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ドストエフスキー
 13歳で、母が結核で死去。17歳で、父が農民に殺害される。健康に恵まれず、苦難続きの人生。おまけに恋愛はうまくいかず、一生貧乏暮らしであった。この女難続きの文豪に運命の女神が微笑んだのは、45歳の時のこと。相手は20歳の速記者、アンナ・スニートキナで、彼の2度目の妻となり、彼を崇拝した。『カラマーゾフの兄弟』は、生涯を通じて彼を悩ましてきた思想的・宗教的問題、人間の本性についての思想を集大成、壮大なスケールと推理小説をさえ思わせる緊密な構成でストリーが展開される彼の最高傑作である。59歳。(Dostoevsky)
 
トルストイ:
 2歳で母、9歳で父を亡くす。兄達を次々と亡くし、自身の子供13人の内6人に先立たれる。鼻が大きく、歯はかけて、唇は分厚く、目は半分閉じたようで容貌に自信がなかった。34歳の時、18歳のソフィヤと結婚。42歳の頃精神的危機を迎え、科学や哲学に解決を求めたが得られず、時には自殺の誘惑にまでかられる。しかし、ついに宗教に救いを見い出し、洗礼を受け苦悩から解放される。ドストエフスキーとならんで19世紀ロシア文学を代表する巨匠であるが、単に作家としてばかりでなく、文明批評家、人生の教師として、世界の思想界に君臨した。しかし、82歳の時、家庭の不和に絶えかね、あてどもなく家出。駅頭で倒れたが、妻に会うことを拒んだ。(Lev N. Tolstoy)
 
シェークスピア:
 14歳の頃、家が急に没落し、学校を中退する。教育は小学校まで。18歳で、26歳のアン・ハザウェイと結婚。6ヶ月後に長女、翌々年双生の男女が誕生。23歳で妻と仲たがいして家出。俳優になり、先輩作家の脚本に補筆したりしているうちに、自らも制作するようになる。『ハムレット』、『リア王』等の4大悲劇他を書き、52歳で死去。財産の大部分を長女スザンナに残したが、妻に残したものは寝台だけであった。イギリス最大の劇作家・詩人。(William Shakespeare)
 
ゴーリキー:
 11歳で孤児となり、貧困と暴力の中で少年時代を過ごした。丁稚、皿洗い、パン屋の小僧、波止場人足などを転々、帝政ロシアの下層社会の生活を自ら体験、放浪と辛酸の生活を送る。貧困の中から身を起こし、終始民衆の立場に立って彼らの生活を描いた、ロシアプロレタリア文学最大の作家。「ソ連文学の父」、「社会リアリズムの祖」と敬われた大作家の国葬は、赤の広場でとり行われ、スターリンを先頭にじつに80万人もの人々がこれに参列した。人間の醜さや獣性とともに、人間の本質に対する深い信頼を表現した戯曲『どん底』は、モスクワ芸術座で初演されて以来、各国語に訳され、世界中で大成功を博した。(Maksim G. Gorkii)
 
イプセン:
 8歳の時、父親が事業に失敗し、一家は破産状態となる。その後、満足な学校教育も受けられないまま、15歳の時、薬剤師の家に奉公に出る。その薬局では女中に私生児を生ませる。独学で大学受験するが失敗。30代後半までは不遇な時代が続いた。『人形の家』は、各国で上演され、その婦人解放思想によって当時の社会に衝撃を与えた。最後は、祖国ノルウェーで国葬によって葬送される。『ペール・ギュント』他。「近代劇の父」。(Henrik Ibsen)
 
ヴィクトル・ユーゴー:
 父母が結婚後まもなく不和となる。母は外地に赴任していた夫と離れて、パリで、子ども達と多く暮らす。父はナポレオンを崇拝、母は王党びいきで、これが初期の思想や作品に大きな影響を与える。18歳で母が死去。20歳で幼友達と結婚。妻が サント・ブーヴと通じて、その寂しさからある女優を愛するようになり、以後多くの女性と恋愛を経験する。40歳の時、娘が セーヌ河で溺死、以後10年間筆を断つ。46歳で貴族院議員。52歳でナポレオン三世に反対、その後19年間亡命生活を送り、その間、創作に専念する。ナポレオン三世没落で、民衆の歓呼に迎えられパリに戻るが、同胞の殺しあう乱れた姿を悲しみ、政治から離れる。83歳の時、国民的な大詩人、共和主義者のチャンピオンとして 国葬の礼を受けた。作品に『内心の声』、人類史をうたった『諸世紀の伝説』、普仏戦争をうたった『おそるべき年』、人間と自然の闘争をうたった『海に働く人々』、『既成宗教と真の宗教』、「この世に絶対的な悪は存在しない」という彼一流の楽観的な世界観で書いた小説『レ・ミゼラブル』等、多くの作品を残す。(Victor Hugo)
 
ダ ン テ:
 5歳の時、母が死去。後妻を娶ったがダンテ12歳の時、死去。ベアトリーチェに9歳で会い、雷に打たれたような衝撃を覚える。9年後に再会、今度はベアトリーチェが、彼に会釈し、ひどく感激する。かいまみる度に全身が震えたという。7年後に名門の騎士と結婚していた彼女が死去。この時ダンテ35歳で、深刻な精神的危機に見舞われる。以後、この初恋が生涯の創作活動の原動力となったことは事実であるという。40歳で結婚。政治的争いに巻き込まれ、ついには一人一党主義を決意、家族と別れて、孤独な放浪生活を始める。『帝政論』を書いて、イタリア統一の必要性を強調したりもする。放浪の一夜、夢の中にベアトリーチェが現れ、42歳で、彼女を主題とする詩を着想、天国の彼女との再会を描くという、一大叙事詩『神曲』を構想し、13年かけてこれを仕上げる。「愛こそが人間の魂を救済することを確信して、生涯をそれに生きたが、現実のベアトリーチェは聖女でもなく、それほどの美人というわけでもなかったという。『神曲』は、真善美の兼ね備わった積極的な「愛」の能力、つまり、それがいかに人間の魂の救済に役立つかをうたった作品。(Dante Alighieri)
 
ミルトン:
 清教徒革命に参加、自由と民主制のために戦い、クロムウェルの共和政府にも関与。自分の不幸な結婚を契機に『離婚の教理と規律』などについても述べた詩人。44歳頃、過労のため完全な失明状態となるが、透徹した心の目をもって人間の運命を直視するようになる。『失楽園』は、盲目の彼が口述によって、人間性を代表するアダムの罪と罰と、そしてなおそこに救いの可能性のあることを歌った大叙事詩である。(John Milton)
 
セルバンテス:
 父が床屋に毛が生えたようなしがない外科医で転々と居を移し、彼は正式の学校教育はほとんど受けていない。レパントの海戦で負傷し、生涯左手の自由を失う。帰国途中、海賊船に捕らわれ、5年間奴隷の生活、帰国後2度も投獄されるなど、貧困と失意に明け暮れる波乱の生涯を送る。その小説『ドン・キホーテ』が、今日もなお読者を楽しませている、スペインの小説家。(Cervantes)
 
グリム兄弟:
 少年の頃、父死去。兄が4人弟妹を育てる。兄ヤーコプは弟妹のために自分の結婚を見送り、弟ヴィルヘルム夫婦と最後まで一緒に暮らす。『グリム童話集』、『ドイツ語辞典』他。(Grimm) 

バルザック
 母が父より30歳以上も年下で、両親の仲は冷たく、バルザックは里子に出されたり、寄宿学校に寄宿させられたりして、母の愛を受けることが少なかった。母親はバルザックを 寄宿舎に入れたあと私生児を生み、これ見よがしに、その子をバルザックよりも可愛がった。8歳から14歳までの寄宿時代は、とりわけ孤独に苦しみ級友たちからも仲間はずれにされ、読書と夢想に耽ったあげく、濫読のために衰弱した。最初、文学への夢はなかなか思うようにかなわなかったが、あらゆる階級・職業とそれらの人間の気質を描破し、91篇の長短篇小説の傑作を残した。感情面でも波瀾に富んだ生涯を送り、22歳の時から22歳年上のベルニー夫人の愛人になるなどしている。儲け話に手を出し多額の負債を抱え込み、生涯、その返済に苦しんだ。近代リアリズム文学最大の作家であり、フランス文学史上最大の小説家である。『谷間の百合』他。(Honore De Balzac)
 
スタンダール:
 7歳の時、母死去。早くから内省的性格で、自分の職業を「人間の心理観察者」と答える。若禿でかつらをかぶり、鼻はぼってりとして、頬はふくれており、その上足が短かく、失恋して自殺までしようとするが、これを克服、著述に没頭する。パリの町中で倒れ、翌日急逝。59歳。生前は、バルザックその他のごく少数の作家によって認められていただけで、自分を理解してくれる読者を50年後100年後に求めていた。全集の完結により、その作品の全貌が明らかにされたのは、100年後のことである。『赤と黒』他。 生涯独身。(Stendhal)
 
エドガー・アラン・ポー:
 旅役者を両親に生まれ、1歳の時父が失踪、2歳の時母が亡くなる。孤児になり、子供のいないタバコ商夫婦に養育され、その夫人に溺愛される。年少にして、友人の若い母に熱愛を捧げる。大学に入り、恋人との婚約に失敗、賭博で莫大な借金をつくり、退学後、大酒に耽溺、養父と大喧嘩、ボストンに失踪。士官学校に入るが、これもやめ、詩集を出すも認められず、貧窮のうちに苦闘。懸賞小説に当選、13歳の姪と結婚。その後は、最盛期を迎え、秀作を排出。27歳の妻を失い、翌々年、未亡人となっていた昔の恋人と婚約。叔母を迎えに行く途中、泥酔、意識不明で、錯乱状態でこの世を去る。背徳者と見なされ排斥され、貧窮のうちに短い生涯を終え、1世紀近くも評価されなかったが、ひとたび認められるや、まれに見る鋭い感受性と分析的な頭脳と数理的な思考をもった芸術家として、多くの批評家や作家に大きな影響力を与えた。『黄金虫』他。(Edgar Allan Poe)
 
