教育者> 
福沢諭吉:(1834〜1901)
 1歳の時、下級武士であった父が死去。次男。母子6人で大阪から中津に帰郷、貧しい少年時代を過ごす。19歳の時、蘭学を志して長崎に遊学、翌年から大坂の緒方洪庵の「適塾」で猛勉強。中津藩の蘭学教師として江戸に上り、蘭学塾を開く。外遊3回、ヨーロッパ諸国を歴訪、議会や郵便制度、銀行、病院、学校など、見聞を広め、『西洋事情』、『文明論之概略』などを著し、「時事新報」を創刊、国際的な視野から、当時の日本人を啓蒙する。議会を中心に民権と国権との調和を図ることを主張、また婦人の自覚と婦道の向上とを切望、『日本婦人論』等も著した。『福翁自伝』も名著。上野の兵変にも耳をかさず、子弟の教育に専念。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」は、『学問のすゝめ』の冒頭の警句。「慶応義塾」の創立者。66才の書に、「独立自尊」(心身の独立を全うし、自らその身を尊重して人たる品位を辱めざるもの、これを独立自尊の人という)がある。

新渡戸稲造:
 6歳の時、父死去。叔父の養子となり、貧窮の中で教育を受ける。札幌農学校4年の時、10年間会っていなかった母が亡くなる。米・独に留学、クエーカーに入信、米国人女性と結婚。京大教授、一高校長などを歴任。国際平和を主張し、国際連盟事務局次長・太平洋問題調査会理事長として活躍。カナダで病没。著書に英文の『武士道』他。
 
小原國芳:
 10歳の夏、母を、12歳で、父を亡くす。7人兄弟の3男。13歳で電信技手となり、なお向学の念止み難く、鹿児島県師範学校、広島高等師範学校とすすみ、29歳にして京都帝国大学に学ぶ。成城学園の創立者沢柳政太郎の招きにより上京。後に成城学園長として教育改革運動に情熱を傾ける。昭和4年、玉川学園を創立。情熱溢れる弁舌で、著述で多くの人々に語りかけ、日本の教育発展に生涯を献げ、教育界に多大の影響をおよぼした。理想に燃えつつも、学校経営は困難をきわめたが、独自の一貫教育の場として現在の総合学園に発展させた。『教え込む教師は上ではない。学ばせる教師が上の上である。教授よりも学習―studyすること―が貴い。学生のことをstudentと呼ぶワケである』。90歳。

森 信三:
 2歳の時、両親が別れ、転々ともらい乳をし、3歳の時、小作農の森家に養子となる。小学校高等科を卒業後、給仕から身を起こし、小学校教師を経て、広島高等師範に進み、京都大学哲学科大学院を修了。師範教諭13年勤務、その講義録「修身教授録」が名著となる。戦後は、大学教授をつとめつつ執筆活動。それらが全33巻の著書にまとまる。「人間は一生の内に、会うべき人には必ず会える。しかも一瞬早すぎず遅すぎず(巡り会いの必然性というものがある)」、「人生二度無し」、「我が身に降りかかることはすべてこれ天意」、「腰骨を立てよ」という言葉を残す。「国民教育の父」。

小泉信三:
 6歳の時、父死去。少年時代、福沢諭吉にかわいがられ、父の死後は何かとその庇護を受けた。45歳で慶応義塾塾長。57歳の時、東京大空襲の際、顔と両手に大火傷、半年入院。その後、東宮参与として皇太子の教育に携わる。福沢諭吉の高弟。文化勲章授賞。

中江藤樹:
 9歳で鳥取(米子)の祖父に引き取られ、後継者となる。翌年、共に愛媛(伊予)に移り、11歳の頃『大学』を学び、「天子より庶民に到るまで、壱にこれ皆身を修むるを以て本となす」に大いに感激し、これより聖人の道を学ぶことを一生の目的とした。15歳の時、その祖父が死去。18歳の時、父死去。27歳、禄を返して脱藩、郷里の母の元に帰る。先天的に人間の心に是非善悪を判断できる本質「良知」があり、それは日常の実践を通して確かめられ<知行合一>、深められていく<致良知>とする、王陽明の「致良知説」を唱道。江戸初期の儒学者。わが国陽明学派の祖。「近江聖人」。享年41歳。

中村ハル:
 7歳の時、母死去。4歳の時の股関節脱臼が尾を引き、生涯不自由を感じる身になる。父は後妻をめとらず、12歳の頃には、家族雇い人等十数人の食事を準備する。福岡師範卒業後、高等小学校訓導になり、以後教育畑を歩む。かたわら食を学び、専門教育の必要を感じて、福岡「中村学園を創立するに至る。生涯独身
 
岩田英子:
 6歳で父、7歳で祖父死去、10歳で母死去。60歳の祖母トヨと7歳の妹キクだけになる。11歳で結婚、14歳頃から機織り、米搗き、養蚕をし、高等小学校を卒業した頃には小作人との年貢の折衝、親類間の交際も自力で行う。夫で心身を労し「常に憂苦の旦夕」を送る。夫の没後、髪を切り、眉を落とす。大分「岩田学園の創立者

渡辺和子:(1927〜)
 9歳の時、2・26事件で、父が眼前で非業の死。機関銃で身体に43発の弾丸を撃ち込み、数人の兵が銃剣でとどめを刺して引きあげるのを、テーブルの蔭に隠れて至近距離から見る。尊敬するシスターに聖書を勧められたのをきっかけに、洗礼を受け修道女として信仰の道を歩みはじめる。ノートルダム清心学園理事長。著書に『愛をこめて生きる』他。「誰かに、その姿のままで愛されることによって、傷があることを恥ずかしいことと思わなくなり……愛されている者は、かくて、心を開いてすなおになり、同時に、傷つくことを恐れなくなる」。

