映画・舞台等

田中絹代  :
 2歳の時、父死去。家業没落の後、大阪の少女歌劇に入団。母の猛反対をよそに松竹入社。日本的すぎる個性で行き詰まり、どん底時代も経るが、清水宏監督との結婚・離婚を始め、名監督に愛され、自らも監督をこなした、日本映画史に残る代表的な女優。長兄は徴兵忌避で行方不明、三兄がパーキンソン氏病となり、この面倒を一生見る。少女時代から晩年まで第一線のスター。『愛染かつら』、『西鶴一代女』他。
京マチ子  :
 3歳の時、父が母子を置きブラジルに渡り、5歳の時、音信が途絶える。母と祖母に育てられる。大阪松竹少女歌劇団を経て、大映に入社。女優魂には傑出したものがあり、、黒沢明監督も感度のよさに脱帽している。豊満で伸びやかな肢体を見せつけた『痴人の愛』、『浅草の肌』、国際級の卓抜な演技力を示した『羅生門』、『雨月物語』と、その活躍は一時代を画した。名実共に日本を代表する国際スター。
 
八千草薫  :
 幼時に父を亡くす。一人娘を母が育てる。小学校時代は、引っ込み思案。宝塚音楽学校にパスし、16才で初舞台。純情可憐な娘役で一躍注目される。20歳で映画デビュー。2度の離婚歴のある20才近く年上の映画監督と結婚。50年以上の女優業。TVでも活躍。清楚で無邪気な少女の顔で、いつまでも変わらぬ「清純派女優」。『宮本武蔵』で、お通、『蝶々夫人』で蝶々さん役他。
 
高峰秀子  :
 5歳お時、おかっぱ頭の子役でデビュー貧しい養父母を助けるため、 しようがなしにしていた女優業であったが、 『小島の春』の杉村春子に感動して、改心。天才子役から、娘役で一躍青春スターとなり、戦後は暗い世相を吹き飛ばす明るいキャラクターを熱演、国民を元気づけ、三十路を超えてからは『二十四の瞳』、『浮き雲』でトップ女優となった。多数の主演女優賞獲得。夫君は松山善三監督。
 
高峰三枝子
 17歳の時、父が急死。家族を養うため松竹入り。筑前琵琶宗家の父の血をひく気品と知性に満ちた美貌で、社長令嬢、ヒロインにと役を得、クールな雰囲気とドライなせりふ回しの”近寄りがたさ”も、一般大衆の的であった。歌手としても活躍、「湖畔の宿」は戦地で大ヒット。TV司会でも人気を博すが、結婚・離婚、長男の覚醒剤違反容疑逮捕と悲運が続いた。
 
新珠三千代  :
 13才で宝塚音楽学校入学。映画『人間の条件』、テレビ『氷点』、舞台『細雪』他、数多くで活躍。着物が似合う日本的な美しさを持った女優。プライベートを明かさず生涯独身。71才。「宝塚で大事に扱われて、潔癖すぎてそりゃ大変だった。胸に触るシーンも、触っているように撮ったんだ」と三橋達也さんは振り返った。(アラタマ)

原 節子  :
 家庭の経済的事情で、15歳の時、高等女学校を中退、女優を目指す。黒沢明、木下恵介、小津安二郎監督らの作品で演技。実兄が撮影現場で事故死。小津の死後、42歳で引退、以後、隠遁生活を送る。「永遠の処女」と言われた。
 
山口淑子(李香蘭)
 満州生まれで、両親は日本人だが、李家の養女となる。「満映」専属で、昭和13年来日。日本人であることを伏せる。戦後は日本で活躍、ハリウッド映画にも出演。イサム・ノグチと離婚後、大使館職員と結婚、引退。以後、女性キャスター、参議院議員で活躍。『暁の脱走』他。
 
乙羽信子  :
 母は芸者で、物心つかぬ内に養女にやられ、父母の顔を知らずに育つ。 宝塚劇団に入団、戦後大映に入社、「処女峰」で映画デビュー。新藤兼人監督と四半世紀もの間内縁関係にあったが、前妻の死後、 53歳の時に正式に結婚。新藤監督の数多くの映画に出演。NHKTV「おしん」でも話題を呼ぶ。 「百万ドルのえくぼ」のニックネームで親しまれた。肝臓癌で死去。70歳。
 