アレクサンドル・デュマ:
 3歳の時、父死去。放任された幼・少年時代を送り、教育は、僧侶からわずかに受けただけであった。小説はまず新聞に連載されたが、その快活で男性的でユーモアに富んだ英雄物語が大衆に与えた影響ははかり知れぬほど大きかった。『三銃士』、『厳窟王』他。(Alexandre Dumas)
 
アンデルセン
 貧しい家庭に生まれる。9歳の時、父が精神病になり、11歳の時、その父が死去父の父、祖父も精神病者であった。無知で迷信ぶかい母の手一つで甘やかされて育ち、小学校もろくに通っていない。母は再婚。野放しにされ、学業を投げ出し、読書に明け暮れる。20歳の時、母が保護施設に収容されるみてくれがよくなかったせいか失恋を何度も経験肉体的な欲望は人並以上にあったが、生涯一度も肉体関係を持たなかったと言われている。『みにくいアヒルの子』、『はだかの王様』等、156編のおとぎ話を書いた。葬儀の日にはデンマーク全国民が喪に服し、国王、王妃が葬儀に列席した。他に、『即興詩人』等。(Hans Christian Andersen)
 
スウィフト:
 誕生前に父死去。間もなく生母にも置き去りにされ、叔父たちの世話で成長。貧しくさびしく恵まれない少年時代を過ごす。大学を出て、政治家の秘書、田舎牧師、政治運動に手を出すなどするがうまくゆかず、46歳で教会の司祭となる。めまいと耳なりのする病気の中で、48歳の時、『ガリバー旅行記』を書き始める。深刻な政治的風刺に長じたイギリスの作家。78歳。(Jonathan Swift)
 
ジョルジュ・サンド:
 4歳で父、事故死。去った母とも、滅多に会えなくなる。父方の祖母に育てられる。2年間女子修道院で教育を受け、不良少女のリーダーとなり、学校をやめさせられる。18歳で結婚。離婚後、パリで恋愛遍歴。ショパンは8年間その愛人であった。72歳でこの世を去るまで、ほとんど途切れることなく愛人を身近に置いていた。90編以上の小説を著し、15巻の全集が出ている。また、2日に3通以上にあたる、約3万通にのぼる手紙を残している。(George Sand)
 
メルヴィル:
 13歳の時、父死去。学校を中退、職を転々。20歳で、貨物船に、後に捕鯨船に乗る。船中生活に耐えかねて脱出、食人種に1ヶ月軟禁される。救出されるが、横暴な船長にたてつき、島の拘置所に収容される。また捕鯨船生活を経て、ホノルルで幾つかの職業を転々、軍艦に乗り25歳の時、ボストンに帰り着く。ここで、これまでの放浪の体験談を生かした文筆生活に入り、28歳でマサチューセッツ州の首席裁判官の一人娘と結婚する。『白鯨』は、発表当時、不評であったが、現在ではアメリカ文学の最高峰の一つとなっている。(Herman Melville)
 
サマセット・モーム:
 8歳で母が結核で、10歳で父がガンで亡くなる。母の死は彼の心に一生消えぬ傷を残す。両親を亡くし孤児になってフランスからイギリスに送り返され、伯父の許に引き取られるが、異質で愛のない雰囲気の中で苦しむ。学校では生来の吃音が酷くなりいじめられる。ドイツのハイデルベルグ大学に入り、イギリスの医学校へ進み、医者となる。学校近くの貧民街の患者と接し、人生を学ぶ上でこれが役立つ。卒業の年に処女作を発表し、文学で身を立てる決意を固める。『人間の絆』他。人間とは結局矛盾にみち不可解なもの、というのが、彼の人間・作品の根底にある哲学である。享年91歳。(William Somerset Maugham)
 
モーパッサン:
 12歳の時、父母が別居、気丈で神経質な母に育てられる。役所勤めのかたわら小説を書き続け、30歳のとき『脂肪の塊』で認められる。300に及ぶ傑作短編小説、6つの長編小説を発表。梅毒にかかり幻覚を覚えるようになり、発狂して自殺をはかり、精神病院で42歳の生涯を閉じる。『女の一生』他。生涯独身。(Guy de Maupassant)
 
ク・ツウェイン:
 12歳前に、父死去。子供の頃から実社会に出て、見習い印刷工をしながら文章を覚える。その弟を自分が職場に招いたために亡くす。 35歳で、25歳の恋い焦がれた人と結婚するが、その息子を亡くし、執筆活動に入る。『トムソーヤーの冒険』他。アメリカで最も有名な小説家。(Mark Twain)
 
ブロンテ姉妹:
 末妹アンが1歳、エミリーが3歳、シャーロットが5歳の時、3姉妹の母が死去。荒野に囲まれた丘の上の牧師館で貧しい孤独な生活を送っていた3姉妹は、いずれも住み込みの家庭教師として働くようになるが失敗し、学校を始めるが、これも失敗。シャーロットは『ジェーン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンも小説を書く。 しかし、エミリーは誰からも求婚されることなく30歳で、アンも翌年29歳で亡くなり、若い頃激しい失恋を経験していたシャーロットが、やっと39歳で父の教会の代理牧師と結婚するが、それも束の間、数カ月後にこの世を去る。(Charlotte, Emily, Anne Bronte)
 
モンゴメリー:
 1歳の時、母死去。父と離れて祖父母に預けられる。小さい頃から詩や物語を書くのが好きで、16歳で詩や小説を新聞に投稿し始める。23歳の時、祖父死去。26歳の時、父病死。37歳で牧師と結婚。『赤毛のアン』他。(Lucy Maud Montgomery)
 
バーネット夫人:
 4歳の時、父死去。13歳頃から小説を書き始める。16歳で家族と共にアメリカに渡り、生活のための苦労をしながら作家を目指す。20歳の時、母が亡くなり、本格的な作家活動にはいる。『小公女』他。(Frances E.H. Burnett)
 
サン・テグ・ジュペリ:
 4歳の時、父死去。12歳で初飛行。飛行士を目指す。17歳で14歳の弟を亡くす。20歳で飛行士。『夜間飛行』等で、航空文学の先駆となる。44歳で、飛び立った飛行機が未環、帰らぬ人となる。他に、『星の王子さま』。(Antoine de Saint-Exupery)
 
サッカレー:
 6歳の時、父を失い、インドからイギリスへと帰る。ケンブリッジを中退遺産を相続、働く意欲を失う。結婚した妻が発狂。再婚していた母との愛のからみもあり、対女性態度の平衡を失する。 ディケンズと並ぶ写実主義の代表者で、風刺・諧謔に富む作品を残す。『虚栄の市』、他。(William Makepeace Thackeray)
 
チャールス・ディケンズ:
 父が借財不払いのため監獄行きとなり、12歳の時、学校をやめて工場に働きに出る。17歳である少女マライアを恋するようになるが、彼の独り相撲の感があり、失恋。この手痛い失恋体験は強烈で、そのあと性急な結婚をしてしまい、その妻とは性格が合わなかった。個性の乏しい妻との味気ない日常生活に耐えることができず、若い女優の中に初恋の相手の面影を見いだして、年甲斐もなく熱中する。失恋から22年後、すでに結婚していたディッケンズと、よその夫人となっていたマライアとの間に文通が再開された。古今を通じて最も偉大とされるイギリスの小説家。『二都物語』、『クリスマス・キャロル』他。(Charles Dickens)
 
エミール・ゾラ:
 6歳の時、父が急死。貧乏暮しを余儀なくされ、高校中退。港湾局の書記をしたりしながら半ばボヘミアンの生活を送るが、やがて文筆をもって立つことを決意。写実主義で西洋文学に影響を与える。『居酒屋』他。(Emile Zora)
 
チェーホフ:
 16歳の時、父が破産、一家の支柱となる。勉学のかたわら働き、貧民窟で飢えている両親と兄弟に仕送り。モスクワ大学医学部に入学後は、学費も稼ぐ。家族と自活のためにはじめたのが、短編小説の執筆。「人生とは自分で創造するものだ」チェーホフはこの言葉を愛し、灰色の時代にあって人間の尊厳の再認識を訴え、生きることの意味を人々に考えさせ、明るい未来の生活への希望を与えた。その戯曲はモスクワ芸術座の不朽のレパートリーとなっており、日本でも築地小劇場以来、何千回も上演されている。戯曲『桜の園』他。44歳。(Anton P.Chekhov)
 
ツルゲーネフ:
 母は20の村と5千人の農奴をもつ女地主で、賢明だが、わがままで猜疑心が深く短気で、家庭でも領地でも女王のように振舞い子供たちには厳しくあたり、農奴たちには残忍な体刑を加えた。この母の暴虐と虐げられた農奴たちの悲惨な生活が、少年の感じやすい心に深い傷を残した。『猟人日記』は人間扱いされていなかった農奴を、心も知恵も感情も持つ血のかよった人間としてはじめてロシア文学に登場させたもので、皇太子アレクサンドル二世は、これを読んで農奴解放を決意したという。世界的名声をかちえた最初のロシア作家。他に、悲しい愛の物語『初恋』等。(Ivan S. Turgenev)  
 