吉田松蔭
 生後間もなく天然痘にかかり、高熱で1週間以上も生死の間をさまよう。やがて治癒するが顔にできた水泡が小さなくぼみとして後に残る。4歳で叔父吉田家の養子になり、山鹿流軍学師範としての厳しい教育を受け初め6歳でその叔父の死後吉田家を継ぎ更に父の弟から師範としての教育をたたき込まれる。脱藩の後、幽閉の身となるが藩主の内命により江戸遊学。アメリカの軍艦での渡米を企てて失敗、捕らえられる。2年後、松下村塾で子弟を薫陶。幕府の条約調印に関しての非を責め、閣老の要撃を謀って捕らえられ、29歳3カ月で、斬刑に死す。
 
石田梅巌
 8歳の時、京都の商家に勤める。5、6年で帰郷、野良仕事。22歳で再び京に出て商家勤め。「人の人たる道を求めて独力で読書に励み35、6歳頃からは、あちこちと町儒者たちの講義をも聴き歩いたが人性についての疑惑を容易に晴らすことができなかった。禅僧の小栗了雲に邂逅、心服し、これに師事、その啓発によってはじめて、性はもと無我(無心)であり、それは「ありべかかり」(あるがまま)にしてよく天理に合致するものであることを悟了、長年の疑問が解決した。ある夜、雀の声を聞いてついに解悟したとも。42歳の時商家を辞して独立、京都市中でたった一部屋から、聴講自由・入場無料の「心学塾」を開く。神儒仏三教の折衷、「先天良心説」に基づいて庶民を教化。59歳で没するまで、自炊生活を通し、道を講じ、それを自ら実践した。「石門心学」の祖。江戸中期の思想家。生涯独身。(バイガン)
 
広瀬淡窓:
 日田の御用商人の家に生まれ、 24歳で私塾(後の咸宣園)を開き、 全国から集まった4千名もの塾生を指導。生まれつき病弱で、 たびたび休講を余儀なくされたが、75歳の長寿を全う。54歳から「万善簿」を20年間つける。

津田梅子:
 7歳で、初の女子留学生として、他の4人とともに親元を離れ渡米。以来11年、ランメン夫妻のピューリタン精神あふれる愛情と教育のもとで過ごし、 18歳で帰国。1900年、塾生10名の女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設、女子の専門教育に尽力。すぐれた中等学校英語教師を生んだ。生涯独身

片岡仁志:
 京都大学卒業後、教職につき、38才で長野野沢高等女学校校長となる。禅の真髄を教育の場で生かそうとする方針で教育に当たる。「全力で事に当たれ。いい先生とは本気でやる先生である。対象は何でもいい。大事なことはその姿を見せることである」。生涯独身90才。


宗教家> 

道  元
 3歳で父、8才で母死去。「慈母の喪に遇(ア)ひ、香火(コウゲ)の煙を観て、潜(ヒソカ)に世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」。13歳で出家、比叡山に登り、顕密を学ぶ。日本の僧侶に満足を覚えず、24歳のとき入宋。天童山の如浄禅師のもとに3年間随侍し、28歳で帰朝。只管打座(シカンタザ)の禅風をおこす。永平寺を開き、大著『正法眼蔵』95巻の執筆と弟子の育成にあたる。「曹洞宗」開祖。54歳。
 
法  然:
 9歳の時、父、眼前で非業の死。一家没落の悲運にあう。同年の暮れ山寺に入る。修行12年間の比叡山に、13才で登る。母親行方不明となる。15歳で出家。「寝てもさめても、一心に念仏をとなえることを忘れなければ極楽往生は間違いありません」と 平重衡(シゲヒラ)にさとした。「浄土宗」開祖。
 
親  鸞:
 幼時に、両親と死別。数えの9歳で剃髪出家、比叡山延暦寺に入り、20年を過ごす。恵信尼との生活について、『教行信証』に「愛欲の広海に沈没し・・」と告白。「浄土真宗」開祖。90歳。
 
鑑  真:
 14歳の時、出家。55歳の時、第9次遣唐使として『唐の国より授戒師を連れ帰れ・・』の特命を受けた僧・栄叡(ヨウエイ)と普照(フショウ)に、日本への渡来を要請され、出国禁止の中、渡航を決意、『これ仏法の為なり、なんぞ命惜しからむ』。第一回渡航計画、密告により失敗。第2回渡航計画、嵐で船が大破。第3回、大嵐で船大破。第4回、密告により失敗。第5回、61歳の時、ようやく出国に成功するが、嵐で14日間漂流、海南島に漂着、一行は1年ほどここで過ごすが、途中栄叡死去。第6回、第10次遣唐使の帰国に合わせて和上他一行が密航、ようやく沖縄着。和上の眼、失明。瀬戸内海を抜け、難波津着。12年を経て、67歳の時。明けて4月、東大寺大仏殿前の戒壇で天皇以下430名に受戒を授けた。我国「律宗」の祖。
 
空  海
 19歳の若き求道者空海は、非僧非俗の行者としてきびしい山岳修行に入った。役(エン)の行者の大峰山・葛城(カツラギ)山をはじめ四国の高峰に挑み、阿波の大滝ヶ嶽、伊予の石槌山、土佐の室戸岬と必死の苦行を続けた。正式に僧侶となったのは31歳の時。入唐後、真言を正統に伝える惠果に非凡の才能を認められ、門弟千人を飛び越え3カ月で正統を継ぐ第八祖におされる。僧にとっては「親厚スレバ、諸悪ノ根源、嗷々(ゴウゴウ)(騒ぎ)ノ本ナリ、故に女人ニ親近スベカラズ」と、女性を修行のさまたげとした。四国八十八ヶ所は、空海が開いた霊場。「同行二人」の文字は、大師様(空海)と二人連れという意味。書家三筆の一人。62歳。   
 