望月優子
 3歳の時養女にもらわれ、貧困の中で育つ。高等女学校に入学するが学費が払えず、1年で中退。コーラスガールとして初舞台を踏む。民芸、映画で活躍、母親役で熱演。参議院全国区に一期当選。
 
山田五十鈴
 新派の女形山田九州男と芸者との間に生まれ、2人の離婚によって赤貧洗うがごとき生活を送る。5歳から芸事を始め、10歳で清元の名取。13歳で始めて無声映画に出て以来、トーキー、 舞台、 テレビで活躍。19歳の若さで女の業の深さ、エゴイズムを完璧に演じることができた。離婚後、俳優、プロデューサーと恋愛遍歴を重ねる。長谷川一夫と共演の『婦系図』のお蔦役他。 
 
浪花千栄子
 4歳の時、母死去。極貧の中に育ち、口減らしのために女中奉公に出される等辛酸をなめた。21歳で芸能界に入る。演技表現の妙を極め、芸達者な脇役女優として、新喜劇、映画、放送等で明彩を放った。渋谷天外と結婚。花菱アチャコとコンビを組んだラジオ番組「お父さんはお人好し」等で広く親しまれた。
 
ミヤコ蝶々 :  
 4歳の時、父母離婚。父と元柳橋の芸者、おさきさんとの3人で神戸に移る。7歳、旅廻り一座で初舞台、少女漫才で各地を回る。16歳、漫才の相方と駈け落ち。24歳、三遊亭柳枝と結婚。27歳、離婚、南都雄二と結婚。42歳、離婚。「夫婦善哉」のコンビは続行する。
 
宮城まり子 :
 父の事業の失敗と、母の死去のため、12才で学校を中退、地方巡業等をする。21才で女優を目指し上京。紅白に連続出場等、スターとなる。吉行淳之介の実質的妻となり、その作品に大きな影響を与える。41才の時、障害児のためだけの日本で初めての肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立。73才の現在(平成14年)、32年間、園長を務めている。
 
泉 ピン子 :
 2、3歳の時、母死去。そのことを小4の時、近所のおばさんに聞く。猛烈なショックを受け、以来しだいに継母に対して反抗的になる。高校入学の時、父からそのことを話され、知らない振りを演じていたことを告げる。芝居の本格的な練習はすでに積んでいたことになる。銀座4丁目4番地生まれの江戸っ子。日本音楽学校中退。18歳の時、漫談の牧伸二に入門。キャバレーでの女漫談家として日本中の地方巡り、行かなかったのは、大島、八丈島、佐渡ヶ島、淡路島くらいというほど全国を巡った。8年間で得た財産を携え、日テレ『ウィークエンダー』に登場、一躍全国に知られることになる。丁々発止の語り、独特のバイタリティある演技、橋田寿賀子とのコンビなどで、売れっ子女優となる。『おしん』の母親役、他。「コノヤロー、絶対に私と別れたことを後悔させてやる。あいつを手放して惜しかったと思わせるくらいいい女になってやるって、ひそかに決意していました<四年目のラブレター>」。41歳の時、入院時の主治医と結婚。
 
桑野みゆき
 3歳の時、母女優桑野通子が撮影中に倒れ、子宮外妊娠でその日のうちに、30歳で死去。13歳の時、脇役で純情派女優としてデビュー。『青春残酷物語』で清純派のイメージをかなぐり捨て、体当たりで演じ、これが代表作となる。しかし、突然結婚し、きっぱりと引退。『彼岸花』、『赤ひげ』他。
 
上原美佐
 父と死別、母が洋裁をして育てる。隠し砦の三悪人の雪姫役適任者で苦労していた黒澤明監督により大抜擢される。黒沢一家のお姫様として、デビュー前にスターとなる。しかし、9作で「才能がない」と自ら引退、銀行員と結婚する。気品と野生の二つの要素がかもし出す異様な雰囲気を持ち、突き刺すような鋭い眼孔がセクシーであった。
 