プーシキン:
 母方の曾祖父はエチオピアの黒人で、その遺伝は、彼の容貌にも名残を留めている。父母は、彼に冷たく、ためにプーシキンは幼い頃から保母のアリーナに親しんだ。アリーナは無知ではあったが、民話、民謡、伝説などを語って聞かせ、彼にロシア語の美を知らず知らずのうちに理解させた。『オネーギン』、『大尉の娘』他、名作を書き、美貌の女性と結婚したが、家庭生活は幸福ではなかった。決闘で死去。ロシア近代文学、国民文学を創始した詩人、作家。(Pushkin) 
 
ミハイル・ショーロホフ:
 幼くして、父を亡くす。革命とそれに続く内戦のせいで、中学4年までしか教育を受けていない。23歳で、一部を発行、14年の歳月をかけて、2000枚に及ぶ大作『静かなるドン』を世に出した。最終巻発売時には、モスクワ市内の書店に前夜から長蛇の列ができた。トルストイに連なるリアリズム文学の継承者として、ソ連文学にゆるぎない地位を占めた。60歳の時、「ノーベル文学賞」受賞。(Mikhail Aleksandrovich Sholokhov)  
 
ロマン・ロラン
 敏感な魂の持ち主で、精神的な危機が幾度かあった。人生に何を求めていいのか苦悶、トルストイに手紙を送って、生きる道について教えを請うた。トルストイの返事は思想混迷期の彼を力づけ、彼の行く手をはっきり示した。高等師範学校美術教授、パリ大学の音楽史の教授となったがその多忙な生活の間に「ジャン・クリストフ」10巻を書き上げる。「ベートーヴェンの生涯」などの一連の伝記は、人類の苦悩を背負いながら、真実のために苦闘した精神的英雄に対する、彼の感謝の賛辞である。理想主義的ヒューマニズムを信奉、反戦平和主義者として知られるフランスの文学者。「ノーベル文学賞」受賞。(Romain Rolland) 

バーナード・ショウ:
 学校は5年間だけ。子どもの時から給仕などをして働く。生来読書好きで、独学で勉強。20歳の頃、筆で身を立てると決心、9年間は原稿を送る送料にも事欠く。社会一般が古くから大事にしてきた伝統を大胆不敵に片端からこきおろした。しかし、「およそ若い頃のぼくほど内気な者はいないだろうし、内気なのをそれほどはずかしがった者もいないだろう。資本論が生涯の一大転機となった」と書いた。「ノーベル賞」を辞退するが、やむを得ず受け取ると、その場で「イギリス・スエーデン文学連盟」へ寄付する。「人間は必ず自分の人生を支配できる」という言葉を残す。(George Bernard Shaw)
 
ヘルマン・ヘッセ:
 エリート神学校に入るが中退、書店などに勤める。失恋や夫婦生活の苦悩から文学・芸術や自然とのかかわりによる魂の救済を求めた叙情的作品を多く書いた。夫婦関係の悪化などから精神的危機に陥り、ユング派精神分析医の治療を受け、これを契機に精神分析学にも親しんだ。『車輪の下』他。「ノーベル文学賞」受賞。(Hermann Hesse)
 
ヨハン・ストリンドベリ:
 父と女中だった母との間に生まれ、母は長男を可愛がり、自分は冷遇されるが、その母が13歳の時亡くなる。再婚した冷淡な父親や継母との葛藤に悩まされる。大学は、家の破産で学費が続かず中退。その後様々な職業を遍歴。3度の結婚は3度とも破綻。ノルウェーのイプセンと共に北欧の文豪として地位を築いたが、私生活では長い漂白の人生を送り、孤独であった。スウェーデン最大の劇作家。(Johan August Strindberg)
 
フランツ・カフカ:
 実存主義文学の先駆をなす、20世紀最大の作家の一人。ユダヤ系ドイツ。肺結核により夭折。生きている間はほとんど無名であったが、遺作により有名となる。何回か婚約したが、結局結婚できず、生涯独身変身』他。(Franz Kafka)
 
アルベルト・カミュ:
 誕生の翌年父戦死。母と兄で祖母のアパートに移り、2部屋に叔父も入れて5人で、アルジェの貧民街で生活。母は、ほとんどつんぼで極端に無口であったという。20歳で結婚したが、1年で離婚。自動車事故で、46歳で急逝。「ノーベル文学賞作家。『異邦人』他。(Albert Camus)
 
アンドレ・ジード:
 11歳の時、父死去。過保護でピューリタン的母親の一人息子として育ち、内向的な性格で、家庭の雰囲気にも学校生活にもなじまなかった。25歳の時、従姉のマドレーヌと結婚したが、性的交渉のない「白い結婚」であった。生命の歓喜と感覚の陶酔に身をゆだね、あらゆる道徳的に束縛からの自由を謳いあげた『背徳者』にくらべて、『狭き門』はあまりにも異質で対極的、純愛と純潔を描くもので、友人・知己は激しい戸惑いを覚えた。78歳で、「ノーベル文学賞」授賞。フランスの作家。(Andre Gide)
 
エリ・ヴィーゼル:
 両親、姉二人、妹と共に、家畜用貨車に詰め込まれ、ドイツ占領下のポーランド、アウシュヴィッツに連行され、父は飢餓による衰弱と赤痢で、母と妹はガス室で死亡。勉強好きで敬虔なユダヤ教徒だった少年エリは、ナチスの強制収容所で地獄の辛酸をなめた。解放されたとき16歳の少年だった。ジャーナリストとなり、ホロコーストを黙認した世界に対する怒りの文学を書き続け、各地の人権抑圧反対運動の指導者となる。「ノーベル平和賞」授賞。(Elie Wiesel)
 
テネシー・ウィリアムズ:
 南部に生まれ、各地を転々とする不安定な青春時代を送り、さまざまな職業につき、いくつかの大学に籍をおきながら、作品を書く。一度ミズリー大学に入学、予備将校訓練隊入隊試験に失敗し、父の怒りを買い大学を中退。祖母の援助を受けて、ワシントン大学からアイオワ州立大学に移って作劇を学び卒業。最初の長編に失敗、また放浪生活。『欲望という名の電車』が、ブロードウェイで大ヒット。初日の舞台で主演のマーロン・ブランドらは16回ものカーテンコールに応えた。戦後の演劇界をリードする劇作家になったが、最後は麻薬とアルコール漬けで事故死。人間の願望と挫折を暴力と性にからませて強烈に描いた作品が多い。私生活ではゲイであることを公にしていた。『やけたトタン屋根の猫』他。アメリカの劇作家。(Tennessee Williams)
 
アーサー・ミラー:
 アメリカのユダヤ系作家。高校卒業後さまざまな職業につき、ミシガン大学に入り、在学中に賞を得る。『セールスマンの死』では、息子に託した夢も破れて、保険金目当てに自動車を暴走させて死ぬまでを描く。前衛的な独特の文体で、性や神秘的思想を描写。 マリリン・モンローと結婚してからは、劇作活動は衰えた。(Arthur Miller)
 
エミリー・ディキンソン:
 妻子あるワッズワス牧師の説教を聞き、感銘を受け、彼に思慕の情を寄せたのは、24歳頃。実らぬ恋であるとは初めからわかっていたが、宿命の恋であった。自分の悲恋を打ち明けたのは妹と親友夫妻の、3名だけ。牧師への愛により詩情が堰(セキ)を切ったように溢れ出て、胸の恋人があたかも詩神であるかのように、彼女を詩作に駆り立てた。30歳頃からはごく親しい友人以外には会わない孤独の生涯を送る。生前には7編しか印刷されなかったが、全1775編が完全に出版されたのは死後、半世紀以上を経てからであった。アメリカの女流詩人。(Emily Dickenson)
 
ベン・ジョンソン:
 誕生前に父死去。母が煉瓦職人と再婚。俳優と作家を兼ねることになり、同僚俳優を決闘で殺し、死刑に処せられそうになるが、『十人十色』が上演され、地位を固める。英風刺喜劇作家。(Ben Jonson)
 
トーマス・マン:
 父の死後、一家没落、高校を中退し、火災保険の無給見習い社員になる。翌年やめ、大学の聴講生となり、処女作が認められて作家生活に。『魔の山』までの創作活動により、「ノーベル文学賞」を受賞。ナチス政権が成立すると、これに反対して亡命、のちアメリカに移住してファシズム打倒のために闘った。、ドイツの世界的文学者。(Thomas Mann)
 
マーガレット・ミッチェル:
 医学を志して入学した大学を、成績が思わしくないため、母の死を機にやめて帰郷22歳で結婚、2年で離婚。翌年再婚。翌年足を捻挫家に引きこもることを余儀なくされ、かねてから考えていた小説を書き始める。およそ10年かかって完成したのが南北戦争を背景とするロマン長編小説、『風と共に去りぬ』。超ベストセラーとなり、国の内外に記録的な数の読者を獲得。ピュリッツァー賞受賞。3年後の映画化も大ヒット。生涯で発表したのはこの作品のみ。自動車事故で不慮の死をとげる。足の不自由な彼女が、酔っぱらいのタクシーに轢かれたたためであった。48歳。(Margaret Mitchell)
 
