を点字で書き記し、点字で読めない本はすべてサリヴァンの目と指を経由してヘレンの頭脳に届けられるというようにして大学教育の全過程を終了させた。(Ann Sullivan)

フレーベル:
 誕生後1年もしないうちに母がこの世を去る。6人兄弟の末っ子。母親の愛を知らずに育ち、継母に冷たくされ、子供に対する母親の愛の大切さを痛感。小学校の教師となり、人間を創るために生きることを決意。ペスタロッチのもとで学び、早い時期からの人間教育に目を向け、世界最初の幼稚園を創設した、幼児教育の先駆者。(Friedrich Wilhelm August Frobel) 

ナポレオン・ヒル:
 9歳の時、 母親を失う。継母が来るが素晴らしい女性であった。駆け出しの新聞記者としてアンドリュー・カーネギーに出会って以来、カーネギーの要請で万人が活用できる成功の秘訣の体系化に着手。『成功哲学』を著す。 
 
D.カーネギー:(Dale Carnegie 1888〜1955)
 子ども時代に左人差し指を付け根から失う。若い頃、異常な劣等感に悩まされる。農家に生まれ、大学を卒業後、雑誌記者、,俳優、セールスマンなど様々な職業を経て、YMCA弁論術担当となり、やがてD.カ ーネギー研究所を設立。人間関係の先覚者として名声を博す。『人を動かす』、『道は開ける』の著者。「人を動かす三原則。1. 盗人にも五分の理を認める。2. 重要感を持たせる。3. 人の立場に身を置く」。

ジョン・トッド:
 生後すぐ、母が精神異常を起こし長く病む6歳で父死去。人生案内で知られる、卓越した牧師、著作家。(John Todd)
 
ル:
 幼児に、両親の愛と理解ある教育を受けられなかった。(Neill)
                                                 
ヤヌシュ・コルチャック:
 18歳の時、父が精神病院で死去。ワルシャワ大学で医学を学び、「孤児の家」、「ぼくらの家」の所長を兼任。子供たちの個性を伸ばし善、美、自由を愛する人として育つことを願い、子供たちの編集による「小評論」を発行。ユダヤ人ゲットーに子供たちと移され、「孤児の家」の子供たち200人とともに殺された。その教育実践と著作はドイツでもよく知られ、自身は助かる機会を与えられたが拒否したという。彼の「子供の尊重」についての主張は現在に引き継がれ、生誕100年を記念して、「コルチャック賞」が作られた。ポーランドの小児科医、作家、教育者。生涯独身。(Janusz Korczuk )