江波杏子
 6歳の時、母死去。その仕事を継ぎたいと、大映入社。翌年映画デビュー。悪女役の助演が続くが、若尾文子の代役で『女の賭場』に出演。以後、任侠映画の花”昇り竜のお銀”として、5年間に17本主演。だが、『津軽じょんがら節』で演技派へ見事に転身。エキゾチックな彫りの深い顔立ちとクールなセクシーさが魅力で、研ぎ澄まされた美しさの悪女役もいい。
 
森 光子 :(1923〜)
 母を亡くして後、伯父の嵐寛寿郎宅に身を寄せ、小6の時、嵐寛プロから女優デビュー。下女同様の扱いを受けて、新興キネマに移るがちょい役ばかり。歌手として立とうとするも、デビュー盤が発禁になり、前座の前歌を歌う地方巡りをするなど、苦労が続く。菊田一夫に見いだされ、以後、数々の舞台を踏むことになる。林芙美子の一生を描いた「放浪記」は、1961年の初演以来一度も公演を休まず、2003年9月には、1600回公演を迎えている。これは同一主演俳優による最多上演記録。過去に肺炎で入院した際、病院から舞台に通ったという。1998年文化功労者。

宮沢りえ  :
 生後4カ月の時、両親離婚。父親オランダ人。小4まで伯母の家で育つ。5年生の時、モデルでデビユー。18歳のヌードで騒がれる。母子家庭に育ったりえにとって、映画監督勅使河原宏氏は恩師と言うだけでなく父親のような存在だった。「透明感があって、世俗臭さがない」と「豪姫」の主役に抜擢され、スターの座を確立することになった。その遺影を前に、何度も号泣、式の間終始ハンカチを話さなかった。 
 
長谷川一夫
 道ならぬ恋の落とし子で、父親の顔を知らない。叔父の芝居小屋に通いだしたのが4歳。6歳の時、代役で初舞台。一座の地方巡業について回り、学校はろくに通っていない。37年間に、301本の映画にほとんど主演で出演。匂うような色気があると言われた時代劇大スター。29歳の時、2枚歯の剃刀で12センチに渡る傷を左の顔面に受ける。傷痕の部分を埋めるメークに腐心。66歳で、宝塚歌劇「ベルサイユのバラ」を演出。「役者は・・いや、人生は孤独なもんやなー・・」の言葉を残す。76歳。国民栄誉賞受賞
 
仲代達也
 小2の時、父死去。「人間の条件」で映画界に登場、「椿三十郎」、「不毛地帯」、「天国と地獄」、「影武者」、「乱」などに出演、日本人離れした容貌と声量で、舞台俳優を感じさせる。「無名塾」を主宰、舞台俳優教育に貢献している。千歳高卒。
 
藤山寛美
 4歳の時、父死去。4歳で初舞台。松竹新喜劇の中心となり、阿呆役の演技で人気を博す。60歳。
 
いかりや長介
 4歳の時、母親が結核で死去。おばさん子。演芸好きの父親の影響を受け、浅草演芸、落語、講談を子守歌代わりにした。「ドリフターズ」のリーダーとして、活躍。「8時だよ全員集合」は、一世を風靡した。現在は、性格俳優として活躍中。
 
沢田正二郎
 3歳の時、父死去。「新国劇」を創設。劇界の風雲児と呼ばれ「沢正サワショウ」の愛称で親しまれたが、中耳炎がもとで急死。日比谷音楽堂に10万人の会葬者が集った。
 
榎本健一
 幼時に、母死去。17歳で父親を亡くす。150 センチの短躯。晩年に一人息子を失い、脱疽のため片足切断するが、舞台では最後までギャグを連発した。「喜劇王」。
 
三波伸介
 12歳の時、母脳溢血で死去。13歳の時、長兄22歳で戦死。10 歳の時、児童劇団「東童」に入団していたが、日大芸術学部に進み、中退。家業の洋服店を継がず、24歳で自活を始める。NHKの「減点パパ」等、TV等で活躍する。
 