セルマ・ラーゲルレーヴ:
 3歳半で、足が動かなくなり、8歳の頃奇跡的に回復するまで、使用人に抱かれて移動しなければなかった。学校には行かず20歳頃までほとんど家で暮らした。27歳の時、家計を助けるため教職試験に挑戦。この年、最愛の父が死去。物静かだが意志の強いこの女教師は、髪を短く切り、世間並みのおしゃれとは無縁に青春時代を送った。雑誌で短編賞を受賞し、作家生活に入る。スエーデン人で初めての「ノーベル賞」、女性初の文学賞受賞者。『ニルスの不思議な旅』他。(Selma Ottiliana Lovisa Lagerlof)
 
ミゲル・アストゥリアス:
 4歳の時に、父が職を追われ、祖父の田舎の村で育つ。インディオと白人の混血の判事を父に、教師をしていたインディオ女性を母に生まれる。大学在学中、学生運動の指導者となるが、逮捕され身に危険を覚えパリに渡る。帰国後外交官となるがクーデターにより辞任。亡命先で執筆。パリのビアホールで、68歳の誕生日に、「ノーベル文学賞」受賞の知らせを受けた。グアテマラの詩人・作家。(Miguel Angel Asturias)
 
シンクレア・ルイス:
 6歳の時、母と死別。文学好きの継母の影響を受ける。ピューリツァー賞を辞退。アメリカ社会をカリカチュアライズした作風で世界的な評価を得た。アメリカ人初の、「ノーベル文学賞」受賞者。(Harry Sinclair Lewis)
 
スティーブン・キング:
 2歳の時、父が家を出て、以後働き者の母に育てられる。7歳の頃から小説らしきものを書き始める。水道すらない家に住む貧乏暮らし、結婚してもそれが続くが、31歳の時には、大富豪作家になっていた。『シャイニング』、『ショーシャンクの空に』、『スタンドバイミー』等、出版界、映画界で活躍、30作中16作が映画化される。1999年現在、世界で3億冊を越えて読まれている、近代ホラー作家の代表。(Stephen King)
 
ウィリアム・サローヤン:
 アルメニア系の移民の子。2歳で父を失い、家が貧しく、7歳まで施設で育てられ、中学を2年で中退、電報配達や新聞売り子など、さまざまな職業を転々とする。楽天的なユーモアと感傷の作品で愛好されるアメリカの作家。『人間喜劇』他。(William Saroyan)
 
ヴァージニア・ウルフ:
 13歳の時、母が死去22歳の時、父が死去。生涯を通し、何度となく精神の崩壊の危機に見舞われるが、妻のすぐれた才能を熟知する夫の献身的配慮のお陰で切り抜け、小説家として円熟し、傑作を生みだしていく。最後は、長期にわたる精神病との闘いに疲れ、川に投身自殺。精神の病魔と闘い、女性の自立を主張した。イギリスの作家・批評家。(Adeline Virginia Woolf)
 
アーネスト・トンプソン・シートン:
 6歳の時、父の破産で、イギリスからカナダに移住、開拓生活に入った。ロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校に入学。極度の貧窮に耐えながら、ニューヨークやパリで絵画の修行と博物学を勉強。野外研究の成果をもとに動物物語を執筆し、ベストセラー作家となる。野生動物の保護区を作ろうと提案。動物と同様に虐げられていた北米先住民の熱烈な支持者となり、彼らの自然生活に学ぶ青少年教育のための森の生活技術運動を起こし、北米ボーイスカウト運動の初代会長に就任して活躍した。作家、研究者、画家、教育者、講演者、自然保護のパイオニアとして、ヨーロッパでも支持者が増えている。『シートン動物記』他。(Ernest Thompson Seton)
 
バイロン:
 3歳の時、父死去。奇行の多い両親の間に生まれ、特に母親に反発し、一方、偏狭な乳母の無理解な教育を受ける。6代目のバイロン卿となり、大学卒業の翌年上院議員となる。27歳で結婚、女性たちとの噂が絶える間がなく、翌年に妻と離別。また欧州に旅立つがむしろ非行の生活に嫌悪を感じ、そういった自我からの脱出を願い続ける。自我の無限な高揚に希望を持ったが、一方でその希望をうち砕く恐怖があり、「希望」と「恐怖」の間にあるテンションが創作力を駆り立てた。生まれつき足が不自由ということもあった。貴族社会の反逆児で、各国を放浪後、ギリシャ独立戦争に加わり、病死。ロマン派の代表詩人。(George Gordon Byron)
 
ワーズワース:
 8歳の時母が、13歳の時父が死去。伯父の世話になって成人する。ケンブリッジ卒業後、フランスでアネットと相思相愛の仲となる。帰国後、精神的危機を迎えるが、妹ドロシーに慰められ、コールリッジと親交を結び、やがて立ち直る。フランスとの平和回復を機にフランスに渡り、アネットとその娘に会い、すべてを清算、帰国後メアリーと結婚する。その価値が社会一般から認められるようになるのは晩年になってからである。汎神論的な自然観照をうたったイギリスの湖畔詩人の一人。(William Wordsworth)
 
ケ:
 早死にした姉の身代わりとして女児の格好で育てられ、幼時、ルネと女名で呼ばれた。両親の離婚と父の強制によって陸軍幼年学校、士官学校へと進んだが学校の空気に耐えきれず退学。商業専門学校に学び詩作を始める。プラハ大学に入り、冊子を自費出版。いよいよ作家を志して、詩集を出版。ヨーロッパ諸国を旅し、パリではロダンの秘書を務める。ドイツの詩人・作家。小説『マルテの手記』他。51歳。(Rainer Maria Rilke)
 
ツ:
 若くして両親が死去。3人の弟妹と自立生活をするため医者を志し、苦学して試験に合格。そのころから詩魔に引き入れられるようになり、生涯を文学に捧げると決意。イギリスに生まれ、ローマで、25歳で結核により夭折したロマン派の天才詩人。(John Keats)
 
シャルル・ボードレール:
 父の死後、1年半後に母が再婚。8歳のとき、ことごとく義父に反発。義父の紹介で入った名門中学は非行で退学。就職を探してくれる義父を無視し、公開の席では「あなたの首を締めてやる」とおどりかかったりもした。酒、女、ギャンブル、借金、ケンカ、悪い病気と放縦の限りを尽くしたが、詩の世界で不滅の作品を残す。『悪の華』他。
 
アルチュール・ランボー:
 父親が早く家を捨てたため、気の強いカトリックの母親に育てられる。 宿命的なヴェルレーヌとの出会いがあり、共に放浪。元来同性愛の傾向があったヴェルレーヌにピストルで撃たれ、決別。早熟な天才で、近代詩に大きな影響を与えた。フランス象徴派の詩人。(Jean Arthur Rimbaud)
 
ステファヌ・ラマルメ:
 5歳の時、母死去。まもなく父が再婚。家庭的には恵まれぬ幼年時代を過ごす。妹 マリヤと母方の祖父母の家で暮らしたり、寄宿学校をいくつか転々とする。妹 マリヤが13歳で急死。この幼い死者は、母の死よりもむしろ深く記憶の中に刻みつけられる。この死の経験が後の作品に大きく影響する。象徴主義の代表詩人。(Stephane Mallarme)
 
ヘルダーリン:
 2歳で父と死別、9歳の時義父も亡くなるが、大学に進み、ヘーゲル、シェリングと交友をもつ。シラーを訪問、ゲーテにも会う。古代ギリシャに憧れ、汎神論的な格調の高い頌詩などを作った。30歳代で精神に異常を来す。ドイツの抒情詩人。(Friedrich Holderlin)
 
ホイットマン
 長兄は精神病者で末弟は白痴であった。小学校を、弁護士や医師の給仕として働いている間に11歳で中退。印刷工等の職を転々とするが、同一職場に1年以上勤めることはほとんどなかった。大工の父の手伝いをしながら、詩作。母からクエーカー派の信仰を教えられ、影響される。独学で勉強、すでに12歳頃から小品文を新聞に投稿したりしていた。36歳の時に、『草の葉』を発表。ロング・アイランドの自然、ニューヨーク下民層との接触、混血黒人との恋愛、エマーソンの思想などがその下地となっている。『草の葉』第9版には、全詩作をほとんど収録、それが出版された年に永眠した。(Walt Whitman)
 
H.G.ウェルズ:
 地方商人の子に生まれ、丁稚奉公などをしながら苦学の末、ロンドンの理科師範学校を出て、教師をしながら文筆生活を志す。世界政府を終始主張した。『タイム・マシン』、『世界史大系』他。(Herbert George Wells)
 
ガブリエラ・ミストラル:
 父親の送金が途絶えたため、異父姉が働くアンデス山中の寒村で3歳から9歳までを過ごす。その後、転校先で放校処分を受けたため,、独学で詩を書き始める。15歳で分教場の助手となり、チリで最高の詩賞を受けるに至る。メキシコ教育改革委員から、外交官に転じ、各国で人道平和主義を訴える。ラテンアメリカで初の「ノーベル文学賞」を受賞、「ラテンアメリカの母」との敬称を受けた。チリの詩人。(Gabriela Mistral)
 
パブロ・ネルーダ:
 生後2ヶ月で、母が死去、継母に育てられる。8歳頃から詩を書き始め、ガブリエラ・ミストラルに文学の手ほどきを受ける。文学に没頭してボヘミアン的な大学生活を送り、外交官となり、詩作。上院議員に選出されるが、権利を剥奪され亡命。おびただしい数の詩集を出版、駐仏大使の時、「ノーベル文学賞」受賞。チリの詩人。(Pablo Neruda)
 
陶淵明:
 父母を早く失ったため、子どもの時から貧乏と戦わねばならなかった。不遇な官途に見切りを付け、41歳の時、「帰去来辞」を賦して故郷の田園に隠棲。平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、唐に至って王維・孟浩然など多くの追従者が輩出。散文作「桃花源記」他。中国、晋末宋初の詩人