一休宗純:
 後小松天皇の寵愛を得て生まれた私生児。母親が正妻でないために、密かに暮らすことを余儀なくされ、出家せざるを得ないという恵まれない環境に育った。6歳で出家。禅院の腐敗に坑し、一揆や飢饉の頻発する動乱の世を放浪する。遊女や湯女を買って、放埒な生活もする。21歳と54歳の時二度、自殺未遂。2回目の自殺未遂を契機に、人生を肯定する方向にそのエネルギーを凝集させていく。晩年77歳のときは、盲目の美女を愛したと詩集『狂雲集』に載せている。室町後期の臨斉宗の僧。88歳で没す。
 
日  蓮:
 数えの12歳で父母のもとを離れ、清澄寺の寺主道善阿闍梨に師事する。16歳で出家。鎌倉、比叡山、奈良、高野山などで修行し、「日蓮宗」を開く。61歳。
 
栄  西:
 8歳の時、出家を志し、13歳で比叡山に登り天台学を修す。14歳 で剃髪。28歳で渡宋、天台山で禅を学び、帰国して禅の布教につとめる。47歳で再び渡宋、茶の輸入栽培に尽力。政治的才覚があった。
 
慈  雲:
 12歳の時亡くなった父の臨終の遺言で出家。14歳で仏法に開眼、仏法を誹謗した誤りを悔いた。真言正法律の開祖となったがその説くところは超宗派的であった。山岡鉄舟などから「今釈迦」と言われた。
 
黒住宗忠:
 両親が痢病のため、7日の間に相次いで死去。慟哭して、絶息すること再度に及び、悲しみ極まって、労咳(肺患)を病む。百方治療の甲斐なく再起不能となり心中天命を覚悟、従容自若として死を待つうち、神の声を聞き、心機一転、死線を突破する。この時34歳。病気は、開眼のための直接の機縁、父母の死は、その第一の関門であった。時空の制約を受けた有限なる個の親に代るに、天地を久遠にあたためる真の大父母を受く。人間及び万物の中に神性を徹見する。「迷えば、魔寄る」。「黒住教」開祖。
 
良  寛:
 父が若くして家出同様にして家を出る。16歳で家督を継ぎ、名主見習いとなるが、18歳で家業を捨て、出家。26歳の時、他郷で、母の死を聞かされる。34歳で印可(悟りを得た)証明を受ける。40歳で「五合庵」に住みつき、それから19年間、ここを本拠地として、托鉢一筋の生活を送るようになる。晩年は、村童を友とする脱俗生活を送っていたが、69歳のとき、23歳で夫と死別した29歳のみめうるわしい尼僧、貞心尼が、その歌にこがれて訪れてくる。73歳で没する時、しっかりとつきそって末期の水をふくませたという。「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」他、和歌、漢詩、書も残した。
 
最  澄:(767〜822)
 11歳で出家。18歳、東大寺で正式の僧となり、比叡山にこもり修行。21歳の時、一乗止観院(後の延暦寺)建立。鑑真が伝えた一切皆成仏、すべての人が仏になれるという天台宗の教えに心を奪われ、37歳の時、渡唐、天台山に登り、多くの教典を入手。翌年帰国、宮廷から天台宗を開くことを許される。仏教が日本に伝わって200年、道鏡のように貴族や天皇にとりいって出世にのみ力をつくす僧が現れた時代。多くの反対があったが、「人は身分に関係なく仏になれる」という天台の教えは、民衆の間に広まり、やがて鎌倉時代にいろいろな宗派として花開くことになる。平安初期の僧、「伝教大師」。「日本天台宗」開祖。「一隅を照らさば、これ則ち国の宝なり」。

白  隠
 15歳の時、自らの動機で出家。19歳で母死去。「臨済宗」中興の祖。84歳。
 
夢窓疎石:
 3歳の時、母と死別母の遺言に従い、9歳で出家。10歳のとき、母の7回忌に法華経を読誦する。南禅寺住職、天龍寺を建立。西芳寺(苔寺)、瑞泉寺などの造園も手掛ける。
 
河口慧海
 15歳で戒律(酒を飲まない、肉魚を口にしない、女性を近づけない)を3年間守ることを信貴山の毘沙門天に誓う。これをほとんど生涯に渡って続ける。27歳から非時食(ヒジジキ)戒(朝と昼の2食だけ)を決心、一生これを貫く。この年、チベット行きを決意。餞別に、禁酒や禁煙を要求。これに40人が応じる。鎖国状態のチベットに入る前、まずインドへ渡ってチベット語を学び、入国の機会を伺って苦難の末ヒマラヤ地帯を抜け、ついに国都ラサに到着。ダライ=ラマに謁見、 仏教の原点に触れる。前後2回にわたる旅行で、 おびただしい数の経典類、 動植物の標本、 民族資料を採集。『西蔵(チベット)旅行記』も貴重な資料となっている。
 
蓮  如:
 6歳で本願寺の下女であった母と生き別れ。生涯この母を追慕する。継母のもとで43歳まで部屋住みの苦労をなめる。相続争いに勝ち法主につくが、比叡山衆徒に襲われるなど様々な法難に会う。生涯5度の結婚で27人の子供をつくった。73歳から84歳まではほとんど毎年子供をつくった。「浄土真宗」中興の祖。
 
一  遍:
 10歳の時、母死去。無常の理を悟り、出家。諸国を遊行、済度利生に熱心であった。一度妻帯、後、回心、妻を捨てて、参籠。「阿弥陀仏の名号を称え、一切衆生に流布すべし」の託宣を得たのが、36歳の時。「念仏踊り」を民衆に勧める。鎌倉中期の僧。「時宗」開祖。
 
隠  元:
 6歳の頃父親が旅行に出たきり行方を絶つ。20歳より3年間父を求めて放浪、その途中仏道に帰依。母が亡くなって、29歳で出家。福建省の生まれ。招かれ来日。我が国「黄バク宗」の祖。
 