杜  甫:
 実母を幼年期に失う。叔母に育てられる。7歳で初めて詩作、14、5歳で早くも洛陽の名士たちから絶賛された。若い頃、科挙に落第し各地を放浪。40歳を過ぎて仕官、左遷されたため官を捨て、以後家族を連れて放浪、湖南で病没。安禄山の乱に遇って幽閉されるなど波乱の生涯を送った。その詩風は写実的で力強く、沈痛の風趣があり、日本でも西行や芭蕉などが尊び愛唱した。後世、『詩聖』と呼ばれ、李白と共に李杜と並称される。中国、唐の詩人

タゴール:
 14歳の時、母死去。ヒンズー教の伝統にイスラム教がまじり更にキリスト教の影響を受けたタゴール家の14番目の末っ子として誕生。多分に甘やかされて育ち、幾度も学校をかえてみたが、小学校も中学校も、後にはイギリスに2回も遊学したが、いずれも卒業にいたらず、一枚も免状を貰っていない。母の死後、可愛がられた兄嫁に熱烈な愛を捧げるということがあったが、タゴールの結婚直後、この兄嫁は謎めいた自殺をとげている。41歳で妻を、その後次々と我が子や父を失い、精神的打撃を受け、思索と教育に打ち込む。『ギタンジャリ』は、この悲しみと失意の中で書かれた詩が集められたもの。この英訳詩集によって、50歳で、「ノーベル文学賞」受賞。1000曲以上の歌曲を作曲、舞踊劇を創作。晩年の十数年間は多くの絵画を創作、タゴール絵画展はセンセーションを巻き起こした。大自然と宇宙のリズムを、詩と音と「かたち」で体現しようとした。インドの独立・社会進歩・平和思想のために闘った。「インドの詩聖」。(Rabindranath Tagore)
 
D.H.ロレンス:
 父が学問のない酒飲みの炭鉱夫で、母はこれを嫌い、子供たちにその愛情を注いだ。16歳頃、ジェシーと交際を始め、二人の友情に似た愛情関係はこの後10年あまり続いたが、 ジェシーとの精神主義的な愛情にあきたらず、その間に他の女と交渉を持つ。ジェシーはまた、彼があまりにも母に愛されていることを知り彼の中に入って行けないままであった。26歳のとき、フランス語教授の妻フリーダを知る。彼女は33歳で、3児の母であった。2年後正式に結婚。精神分析の技法で、性と恋愛の問題を大胆に追求、現代文学に大きな影響を与える。肉体の愛による生の回復というテーマをもつ、『チャタレイ夫人の恋人』を書き上げたのは、42歳の頃であった。(David Herbert Lawrence)
 
レイモンド・チャンドラー:
 離婚した母に連れられて、子どもの頃に、シカゴからイギリスに渡り、教育を受ける。作家として自立したのは45歳。酒が原因で石油会社の会計監査の要職を失った翌年のことであった。ハードボイルドの騎手と言われ、これまでの探偵小説にはなかったストイックで行動的な私立探偵フィリップ・マーロウを登場させ、探偵小説を文学にまで高めた。ただ、愛してやまなかった17歳年上の妻シシーが亡くなると、作品が書けなくなった。「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」。(Raymond Chandler)
 
ソルジェニーツイン:
 誕生の半年前、銃の暴発事故で父が死去。スターリンについて不用意に言及した手紙が検閲でひっかかり、懲役8年の刑を受ける。矯正労働収容所、囚人科学者の特殊刑務所で刑期の半ばを過ごし、新設された政治犯だけの特別刑務所では、雑役婦、石工、鋳工として働く。刑期が過ぎたとき「釈放せずに、南カザフへ永久追放すること」という行政措置を受け3年ほど追放の身分となる。たとえ1行でも生存中に活字になることは決してないだろうと確信して、秘密に執筆していた作品、収容所の一日を描いた 「イワン・デニーソヴィチの一日」を発表されることになる。家宅捜査を受け、原稿の没収にあったりする。「真実へむかう道を阻むことは誰にもできないことであるし、その行動のためには、私は死をも受け入れる用意がある」と宣言、当局との対決姿勢を明らかにし、数々の公開状を発表。「ノーベル賞」受賞が決定したが、ソ連再入国ビザが拒否されることを危惧、欠席。1974年には再逮捕され、国家反逆罪のかどでソ連市民権を剥奪され、国外へと強制追放され、アメリカで、『収容所群島』全3巻を完成する。ソ連崩壊を予言していた。(Aleksandr I. Solzhenitsin)  
 
魯  迅:
 13歳から21歳までの間、祖父が魯迅の父親のために、試験官に賄賂を贈って告発され、獄中にあった父は、魯迅16歳の時死去。18歳の時から給費制度の実業学校に学び始め、22歳の時に日本に留学する。『阿Q正伝』は、中国の国民性を批判した名作と言われている。中国の文学者
 
パール・バック:
 宣教師の両親に伴われて、生後3ヶ月で中国に渡る。英語より先に中国語を話し、中国人乳母から中国民話を聞いて育った。アメリカ人農業宣教師と結婚、南京大学で共に教鞭をとり、障害児を産み育て、そのかたわらで『大地』を書く。これで、「ピューリッツァー賞」を獲得。アメリカ人で二人目の「ノーベル文学賞」受賞。社会福祉活動でも積極的に活躍した。(Pearl Buck)
 
ナサニエル・ホーソン:
 4歳前に、父病死。9歳の時足を傷め、その後数年、子供らしい遊びを離れて、読書に耽る。カレッジ在学中に作家になることを決心。以後10数年、孤独の生活を送る。絶望して原稿を火中に投じたりもした。匿名で自費出版。窮境が幸いしたのか、『緋文字』で、一躍文名をはせ、世界に認められたアメリカ最初の作家として、その地位を確立した。(Nathaniel Hawthone)
 
ガルシア・マルケス:
 母方の祖父母の家で生まれ、8歳まで祖父母のもとで過ごす。大学で法律を学びながら小説を書き始める。新聞社の特派員としてヨーロッパに派遣されるが、新聞社が閉鎖され失職、パリで窮乏生活を送る。『百年の孤独』の原稿を出版社に送るとき、送料が足らず、ストーブなどを売ってようやく送ることができた。これが中南米全体に旋風を巻き起こし、空前絶後のベストセラー、ロングセラーとなる。コロンビアの作家。「ノーベル文学賞」受賞。(Gabriel Garcia Marquez)
 
ウィリアム・スタイロン:
 13歳の時、母を亡くす。デユーク大学卒業後、処女作『闇の中に横たわりて』でアメリカ芸術院ローマ大賞を受賞注目される。『ナット・ターナーの告白』で「ピューリッツァー賞」受賞。『ソフィーの選択』はほぼ1年ベストセラーの座に座り続けた。寡作ではあるが、問題性を濃密にもった作品を着々と発表している。アメリカの作家。(Gabriel Garcia Marquez)
 
ジェームズ・ボールドウィン:
 ニューヨークのハーレムに私生児として生まれ、育った。高校卒業後、清掃員、皿洗い、ウェイター、雑用係と転々と職を変えながら文学に専念。アル中、麻薬中毒、暴力のるつぼと化したハーレムから脱出するべく、奨学金を得てパリに移り住み、デビュー作『山に登りて告げよ』を発表。以後、長編、評論集、戯曲等を次々と発表、白人に抗議する文学でなく、白人優位を無視する立場で、黒人文学に新生面を開いた。アメリカの黒人作家。(James Arthur Baldwin)
 
アリス・ウォーカー:
 小作人一家の8人兄弟の末っ子。8歳の時、過って兄に空気銃で撃たれ片目を失明、これが原因で引っ込み思案の性格に。大学時代に中絶を経験自殺未遂。この時の体験が初の詩集『かって』に。エッセイ『公民権運動は何をもたらしたか』。短編『死んでたまるものか』で作家デビュー。15年後、過酷な運命を愛の力で生き抜く黒人女性を描いた『カラーパープル』がピューリッツァー賞と全米図書賞を獲得、スピルバーグ監督によって映画化され大ヒットした。反戦平和・公民権運動の闘士。アメリカ黒人女性作家。(Alice Malsenior Walker)
 
リチャード・ライト:
 小作農夫だった父親が、幼児に、蒸発。母子3人で親類の間を転々とする。中学卒業後メンフィスに向かうが、差別と虐待を逃れるためにシカゴに出て郵便局に。大恐慌で職を失い、ニューヨークに出て働きながら創作活動。『アンクルトムの子供たち』で、作家デビュー。『アメリカの息子』が爆発的な売れ行きを見せたが、この中でリチャードは、白人社会でいかに黒人の存在が落ち込んだものであるかを迫力ある表現を用いて描き、黒人=犠牲者という図式を、特異なニュース性のある方法で、逆転して見せた。アメリカ黒人作家。(Richard Nathaniel Wright)
 
ジョゼフ・コンラッド:
 4歳の時、独立運動の指導者の父と母が、北ロシアへ流刑となり、叔父に引き取られる。7歳の時、母が肺結核で、11歳で、父が死去。転機が訪れたのは、20歳で、イギリス船に乗り込んだ時。聖書とシェークスピアを携え、航海士・船長の資格試験合格を目指して、規則正しい生活と英語の習得に熱心に励むことになった。20年の船員生活を経て、37歳でデビュー、自らの体験を素材に、次々と作品を発表、『闇の奧』は絶賛された。ポーランド生まれのイギリスの作家。(Joseph Conrad)
 
アーネスト・ヘミングウェイ:
 幼いころ姉とそろいの女の子の服を着せられ、髪も女の子のように長くして育てられ、小学校入学のころまで母親は双子に見せかけることを楽しんでいた。ヘミングウェイにとってこれがトラウマとなった。そして過去の秘密を隠すために、自分を「マッチョ(たくましい男らしさ)」マンに仕立て上げ、それを世に広めようとした。18歳の時、砲撃で脚に多数の弾片を受け、12回にわたる手術に耐え抜いて生還。生死に関わるような事故に何度か見舞われ、自動車事故で一命を落としそうになったことも3回。54歳の時の飛行機事故では、死亡ニュースが流れた。生涯に4度、結婚。『老人と海』で、「ノーベル文学賞」受賞。(Gabriel Garcia Marquez)
 
ヴァシリー・エロシェンコ:
 4歳の時、麻疹になり失明。モスクワ盲学校を卒業、エスペラント語をマスター、ロンドン留学を経て、来日。バラライカを弾き、自由を語るロシア詩人の姿は聴衆に大きな感銘を与えた。神近市子や長谷川如是閑らと親交を深め、児童文学を創作するかたわら、各地の集会で講演。リベラルな思想故に、最後は、日本から追放された。その後、北京大学で教鞭をとり、魯迅と交友を深め、日本語通訳や盲人教育に活躍した。ロシア・ソ連の詩人・作家・教育家。(Vasilii Yakovlevich Eroshenko)
 
ジョージ・エリオット:
 16歳の時、母が長患いの末、死去。メアリー・アン・エヴァンッズは大柄で器量の悪い、家庭にも友だちにもなじめない変わり者の、意固地で不器用な少女だった。内向的で、昼夜を問わず多くの時間を読書にあてるようになった。イギリス19世紀の小説を、娯楽から人生哲学の書に変えた革新者。イギリスの女流田園作家。(George Eliot)

ゲーテ:
 誕生の時、難産でほとんど死にかける。ゲーテ夫妻には、全部で6人の子どもが生まれたが、みな若死にし、残ったのはヴォルフガングと、1歳年下の妹コルネーリアだけであった。なかんずく息子には、養育と教育の限りが尽くされ、子ども時代は過保護と思えるほどであった。ライプチッヒ大学で法律を専攻、さらにッッシュトラスブルクへ遊学。ゲーテの父はその一人息子に限りない配慮と愛情を注ぎ、精神面でも身体の面でも厳しくしつけをし、いずれ何かすばらしいことをなしとげるだろうという大きな期待感を植えつけた。『若きヴェルテルの悩み』で文壇の脚光を浴び、ワイマール国で政務も担当、解剖・地質・鉱物・動植物の研究も行い、著名な『ファウスト』は世界文学の最大傑作の一つ。ドイツの詩人・作家。(Johann Wolfgang von Goethe)


音楽家・歌手

ハ:
 9歳で母父が相継いで死去。長兄の許に引き取られる。22歳で結婚。43歳の時、聖職会議との争い。45歳の時、市参事会と対立。51歳の時、校長エルネスティと争う。バロック音楽を集大成し、古典派音楽の基礎を開いた。『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ・シャコンヌ』他。享年65歳。(Johann Sebastian Bach)
 
ベートーヴェン
 5歳で飲んだくれの乱暴な父親にピアノを習い始める。父親はボンの宮廷に仕えるテノール歌手だったが、大酒のみで評判であった。ベートーヴェンの音楽教育は4歳ころから始められた。祖父がボンの宮廷楽長をしていて、彼の目標は祖父だった。ベートーヴェンの父親が息子を虐待したのは、自分の父親への引け目からであった。その祖父が卒中で、眼前で死去。ついで結核で弱っていた母親が16歳で死去22歳で父死去。30歳で耳疾を手紙に書く。この頃 ジュリエッタに『月光』を献呈。31歳、ハイリゲンシュタットの遺書。32歳、ジュリエッタとガ伯が結婚。35歳、テレーゼと婚約し、生活に必要な固定収入を得たら結婚すると暗黙の約束をする。36歳、V協奏曲初演。39歳、婚約解消。彼女から等身大の半身像を贈られ、この油絵を室に掲げ一生大切にする。何度も失恋。顔に、天然痘の痕。生涯独身運命』他。56歳。(Beethoven)
 
ワーグナー:
 誕生後、半年で父死去。母親はすぐ再婚。8歳の時、養父死去。50歳の時、長年連れ添った妻がいたが、作曲家リストの娘で、ワグナーの弟子のハンス・フォン・ビューロの妻である25歳のコジマと愛し合う仲となり、56歳で結婚。相思相愛のおしどり夫婦となる。台本もすべて自作した。歌劇『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』で前期ワグネリズムを完成。ドレスデン暴動に加担して亡命も。『ニーベルンゲンの指輪』等の楽劇によって、ドイツ・ロマン派オペラの頂点を築く。バイロイト楽劇場を建設。ドイツ最大の歌劇作曲家。(Richard Wagner)
 
モーツァルト:
 モーツァルト夫妻には7人の子どもが生まれたが、無事成長したのはマリーア・アンナとヴォルフガングだけであった。父親はザルツブルグの宮廷の副学長、作曲も行い、家では弟子を教えてもいた。一日中、家にはいつも音楽があり、幼いモーツァルトにとって、音楽以外のものはほとんど存在しなかった。
 3歳の時から、姉の受けるレッスンに関心を示し始め、歌を口ずさんだり、鍵盤をたたいたりした。まねをしていただけであったが、放っておくと、いつまでも引き続けたという。4歳になると演奏を習い、5歳には作曲を始めた。心から父に励まされたヴォルフガングは、調子の取り方は完璧で、音楽を覚えるのが早かった。6歳で、ヨーロッパ各地を演奏旅行して大喝采を浴び、12歳で、オペラを作曲した。
 モーツァルトの多くの曲には、同時代の作曲家からの模倣の跡があることが、研究者によって指摘されているという。模倣された作品は忘れられ、モーツァルトの作品が、はるかに素晴らしかったために、残されたと言える。
 学校教育は全然受けておらず、6歳の時から父に操られて、金稼ぎをしていた。オーストリアの作曲家。35歳。(Wolfgang Amadeus Morzart)
 
チャイコフスキー:
 14歳で母をコレラで亡くす。25年後に母の手紙の束を偶然見つけ出した時には、くる日もくる日も涙にくれていた。モスクワ音楽院の教授になったが、37歳の時、結婚に失敗して自殺をはかり、スイスやイタリアを転々とした。たくましくハンサムで、あり余るほどの才能に恵まれていたものの、生涯を通じて神経衰弱で苦しみ抜いた。『白鳥の湖』、『ピアノ協奏曲』、『ヴァイオリン協奏曲』他。53歳。(Tchaikovskii)  
 
プッチーニ:
 幼時に、父母と死別。代々ルッカの大聖堂オルガニストの5代目で、14歳にして教会のオルガニストとなり、宗教音楽家を目指す。18歳の時、『アイーダ』を見て、ミラノ音楽院に入り、オペラ作曲家を決意する。『マノン・レスコー』、『ラ・ボエーム』、『トスカ』と次々に傑作を作るに至る。『蝶々夫人』の初演は大失敗に終わったが、一日で上演を打ち切り、その3ヵ月後、多くの部分を書き換えたものを再演し、大好評を得た。イタリア歌劇作曲家。65歳。(Giacomo Puccini)
 
シューベルト:
 15歳の時、父死去。小柄。『菩提樹』、『野バラ』、『魔王』他、 600余の珠玉の歌曲、交響曲『未完成』他を残す。腸チフスで、病死。31歳。ロマン派の代表の一人。「歌曲王」。(Franz Peter Schubert)

サン・サーンス:
 出生時に、父を失う。2歳半でピアノを弾き始め、オルガンとピアノの名演奏かとして知られ、作曲家としても、傑作、組曲『動物の謝肉祭』他を残した。40歳の時、19歳の花嫁を娶ったが、2児を相次いで失い、夫婦仲が破局。53歳の時、最愛の母を亡くし、大きな打撃を受け、以後は召使いと犬と共に暮らした。死去に際しては、アルジェのカテドラルで葬儀が行われた後、パリのマドレーヌ教会で国葬が行われた。フランスの作曲家。(Charles Camille Saint-Saens)
 
シェーンベルグ:
 8歳でバイオリンを学ぶ。16歳の時、父が他界し、実業学校を中退、銀行に勤めながら、アマチュア管弦楽団でチェロを弾いた。勤めていた銀行が倒産、音楽で身を立てることを決心する。「無調音楽」を体系的に作り上げ、12音技法を発見する。オーストリア出身の作曲家。ユダヤ人。(Arnold Shonberg)
 
ブルックナー:
 幼時に、母を失う。重厚な作風で9つの交響曲、ミサ曲などを残す。 (Josef Anton Bruchner)

マーラー:
 夫婦仲の悪い両親の許で育ったために母親への愛着が強く、そのために中年になるまで恋はしても結婚できなかった。また一族には自殺したり精神を病んだ人が多く、こうした面でも悩みを抱えていた。41歳の時、20歳年下のアルマ と結婚。51歳で死去。19世紀の大作曲家。『大地の歌』のほか、9つの交響曲と、多くの歌曲を残す。ユダヤ人。(Gustav Mahler)
 