岡田茂吉:
 父は、15歳でその父親の死去により家業を継いだ働き者であった。母は、6歳の時に父親を亡くし母親が残された3人姉妹を裁縫仕事などで細々と生計を立て養っていた。そういう二人を両親に持った茂吉は、虚弱体質で、12、3歳までは薬餌に親しみ通し、友達と一緒に遊ぶことがなかった。成人してからも1人で過ごすことが多く、画家を志望し東京美術学校予備課程に入学するが、悪質な眼病にかかり、泣く泣く退学。15歳の時、肋膜炎で入院。15歳から20歳くらいまでは目上の人、若い女性の前では相手の顔さえロクロク見ることができず、口も利けないと大いに悲観。18歳の時は重傷の肺結核にかかり、治療の見込みなしと診断され、薬草の本を読みあさる。さらに、右人差し指の筋をあやまって切断、右手の指が曲がらなくなる。そのうち財界人の伝記、西洋哲学に親しむようになる。22歳の時、最大の理解者であった父が死去。23歳で小間物商として独立。24歳の時、'女房冥加'に尽きる女性と結婚。しかし、長女が難産ですぐ死亡、次女が死産。さらに、事業に致命的な深手を負い倒産、その2ヶ月後に、妻が三女出産を間近にして腸チフスにかかり、難産の末、嬰児の後を追うようにして他界。倒産による借金返済は以後22年間続く。翌年、22歳のよ志と再婚後、大本教に入信。我が子のように可愛がり養育していた亡き姉の遺児が、大本教の本拠地綾部で溺れた店員を助けようとして19歳で溺死。ために入信後2ヶ月で大本教を去る。更に関東大震災で大打撃を受け、1歳の長男を震災後流行した疫痢で失う。再び入信。45歳で、大本教の布教師に転じ、神秘な神霊の力による救済活動に献身。その後、子飼いの弟子たちと大本教を脱退、53歳の誕生日に「大日本観音会」を設立。相手にどんなことでも話させる雰囲気作りが情報を存分に吸収する岡田のコツであった。
 大方の人が信仰を求める動機は、「苦悩からの解放」である。そうした大衆の欲求にその教義は真っ向から応えている。「私の腹には'光の玉'がある。'光の玉'は、浄霊を取り次ぐ信者の手の平から放射される光源である」と、神の光は不滅であることを説いた。「世界救世教」創始者。
 
岡田光玉:
 16歳の時、父がガンで死去。大病を煩う。薬をすべて捨てる。58歳の誕生日の早朝、最初の啓示を受ける。66歳の時、5日間の人事不省から覚め、「天地一切、神の声なり、神理の充満なり。・・」の、神示を受ける。「世界真光文明教団」創始者。
 
出口なお:
 9歳の時、父死去。住み込み奉公に出る。前半生は息つく間もない生活苦と家庭的不幸の連続であった。夫が仕事場で重症を負い寝つき、長男が仕事のつらさに耐えかねて、ノミでのどを突き重症の身で帰省、重労働のボロ買いや、糸ひきの賃仕事。52歳で未亡人となる。3女が産後の日立ちが悪く暴れだし座敷牢に入れられ、長女が発狂。しばしば神界に遊ぶ夢を見るようになり、57才で突然激しい神がかりに陥る。「大本教」開祖。81歳。
 
中山ミキ:
 身体が弱く内向的な性格であったが、12歳でいとこと結婚。夫善衛は金と暇にまかせて放縦な生活。多年の自己犠牲と忍従に貫かれた生活の中で、夫婦の不和、子女の夭折、長男の重病に加えて、産後の不調が重なりあい、積もり積もった矛盾が爆発点に近づきつつあった。17歳の長男の足の痛みを取り除く一心不乱の祈りの内に、41歳で神がかる。「天理教」開祖。90歳。
 
慈  円:
 誕生の翌年、母死去。10歳で父死去11歳で寺に入り、翌々年出家。38歳で、当時仏教界最高の地位、比叡山の天台座主となる。この頃和歌を学び始める。『愚管抄』は日本最初の歴史哲学書。71歳。
 
源  信:
 7歳の時父と死別。その遺言に従って出家を志し、13歳で得度受戒。比叡山の良源の弟子となった。身の栄達を願わず、もっぱら念仏・読経をはげみ、著述に専念した。その代表的な作品、『往生要集』は44歳の力作。浄土教の理論的基礎を築いたもので、往生するためには念仏をもって本とすることを力説。その論拠を求めた典籍は112部、引用617文に及んび、後年、法然をはじめとする念仏門の多くが本書によって浄土門への眼を開かされた。平安中期の天台僧。
 
明  恵:
 8歳で、母と父が相継いで死去9歳で山城高尾山に登り文覚上人について出家、苦練修行。鎌倉時代の僧。(ミョウエ)
 
叡  尊:
 7歳の時、母死去17歳で剃髪。戒を重んじる。「真言律宗」開祖。90歳。(エイソン)
 
賀川豊彦:
 芸妓の子に生まれる。4歳の時、父が死去、翌年母が死去。5人の兄弟はばらばらにされ、彼は祖母に引き取られる。15歳で洗礼を受ける。肺病になり余命幾ばくもないと考え、愛の信仰を実践して死のうと決心、21歳の時貧民窟に入る。神戸貧民窟で伝導、関西の友愛会の指導、農民組合・消費組合運動にも関係。戦後は伝導・生協組合運動・世界連邦運動に尽力。小説『死線を越えて』を著す。キリスト教社会運動家。
 
沢  庵:
 10歳で出家。将軍秀忠に流罪にされたが、家光に帰依された。柳生但馬守宗矩(ムネノリ)に剣の極意を授ける。「死んだらすぐ東海の寺の裏山に穴を掘って埋め、経も供物も墓もいらない」と遺戒で述べ、72歳で没す。
 