カールハインツ・シュトクハウゼン:
 11歳の時、父が行方不明となり、13歳の時、母がナチスに処刑され、さまざまな仕事をしながら苦学する。ピアノを6歳から、ケルン音楽大学で、音楽学、哲学、文献学等を学ぶ。メシアンの現代音楽に感銘を受け、作曲家になることを決心、メシアンに師事。ケルンの放送局のスタジオで電子音楽の作曲に着手。最先端の技術を駆使して実験的音楽の制作に取り組む。前衛音楽のリーダーの一人。ドイツの作曲家。(Karlheinz Stockhausen)
 
エンリコ・カルーソー:
 母は苦労と貧乏のほか何も知らない貧農の妻であったが、21人の子供を生んだ。その内18人に幼くして死なれ、そのためもあったのか、母はエンリコのためならどんな犠牲も惜しまなかった15歳の時その母が死去。それ以後どこへ行くにも母の写真を肌身離さず持ち歩いた。10歳の時に学校をやめさせられて、工場へ働きに出された。歌で生活できるようになったのは21歳の時であった。 魔術のようなカルーソーの美声は、単に神の賜物であっただけでなく、永年にわたる猛烈な訓練の成果でもあった。不屈の決意と不断の練習の結果だった。が、この不出生の大歌手は名声の絶頂にある時、突然48歳で亡くなり惜しまれた。
 
マリア・カラス:
 6歳で父の薬局が倒産し、一家離散。13歳で母とギリシャに帰り、音楽を学ぶ。25歳で54歳の実業家メルギーニと結婚するが、大富豪オナシスの事実上の愛人となり、離婚。4年間に173回のオペラを演じ、18人もの異なるヒロインを歌い分けた、「オペラ界の女王」。53歳で心臓発作に襲われこの世を去る。
 
エディット・ピアフ:
 貧しいパリの裏町に生まれてすぐ、母に捨てられ後には大道芸人の父にも捨てられ祖母の淫売宿で育つ。少女のころは典型的な不良であった。3歳で失明、7歳で奇跡的に回復。痩せて身長は147cm、見かけはごく平凡で貧弱で、10歳の時から大道で、父の芸のカネ集めのために帽子を回した。「バラ色の人生」で、一躍世界的に知られ、各地を公演。ボクサーと恋いに落ちたが、2年後、彼は飛行機事故で他界。交通事故、麻薬中毒、アルコール中毒などの不幸に見舞われつつも、「愛の賛歌」他のヒットを飛ばし、一方でイブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキなど若手歌手とのスキャンダラスな男性遍歴を繰り広げた。その男性遍歴のすさまじさは神話的。ピアフは歌に自信があっても、容貌に自信がなかった。そして極端な寂しがりやだった。葬儀はパリで行われ、その日、埋葬された墓地に、4万人余りの市民がつめかけた。47歳。「シャンソンの女王」。(Edith Piaf)
 
エルヴィス・プレスリー:
 双子の弟として生まれ、兄が生後まもなく死去。幼いころから教会音楽に親しみ、10歳の時、歌で入賞。電気会社に就職、勤めながら録音。ラジオ番組に出演、熱狂的歓迎を受ける。最大手のレコード会社RCAと契約、21歳の時、「ハートブレイク・ホテル」でデビュー。これは、50枚以上もある彼のゴールド・ディスク(100万枚突破レコード)の最初となる。30本以上の映画に出演、亡くなるまでに5億枚のレコードを売った。(Elvis Aaron Presley)
 
ジョン・レノン
 5歳の時、父母離婚。叔父夫婦に育てられる。不良少年と呼ばれ、中学も満足に通っていないが、4歳半の時から、叔父から読み書きを教わっている。毎晩、新聞を教材に、1音節毎に読み方を習いそれを書き取るという方法で。そして、新聞のすべての見出しに目を通したという。叔父の家にあった全20冊の世界短編傑作集を何度も読み返し、特にバルザックを愛読。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』がお気に入りで、何度も読み返し、ついには暗唱できるまでになっていたという。後に、エレキ・ギターに自分のすべてをそそぎ込んだ。「ビートルズのリーダー凶弾に倒れる。(John Lennon)
 
ポール・マッカートニー:
 16歳の時、母が癌で亡くなる。母の代わりに彼はギターを手にする。「たぶん、ジョンや僕が若くして母を失ったことにも理由があるのかもしれない。失ったからこそ、ぼくらは何かに熱中せざるを得なかったわけだし、音楽に夢中になったからビートルズとして成功できたのだからね<ザ・インタビュー、毎日>」。「ビートルズの主要メンバー。(Paul McCartney)
 
リンゴ・スター:
 リバプールで最も柄の悪いティングルの貧乏長屋に生まれる。3歳の時、両親離婚。6歳の時、腹膜炎の手術を受け、10週間近く生死の間をさまよい1年以上病院生活。13歳の時、母再婚。この年、肺炎になり2年間入院。15歳の卒業の時、学校の誰一人リンゴの顔を覚えている者がいなかった。「ビートルズのドラマー。(Ringo Star)

ポール・サイモン::
 160センチの背丈ユダヤ系の風貌に自信がなかった。小学校時代からの親友、アートガーファンクルと中学時代に、一緒に歌い始め、練習を重ね、レコード化、TV出演までするが、別々の道を一度は歩む。曲折を経て、「サオウンド・オブ・サイレンス」が、ある小さな放送局のDJに見出され、リクエストが増え始める。二人の絶妙のハーモニーがよく知られるようになったのは、映画「卒業」からであった。一度結婚するが離婚し、50歳の時、24歳の女性と再婚。セントラルパークの二人のコンサートには、53万人が集まった。 

ビリー・ジョエル::
 7歳の時に、父が家を出たため、母に育てられる。4歳からピアノを弾き始め、14歳の時に、「エド・サリヴァン・ショー」でビートルズを見て、音楽の道に進もうと決心。いくつかのバンドを経験し、ハリウッドのピアノ・バーで働くようになる。アルバム「ストレンジャー」はリリース早々、全米チャート2位に。ベートーヴェンとビートルズの影響を受けたというピアノは、大胆で活発なスタイルが特徴。一方歌の方は大胆さに繊細さが加わっている。アメリカのシンガー・ソングライター。(Billy Joel)
 
アーヴィン・バーリン::
 ユダヤ人迫害を逃れて、ロシアからニューヨークに移住し、その3年後、8歳の時に、父が死去。ために、自活・自立を迫られ、8歳で新聞売りを始め、やがて、16歳から歌うウェイターとなり、音楽に活路を見いだす。無学のユダヤ青年は、半世紀以上も第一線で活躍することになった。作った歌は1000曲以上、黒人音楽・白人音楽を見事に混交し、独自の音楽を作った。ミュージカル「アニーよ銃をとれ」、映画の主題歌「ホワイトクリスマス」が大ヒットする。「第二のフォスター」。(Irving Berlin)
 
ジョセフィン・ベーカー:
 ユダヤ人を父に、黒人を母に生まれ、幼い頃、祖母に預けられた。母の許に帰った時、住まいは最下層の貧民街、1部屋だけのあばら屋であった。その頃受けた虐待の数々を彼女は生涯忘れることはなかったという。13歳の時、ニューヨーク、コットンクラブのコーラスガールとなる。チャールストンを踊り、ジャズやシャンソンを歌い、リズミカルでコミカル、エキゾチックでセクシーなパフォーマンスで、パリのみならず、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。国際的な名声を勝ち得た最初のアメリカ黒人歌手。(Jpsephine Baker)
 
マドンナ:
 6歳の時、母がガンで死去。一時祖母に預けられる。長女であったため、継母の子供の世話をさせられる。ニューヨークに出た時は,、ポケットには35ドルしか入っていなかったが、 10年後には世界の音楽史上最高の人気女性シンガーとなった。(Madonna)
 
マライア・キャリー:
 3歳の時、両親が離婚。ベネズエラ系黒人の宇宙工学技術者とアイルランド系のオペラ歌手の間に3人目の子としてニューヨークに生まれる。母からヴォーカル・レッスンを受け、20歳でデビュー、たちまちトップに躍り出た。7オクターブは出ると言われる音域の広さと、ソウルフルな歌い方、モデルのようなすらりとしたスタイルで、スターとなった。ダーティーなイメージを武器としてのしあがったマドンナと違い、クリーンなイメージを持つマライアには、必死の形相がまったくない。(Mariah Carey)
 
レイ・チャールズ:
 7歳の時、視力を失い、15歳までに父母を続いて失う。盲目、孤児、黒人であることを克服。ドラッグ問題、多くの女性との情事とドラマチックな人生を繰り広げたが、人種差別と戦い、慈善公演を重ね、ろう者のための財団を設立。ジャズ、R&B、ポップスとあらゆるジャンルで魂の歌を歌う。1950年デビュー以来、12回のグラミー賞を受賞。和田アキ子から「神様」とあがめられている。(Ray Charles)
 
スティーヴィー・ワンダー:
 盲目で生まれたというハンディを克服、アメリカのソウル、ポップ界の第一人者となる。豊かな声量と、甘い質の声で数々のグラミー賞を獲得。長年の人種差別・隔離に反対してきたが認められて、35歳の誕生日に国連に招待された。「信じられないような誕生日の贈り物だ」と叫んだ後、「すべての人間は平等に生まれてきたはずだ」と語り、「自由の鐘」他を歌った。アメリカのシンガー・ソングライター。(Stevie Wonder)
 
クインシー・ジョーンズ:
 5歳の時、母が早発性の痴呆症になり入院、弟と共に父親に育てられる。小学校時代にトランペットを習い始め、10代でレイチャールズとバンドを組む。グラミー賞26回受賞など、マルチタレントで、アメリカ音楽界の巨匠。高卒後すぐの結婚を始め、4回結婚。(Quincy Jones)
 