戸田城聖
 妻子を肺結核で失い、牧口常三郎に誘われ、日連正宗に入信。「創価」という言葉を発案。受験書『推理式指導算術』のベストセラー化により、牧口の『創価教育学体系』を刊行。獄中で法華経の読誦によって信仰を確立、 第二の回心の宗教体験。「宇宙のエネルギーが生命である」、「宇宙がそのまま生命である」という宇宙の本源的働き、理法を認識。信者を75万世帯へ拡大することを約束、これを6年間で実現させた。「創価学会」第二代会長。
 
大谷光照:
 幼稚園時より、父母のもとを離れ、他家で成長。15才で浄土真宗西本願寺派門主、西本願寺住職就任。以来50年間その職を務める。
 
浅尾法灯:
 生まれてすぐ母に捨てられる。父は信仰にこり、給料のほとんどをこれにつぎ込む。小3の頃、世話をしてくれていた祖母が死去。書物からは知識しか得られないと考え、15歳で求道行脚へ旅立つ。1腕のメシの有難さを身をもって知り、寺での修行、帰省、仕事、失恋、毎晩の深酒、熱病等を経て、25歳で悟りと実践の道に入る。「自然の泉」総長。
 
牧口常三郎:
 3歳の時、父が離縁して、単身北海道へ渡る。残された長七は、母からも離され、7歳で叔母の嫁ぎ先である牧口家の養子となる。15歳の頃小樽の叔父を訪れ、警察署の給仕をしながら夜間の尋常高等小学校に学ぶ。21歳で教壇に立ち、教育に情熱を燃やし、書きためた膨大なメモをもとに著作、後の『創価教育学体系』、に取りかかり、この頃法華経に感動、日蓮正宗に入信する。弟子の戸田城聖と共に、「創価教育学会」を結成。獄中で病死。「創価学会」創始者。74歳。
 
谷口雅春:
 3歳の時、叔父夫婦の養嗣子(ヨウシシ)となる。もともと文学青年、中5で維摩経を読む。早稲田英文に在学中に知り合った故郷の女性との同棲で、叔父から仕送りを止められ、中退。心霊・催眠に関心を寄せ、講演を聞く等して大本教に入信。夢の中で神と対話の神秘体験。静座黙念の修行中、「実相とは神である」という声を聞く。『生命の実相』刊行。『光明思想普及会』設立。以後、『白鳩』等、機関誌を発行、文書による伝道という生長の家の基本スタイルを確立する。各地で講習会を開き、みずからの信念を語る。「生長の家」創始者。91歳。
 
西田天香:
 生後すぐ生みの母から離される。妻に子供のなかった父が別の女性に生ませた子であった。小学校を卒業後、商売の見習いを始め、夜学に通い、20歳で結婚。この前後に両親を亡くす。小作人を連れて北海道に渡り、何事も突き詰めて考える性格からか自分の左足の名無指を切断、窮状を血書によって出資者たちに訴える。責務を果たせず、家を捨て妻子と離れ、愛染堂に篭もり断食。嬰児の鳴く声に目覚める。争いなき社会を目指して、独特のチャレンジを続け、彼の生活を受け入れた照月と再婚。救われた一女性が恩返しに建てた一軒家「一灯園」に彼の思想に共鳴した人々が集う。「褐衣縄帯の一団、一物半銭を所有せず常に懺悔の心を持して十字街頭に奉仕し、菩提心によりて行乞(ギョウコツ)す」と各紙から紹介された。「一灯園」開設者。96歳。 
 
深田千代子:
 幼少にして母と死別。父親と幼い弟の面倒を見ながら成長。33歳の時、天啓を受け、周囲の人々が不思議を求めて殺到することとなる。「円応教」創設者。
 
御木徳近:
 小5の時に、母腸結核で死去。小学校高等科卒業後、黄檗宗本山万福寺の学寮に入る。父親が御獄教徳光大教会の金田先生の弟子となった時、16歳。19歳で初恋に破れ、勉学に励む。「PL教団」、開教。
 
山田恵諦:
 8歳で得度、16歳で比叡山入り。天台座主大僧正。世界7大宗教の指導者が一堂に会しての比叡山宗教サミットを開くなど、世界平和の実現をめざした。織田信長に焼き討ちされた延暦寺法華総持院東塔を409年ぶりに再建。昭和61年にはイタリア・アッシジで開かれた、「世界平和祈願集会」に90歳を越えて出席。98歳で没す。(エタイ)
 
一尊如来きの:
 8歳の時、両親と死別。幼少から孤児同然の身の上。伯父のもとで育てられる。13歳で女中奉公にでる。23歳で結婚、夫の不身持ちから結婚はすぐ破れ再び女中奉公、40歳まで。郷里で夫もなく女一人の生活を経て、47歳、突然神かかりに陥り、金比羅を使者として地上に遣わした天地を創造し主宰する神「如来」の教えを説き始める。「如来教」開祖。
 
高岡智照:
 2歳の時、母死去。叔母に育てられる。13歳で、大阪宗右衛門町の舞子となる。結婚話を解消しようとした若旦那に自分で切った左小指を送り届けた事件は、14歳の時。16歳の時に、東京新橋の芸者となり、西園寺公望、桂太郎ら政財界の大物にひいきにされ、姿絵の絵はがきが売れに売れる。18歳で政界のフィクサーの愛人となり5年、大阪へ戻り、23歳の時結婚。亭主が米国の愛人の許へ行き1年近くパリに放置され、日本人留学生と恋愛。自殺未遂もあり、29歳で離婚。7つ年下の男と一緒になり、映画俳優、原稿書き、酒場のマダムなど次々経験するがうまく行かず、男を捨てて、奈良に戻り、38歳で剃髪。40歳で、京都嵯峨野の祇王寺に入る。以後、58年間、晩年は俳句に生きた。瀬戸内寂聴の小説「女徳」のモデルとなった人。98歳。(チショウ)
 
渡辺海旭:
 幼時に、父死去。14歳で得度。明治大正昭和の仏教の先駆的リーダー。禁酒運動の実践。新戒律主義。3時に起床、7時まで研学生涯独身。(カイギョク)
 
澤木興道:
 幼時に、両親が相次いで死去提灯屋兼博打打ちの養子となる。9歳の時に、売春宿で急死した男を偶然見て深い無常感を抱く。17歳で家出、永平寺に入る。18歳で得度。日露戦争で弾を受けて重症。道元の遺風を慕い、生涯、寺なし、金なし、女房なしで、「宿なし興道」と呼ばれた。生涯、 印可を受けることを拒否した。それを受けることはそのまま宗派の派閥に加わることを意味するからであった。
 
鈴木正三:
 42歳の時、秀忠に仕え武勲もあった旗本の身を捨て、出家。諸国を行脚。武士道精神を加味した一流の禅をとなえ、「仁王禅」と名付け、禅を士農工商すべての人々の生活に生かすようにすすめた。
 
松原泰道:
 3歳の時、母病死。中学へ進学の時、区役所で戸籍謄本をもらって初めて義母であるとを知る。義母とのトラブルはすさまじいもので、生母恋しさの一念から、家出をはかったのは早大入学の時。「そして私はまた義母のよねから人生の苦難に耐え、逆境に意味を開発できるプラス指向の性格を恵んでもらいました、私は”育ての母”の恩愛をこころにいっぱい授けられています」。著書に『般若心経入門』他。「南無の会」会長。
 
山室軍兵:
 9歳の時、経済的な理由から他家へ養子にやられる。養父が東京・岡山に出ることを許さず、家出を3度試み、成功。14歳で上京。職工として苦労。また山室家に戻る。キリスト教の路傍演説に打たれ、受洗。同志社を途中放棄、迷い苦しみ「救世軍」に引かれ、23歳で入隊、生涯をかけることになる。どんな無学な人でも分かるような福音を伝える人間になりたいと願った。日本救世軍を創設。キリスト教社会事業に貢献。著書に『兵民之福音』他。67歳。
 
小谷喜美:
 3歳の時、父死去。貧窮のどん底で、母は7人の子どもと寝たきりの祖父を養うために農業のかたわら、日雇いにでる。小5の途中で退学、叔母の家へ住み込み奉公。17歳で結婚、1年足らずで夫と死別。上京し転々と女中奉公。23歳で40歳の小谷安吉と再婚。夫の病を機に、題目を唱えながらの水行。「奇跡」を体験していっそう修行に励むようになる。「霊友会」教祖。
 
千石剛賢:
 小4の時、膀胱結石となり以後まともに学校に行けず、月1回程度の重役出勤なみの通学となる。14歳で丁稚奉公に出るが、どこも短期間で辞め続かなかった。「イエスの方船」の主催者。(センゴクタケヨシ)
 
五井昌久:
 少年時代は病弱、関東大震災で家が焼け、叔父に連れられ父の故郷でお経を聞き、一人座禅を組んだりの生活。13歳で織物問屋の店員となり、朝四時に起きての掃除、皆が起きるまでの勉強、昼間は荷車を引いて回る日課。19歳で五井商店を開業。聖書や大蔵経を拾い読む。「世界救世教」の岡田茂吉の著書、『生命の実相』全編を読み、神秘体験を経て、自分の使命を自覚、既にいた信奉者と「讃仰会」を発足させる。「世界人類が平和でありますように」のステッカーを配り、「祈りは社会を変える最高の手段である」と社会に訴えた。「白光真宏会」教祖。
 
暁烏 敏:
 10歳の時、父死去。「母の語に順え、お経をよく習え」の言葉を残す。15歳で得度。清沢満之の高弟。生涯にわたって強い影響を受ける。(アケガラスハヤ)
 
佐古純一郎:
 生後2ヶ月の時、母死去。寺に生育。死の問題は、母から自分自身の問題へと発展。賀川豊彦を先輩とする徳島の中学では、山で『歎異抄』を暗記。大学は宗教学を専攻。兵役前に、千冊の本を処分。古本屋が受け取りを拒否した聖書が手元に残る。丙種で合格、佐世保へ更に対馬へ動き、すぐ隣の人が、直撃弾を受けて瞬間的に顔を真っ二つに割られる場に遭遇。復員後、聖書の「凡そ我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝、これを信ずるか」(ヨハネ第11章)という個所にぶち当たり、翌日上京。キリスト者であった東大の森先生の隣に下宿。教えられ教会に通う身となり、幼子のように、教えを言われるままに受け入れることになる。中渋谷教会名誉牧師。
 
伊藤友司:
 4歳の時、父死去。祖母に育てられる。小1の時から店番等の仕事をさせられる。18歳の時、その祖母が死去。真乗(シンジョウ)と結婚。2人は1月の30日の寒修業に、朝4時から白衣をつけて井戸端で水をかぶる。夫の真乗と共に、密教系の新宗教「真如苑」の創始者。
 
長谷川靈信:
 3歳の時、母死去。神戸商在学中失明状態。「念法真教」代表役員。
 
ひろさちや:
 小2の時、父が徴兵され病死。「おばあちゃん子」で父母から離れて育ち、父の記憶はない。東大インド哲学科を卒業、仏教をはじめとする宗教の現代的意義を一貫して追及。仏教哲学者としての著述活動を展開。著書に、『釈迦とイエス』他。


社会事業

前島 密:
 生まれた年に、父死去数年後叔父の許に奇遇し、12歳の時、江戸に遊学する。郵便制度の創設をはじめとする日本における近代的な通信・運輸制度の基礎を築いた。
 