ジョン・コルトレーン:
 祖父のもとで少年時代を送る。13歳の時、祖父と父が相次いで死去。小学校でクラリネット、教官の勧めでアルト・サックスに転向。2年間の兵役後、多くのバンドで活躍。10年の下積み生活を経て、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンクと出会い、モダン・ジャズの道へ。この年、「神の恵みによって精神的な目覚め」を体験。ゴールド・ディスクになった「至上の愛」は、最高傑作、ジャンルを越えて大きな影響を与えた。偉大なテナー・サックス奏者。40歳。(John William Coltorane)
 
ボブ・マーリー:(Bob Marley 1945〜1981)
 父はジャマイカ駐屯のイギリス軍大尉、母は地元ジャマイカの人で、混血に生まれる。少年期、父母が別々に生活、母親との貧しい暮らし、11歳で父が死去、母の再婚などがあり、その間、ゲットーと呼ばれるスラム街で過ごす。コーラス・グループを結成、創成期のレゲェを発展させ、アルバム『キャチ・ア・ファイアー』で、一躍世界的なスターになる。その後、レゲェはロック以来初めて誕生した新しいリズムとして広く認められることになる。「レゲェの神様的存在」。癌で、死去。


画家・彫刻家

ミケランジェロ
 6歳の時、母が死去。1歳の幼時に、大理石屋の妻である乳母のもとで育てられ始める。少年時代、鼻を殴られ形が崩れる。13歳で、徒弟となり彫刻を学び始める。入神の技を示した23歳の時の作『ピエタ』、29歳の時の『ダビデ』などの大理石像、絵画にシスティナ礼拝堂の大天井画、神罰の大旋風を描く『最後の審判』などを残す。サン・ピエトロ大聖堂の設計も手掛ける。人生の苦しみと不正への憤りを詩や書簡に書き残す。そのすばらしい遺作を一度でも見た人は、そこに人間の力の最大限の現れを感じ、美の偉大さに打たれるであろう。生涯独身(Michelangelo)
 
レオナルド・ダ・ビンチ:
 実母と5歳の頃別れ、正式に結婚した父の家に引き取られてしばらく暮らす。父親の数度の再婚で、5人の形だけの母に育てられる。『モナリザ』、『最後の晩餐』他、厳しい写実と深い精神性をそなえた不朽の作品を残す。生涯独身(Leonardo da Vinci) 

ラファエロ:
 8歳で母を、11歳で父を失う。ヴァテイカン宮殿の壁画、多くの肖像画、多くの聖母画を残したルネサンス期の天才画家。37歳で没す。(Raphael)
 
セザンヌ:
 美校の入試に落ち、ついに美校を残念。その後も官展には長年落選が続いた。知人の援助で、晩年になってやっと入選する。後期印象派の巨匠。(Cezanne)
 
ルーベンス:
 若い頃に、父死去。10代で学校をやめ、ある屋敷に小姓として仕える。3千点を越す作品の多くは、ミルクと血でできたような女を描いている。53歳の時、16歳の2度目の妻をめとる。(Rubens)
 
ド  ガ:
 13歳の時、母死去。好んで踊り子・競馬などを描く。フランス印象派の画家。(Edgar Degas)
 
クロード・モネ:
 12歳の時、母死去。学校嫌いで、読み書きとそろばんだけは何とか修得したが、それが、彼が学校で学んだすべてあった。教科書やノートにいたずら書きをしながら退屈な時間をやり過ごした。学校でちょっとした風刺漫画家となり、題材を町の著名人にまで広げていった。15歳で、町の名士になりつつあった。1874年の出品作「印象−日の出」が”印象派”の語源となる。印象派最大のフランスの風景画家。(Claude Monet)

 牧師の子として生まれ、16歳で働きに出され、ハーグ、ロンドン、パリと転々とし職を変える。結局は宗教に心を向け、ベルギーの炭坑で貧しい人々に奉仕活動を始めたがクビになり、絶望の中で絵を描くようになる。それから10年間、何百枚も描きあげたが、生前に売れたのは、1枚のみ。生活は献身的な弟テオの仕送りに頼った。娼婦たちにもてる ゴーギャンへの嫉妬から、左耳の一部を切り落とした。19歳の時に失恋しその時、欝病の徴候が現れたが、周期的に起こる狂気の発作に悩み、精神病院に自分から進んで1年間入った。最後には、農場の堆肥の山の陰で腹を打ち抜いて自殺。享年37歳。その天分が認められるには、死後10年以上の歳月が必要であった。ゴッホが、女性の愛にもう少し恵まれていたら、恐らくもう少し長生きしたであろう。だがまた、絵筆をとることもなかったかもしれない。日本の画商が最近手に入れた1枚には、125億円の高値がつけられている。(Vincent van Gogh) 
 
ゴーギャン:
 誕生の翌年、父が船中で動脈瘤破裂で死去19歳頃、母親が死去。妻メットとは、37歳頃、画家に転向したための悲惨な生活苦から別れ別れとなる。セイロン出身で13歳の混血女アンナと2年間同棲。50歳頃、梅毒の後遺症、心臓病、過度の飲酒、皮膚病に悩む。この頃の愛人パフラは14歳。(Gauguin)
 
サリバドール・ダリ:
 若くして母を亡くす。人妻ガラと一緒になり、父と決別。スペインのシュールリアリズムの代表的な画家。偏執狂的な異常な幻覚を古典的な手法で描く。(Salvador Dali)
 
ロートレック:
 少年の頃2度転倒して、両足の大腿骨を折り、ために生涯身体が不自由で、背は155cm以上には伸びなかった。生きている間はあまり認められなかったが、死後、国際的な名声を得る。(Lautrec)
 
フリーダ・カーロ:
 6歳で小児痲庇、19歳で全身骨折事故、2度の流産、母の死、32回もの手術、それに片足の切断。亡命中のトロッキーなどとの恋。すべての苦痛と苦悩を絵筆に転化。自由を愛したメキシコ美術界を代表する画家の一人。47歳。
 
ン:(Auguste Rodin 1840〜1917)
 3年続けて美術学校の入試に落ちる。ミケランジェロに傾倒、生命力と量感にあふれた作風の大家として現代彫刻に大きな影響を与える。『考える人』他。フランスの彫刻家。

グランマ・モーゼス( Anna Mary Robertson Moses 1860〜1961)
 12歳の時、家政婦として働きに出る。住み込みで15年間働き、二七歳で結婚。10人の子供を生み、そのうち5人を赤ん坊のうちに亡くし、66歳で夫と死別。病弱な娘を助ける生活の後、リューマチで刺しゅう針が持てなくなり、絵を描くようになる。本格的に絵を始めたその時、75歳。80歳で初めての個展。101歳で亡くなるまで現役で、素朴で暖かい田舎の風景を描き続け、約1600点の作品を残した。絵の価格は上昇しつづけたが、彼女の暮らし振りは変わらず、終生アトリエさえも持たなかったという。

エドヴァルド・ムク:
 7歳で母を、14歳で姉を亡くし、自身も病弱で死の影に脅える青春の中、17歳で、 画家になることを決意。39歳の時、愛人との間に短銃の発砲事件を起こし、左の薬指を失う。入院し、8ヶ月の間、疲労と飲酒からくる精神障害を治療。好んで、 病患と死とを主題に選んだ。ノルウェーの画家。表現派の先駆。『叫び』他。生涯独身。(Edvard Munch) 

ウラジミール・タトリン:
 2歳で母が死去、父がすぐ再婚。継母と折り合いが悪く、父ともうまくいかず18歳で家出し、船乗りとなる。モスクワの美術学校に通い、パリのピカソを訪問、キュービズムのレリーフ彫刻に衝撃を覚える。ロシア構成主義の理論を創始。ソ連の画家・デザイナー・建築家。(Vladimir Evgrafovich Tatlin)

ピカソ:
 言葉をしゃべり始める前に、絵を描くことを覚えたと言われている。生まれたときから、目にする父親はいつも絵を描いており、そういう父親の姿を見ているのが好きでその影響を強く受けた。絵のこと以外にはほとんど興味を示さず、アルファベットの順序を覚えることもできない有様で、教科書はどれも余白は絵で埋め尽くされていた。13歳の時、父親は息子が自分より見事に鳩を描くことができるのを知り、自分の絵筆と絵の具を息子に与え、以後絵筆を取ることはなかった。ピカソは、終生、この父親を尊敬し、「男性を描くたびに父親を思い出す」と語っている。幼いころに覚えた絵筆の動きは最後までほとんど途絶えることなく持続し、生涯に2万点を越える絵画作品を描いたが、この量は美術史上のあらゆる画家をしのぐものである。(Pablo Ruiz Picasso)

ジャスパー・ジョーンズ:
 生後間もなく両親が離婚、親戚を転々として育つ。ニューヨークで制作を始めるが、美術は独学に近い。27歳の時、ニューヨークで初めての個展。絵画18点と素描2点。そのほとんどが、今までモティーフに取り上げる人もなかった、およそ非美術史的な主題…旗や標的、数字などを丹念に描いたものだった。ほとんど無名に等しいジョーンズが、一夜にして有望アーティストとなっていた。アメリカの画家。(Jasper Johns)

ルノワール
 明るい色彩でパリ市民の生活や風景を描く印象派時代を経て、裸体を主とした情感豊かな色彩美を追求し、「色彩の魔術師」といわれた。晩年は、リューマチが悪化、車椅子を使い、ゆがんだ指に絵筆を結び付けて制作を続行。作品数は約6000点にのぼる。フランスの画家。(Pierre Auguste Renoir)