瓜生岩子:
 9歳の時、父急死。17歳で結婚後、夫が7年間の闘病後死去。40歳の時、戊辰戦争の惨状を目の当りにして決意。後の半生を貧民救済に捧げる。
 
二宮尊徳:
 13歳で父が、15歳で母が死去。母は亡くなる10日前に実の父の葬式に出向くが、あまりにもみずぼらしい格好であったために金次郎と共に別の部屋に入れられ式には出ることを許されなかった。母は帰宅後泣き明かし、やつれ10日後に亡くなる。田畑、家を洪水で流され、兄弟3人ばらばらとなり、自らは伯父宅に寄食、荒地を開墾栽培、一家を再興する。乞われて小田原藩家老職服部家を5年間で再興。下野の桜町3村復興。常陸の青木村復興。また駿河、伊豆、相模の貧民救済等にもあたる。52歳で小田原藩内の復興。56歳で士分格を与えられ幕府の御普請役格に登用され、以後も日光神領、常陸の下館藩内陸奥の相馬藩内復興等を果たす。70歳で幕府の御普請役に就任。


その他

一豊の妻:
 幼時に、父を失う。叔母の嫁ぎ先で育つ。夫の一豊も、早くに父と兄を失い、境遇が似ていた。結婚当時、山内家は4百石で貧しかったが、長浜2万石、遠州掛川6万石、そして土佐24万石と夫を出世させた。
 
局:
 4歳の時、父打ち首となる。17歳の時、後妻として嫁ぐ。夫は女癖が悪く耐えられなかったためであろうか、夫の愛妾を刺殺し、3人の子供をつれて出奔。26歳の時、眼鏡にかない、竹千代(三代将軍家光)の乳母となり、家光に信頼され、江戸城大奥を取り仕切った。(カスガノツボネ)
 
乙武洋匡:
 先天性四肢切断。原因不明で、手と足がないという障害を持って生まれる。母親は1ヶ月後に、 障害があることを聞かされた上で我が子に面会したが抱いた感情は「悲しみ」ではなく「喜び」であったという。早大経済学部卒。「心のバリアフリー」に少しでも貢献するため、電動車椅子に乗って全国を飛び歩いている。「障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ。健常者として生まれても、ふさぎ込んだ暗い人生を送る人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、ノー天気に生きている人間もいる。関係ないのだ。障害なんて。<『五体不満足』、あとがき>」(オトタケヒロタダ)
 
中村久子:
 結婚後11年目にして生まれた子で両親に可愛がられる。3歳で脱疽になり、両腕は肘関節から、両足は膝関節から切断。6歳で父、病死。9歳で一時期、両眼失明。10歳、母あやの厳しいしつけが始まる。19歳、見せ物興業の世界に身を投じる。23歳、母死去。結婚。24歳、義足で初めて歩く。26歳、夫病死。再婚。28歳、再婚の夫が病死。29歳、再々婚。36歳、その夫と離婚。9歳年下の中村敏雄と結婚。40歳、ヘレンケラーと対面。45歳、芸人生活をやめる。51歳、ヘレンケラーと2度目の会見。58歳、ヘレンケラーと3度目の会見。64歳、宮中に参内。65歳、NHK「人生読本」で放送。71歳。
 
大石順教:
 17歳の折、養父が狂乱の末、一家5人を惨殺、巻き添えとなり両腕を失うが奇跡的に生還。絶望と周囲の好奇の目に耐えつつ、巡業芸人生活、画家との結婚、二児の出産、離婚などを経て、出家得度。自在会を設立し、身体障害婦女子の福祉活動に献身。一方、口で筆をとり絵画・書にはげみ、口筆般若心経で日展書道部入選。世界身体障害者芸術家協会員。80歳。

長谷川 岳:
 北海道大学2年の7月、末期癌の母を、兄の学ぶ高知医大病院に訪問。テレビで「ソーラン踊り」を見た母が、「病気の私でも、この踊りを見ているとワクワクして元気になれる」と喜び、その母から勧められたことがきっかけ。高知商店街まで出かけ、激しい若者の乱舞を見た瞬間、鳥肌が立つ。北海道でも、ということになり、その年の暮れまでに「よさこいソーラン祭り実行委員会」を旗揚げ。高知県北海道事務所に応援を依頼。1月、資金集めや呼びかけのための推薦文を書いてもらおうと、東京大学の文化人類学者を訪問。2月、その研究室にいた高知県出身の川竹大輔から突然電話。「北海道の横路さんと高知の橋本さんを呼んで対談してもらったら弾みがつく」と。岳と大輔が考えたキャッチフレーズは「街は舞台だ。日本は変わる」。3月、岳と大輔は、企画書とポスターを携えて高知県庁へ。昼食帰りの知事に路上で「直訴」。「おもしろそうじゃないか」と、期待どおりの反応。続いて、「若い人が好き」との評判を聞いて北海道知事室長の荒井聡(のちの衆議院議員)を訪問。「夢があるね」と荒井は、知事対談を設定。7月26日、岳の母が死去。何かにとりつかれたように岳は、祭りの準備に奔走した。平成15年、第12回「よさこいソーラン祭り」には、参加者4万、見物客200万が結集、「札幌雪祭り」をしのぐ勢いである。

土門 拳(1909〜1990)
 幼少時、父母が共に出稼ぎで家を離れ、祖父母に育てられる。中学時代に、父が別の女性の元に走り、母一人子一人となる。リアリズム写真を確立した写真界の巨匠。ライフワークであった「古寺巡礼」は土門の最高傑作とされ特に著名であるが、「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「風貌」ほか数多くの作品を残し、いずれも不朽の名作群として名高い。土門拳の芸術は、日本の美、日本人の心を写し切ったところにあるといわれ、その業績に対する評価は極めて高い。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。酒田市名誉市民第1号。

細木数子:
 7歳の時、父死去。生まれてすぐ、7歳まで、ばあやに育てられる。長年の研究の末、独自の六占星術を編み出す。陽明学の大家故安岡正篤氏に師事し、六占星術を「人間学」にまで高める。著書に、『あなたの運命』他。

中村天風:
 知人の元に預けられた中学時代、出刃包丁を持った中学生とつかみ合い、相手を死亡させ、退学させられる。日清・日露戦争で果敢なスパイ活動をした後、30歳の時、「奔馬性結核」に罹患。死の淵に立たされるが、インドの聖者・カリアッパ師に出会い、ヨガ修行。「わが生命は大宇宙の生命と通じている」の悟りを得る。実業界で成功、43歳の時、すべてを捨て、自ら生み出した「精神統一法」を広めるため、「財団法人天風会」を創設、草鞋ばき脚絆姿で布教をスタートさせる。松下幸之助等多くの政財界人に師と仰がれた。著書に、『運命を拓く』他。92歳。

北大路魯山人:
 誕生前に、父が死去。生後まもなく母と別れ、転々として養父母が変わり、不遇の少年時代、3度の食事にも事欠く状態であった。小学校を出て、薬屋に奉公しているうちに、日本画家になろうと志したが、書道と篆刻(テンコク)の研究に打ち込むようになる。30歳ころ料理への関心を深め、京橋に友だちと古美術骨董店を開き、「美食倶楽部」を起こし、厨房長となり、食通の評判を勝ち取る。その食器を得るために陶芸に手をつけ、異色の陶芸家として名声を得るに至る。生涯に5度結婚し、5度離婚した。書家・料理研究家・陶芸家
 
板井宏行:
 戦争で夫を亡くした母、伊勢子さんは3人の子供を連れて故郷鹿児島に引き上げた。貧しい中、働きづめの母の手助けがしたいと、少年時代の宏之は料理を作った。母はいつもそれを美味しいと言って食べた。フランス料理人。「料理の鉄人」としてTVで報道される。
 
青木宏之:
 小3の時には、第二次大戦で母、姉、弟をそれに兄をも失っており、孤独の少年期を過ごす。子供の頃から虚弱体質で仲間遊びを知らなかったが、中央大法学部で空手部に入部。2期連続主将。松濤会で空手を指導、「楽天会」を結成。体術「新体道」を創始。
 
米長邦雄:
 16歳の時、父が肺結核で死去。13歳で、佐瀬勇次八段に入門。中央大学経済学部に学ぶ。人柄は「さわやか流」、将棋は「泥沼流」と称される。著書に『人間における勝負の研究』他。将棋棋士・王将
 
大山康晴:
 小学校卒業と同時に、木見9段に入門。名人18期、A級在位44年、全盛期には、名人、王将、十段、王位、棋聖の五冠王となる。「史上最強の棋士」と言われる。棋士15世名人。
 
宮原隆史:
 2歳と3歳の時、相次いで父母を失う。昭和18年、寺の嫡男として誕生。祖母に育てられながら親戚を転々。小学校入学の時から、親戚の寺で小僧生活。中3で、龍蔵寺・宮原家の養子となり、中央大学文学部哲学科卒業。高野山専修学院で修行。福祉事業団勤務後、保育所所長。乳幼児保育、障害児教育、ボケ老人問題、龍蔵寺復興に全力を注ぐ。「幼い者も、年老いた者も、障害を持った者も、みんな平等。仲間がいる、金がある、五体がある、若さがある、……より恵まれた者が、それを自覚し、感謝し、真に人の為の毎日を過ごしているか?せめて汗を、心を、時を、祈りを……彼らの為に、捧げたい!」
 
田岡一雄:
 誕生前に父病死。7歳の時、母過労死。叔父夫婦のもとでおどおどと暮らす。小4より4時起床、新聞配達5年間。小5で上級生をやっつけ、高等科でガキ大将を束ねる総大将となる。バクチ修行、三ン下修行(渡世の最下級)、6年の刑務所では5時起床、12、3時間の労働。34歳で暴力団「山口組三代目となる。

管野スガ:
 19歳の時、父が事業に失敗して、その埋め合わせに結婚するが22歳で離婚。大阪新聞の女性記者になり、木下尚江の演説に感動して、社会主義運動に進む。平民社の堺利彦を訪ね、荒畑寒村と知り合い、結婚。翌年、別居。同年、赤旗事件に巻き込まれ入獄。出獄後、幸徳秋水の経済援助を受けるうちに同棲、幸徳戸と「自由思想」を創刊。大逆罪で死刑判決を受け、幸徳処刑の翌日処刑された。日本の社会運動はこの事件によって、冬の時代を迎えた。社会主義者

西 誠:
 生後まもなく父母は離れ、音信が途絶えた。生後7ヶ月で乳児院に入り、90年春、3歳で島原市の児童養護施設・太陽寮へ。これまで、父母と一度も会ったことがない。そんな自分の境遇を見つめ、中3で、「少年の主張」に応募、69万人の応募の中から最優秀賞の総理大臣賞に選ばれた。「僕は立派に成長して生きていく」と、全国に向けて訴えた。現在、太陽寮の2階の居室「オリオン」で小5の2人、小2の1人と寝起きを共にしている。太陽寮には2歳児から高校生まで計65人が暮らす。うち20人ほどは、帰る家がない。寮長は「家庭のある子よりも努力し、自分で道を開け」と説く。「海外協力隊に加わり、発展途上国の子どもの役に立ちたい。将来は車の会社に勤めたい」と語る。<2002.11.21.朝日>

中岡俊哉:
 生私児に生まれる。「私は、父親の愛情をまったく知らない。父親のふところに抱かれたこともない。・・60数年前、差別の激しかった時代に、”私生児”というレッテルは死にも等しいくらいのものであり、何をするにもそれがついてまわった」。馬賊を志して満州に渡る。終戦で解放軍に抑留されて、北京放送局に配属される。帰国後、超能力、霊感などの研究に没頭、第一人者となる。著書に、『テレパシー入門』他。