笑福亭仁鶴
 8歳の時、母死去。 工業高校卒業後、18歳の時、父親の鉄工所を手伝ううち、桂春団治の落語を耳にし、レコードを買い入れ、する切れるまで聞き、覚える。19歳頃民放の素人演芸番組に出るようになり、24歳の時、松鶴師匠に入門、落語家の道を歩み始める。以後、独特の持ち味を生かし、演芸、放送、映画と幅広く活躍する。NHKでもレギュラーの司会で活躍中。

立川志の輔
 3歳の時、両親と別れ母方の祖父母に育てられる。明治大学で落語研究会に入り、立川談志の門下に入門。落語家の看板を掲げながらレポーター、司会、講演、落語会と大活躍。にっかん飛切落語会奨励賞を2年連続受賞。著書に「笑われる理由」「志の輔・好江のつっこみ料理」「古典落語100席」「千字寄席」等。主な出演番組はNHK「ためしてガッテン」等。

伴淳三郎
 小5の時、父死去。小6で丁稚奉公に出るが、寝小便などで1年も続かず戻される。14歳で役者の世界へ。「アジャッパー」がヒットする。喜劇役者。73歳。
 
鳳 啓助
 2歳の時、父死去。3歳で祖父の劇団の子役で出演。19歳で一座を作る。京唄子と二度目の結婚。啓助の浮気で、離婚。その後も二人は漫才コンビを続け、「おもろい夫婦」は17年、「唄啓劇団」も17年続く。4人目の妻の看病の許、ガンで死去。漫才師で台本作家。(オオトリ)
 
柳葉敏郎
 8歳の時、父病死。19歳、役者を目指して上京。最初の役は10人死体の一番下の役など苦悩のエキストラ時代を経て、実力派のマルチタレントに成長、活躍中。
 
田原俊彦
 小学校の時、父死去。「3年B組金八先生」に出演、デビュー。「たのきんトリオ」田原、野村、近藤の一人。歌って踊れるシンガーの草分け的な人。

 幼時に、両親離婚。祖父母に育てられる。父が大学時代に死去。1浪し早大西洋哲学科入学、1年で抹籍処分となる。朝日生命に入社、以後、職歴変転。卓抜なアイデアと芸で不動の人気を得る。
 
テリー・伊藤
 4男1女の末っ子、築地の卵焼き屋に生まれ、好奇心旺盛、仕事より遊びの方が大切と父から教えられ育つ。日大闘争に参加、左目に投石を受け、視力をほとんど失い、それが後遺症となる。テレビ界に入り、多くの著作を世に出し、ヒット番組を生み出し、TVに自ら出演、異彩を放っている。本業はテレビ番組やコマーシャルの演出家。独特の感性で、時代の一歩先を見つめ、常識に挑戦している。
 
岸本加世子:
 母親は重度の身体障害者。遠洋漁業の漁師の父親は、港で、飲む打つ買うのタイプで、刃物を振り回すこともあった。小学校1年の時、ついに母親は加世子を連れて家を出る。 出演映画、「HANA-BI」他。
 
湯川れい子
 7歳の時、父死去。ジャズ専門誌「スウィング・ジャーナル」への投稿が認められ、ジャズ評論家でデビュー。ラジオのDJ・ポップス評論、解説を手掛けるほか、講演会、テレビでの審査員、コメンテーターとしても活躍中。音楽を愛し、人を愛し、家族を愛し、好きなことに素直に情熱を傾けるそのさまは、最も自然体で、現在活躍する女性の先駆者的存在として高い支持を得ている。近年は、ボランティア運動に多くの時間を割き、環境問題を考えグローバルに行動する自身の「レインボウ・ネットワーク」を組織。永久会員には、シャーリー・マクレーン、オノ・ヨーコ、オリビア・ニュートン・ジョンなどがいる。作詞家・音楽評論家。
 
樋田慶子
 誕生の時、母が、3人の子供を残して死去。俳優座養成所を卒業、劇団新派に入団、花柳章太郎に師事。シェークスピアからブレヒト、時代劇まで幅広くこなし、舞台・テレビで存在感を示す。著書に、『つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり』。
 
花菱アチャコ
 家が貧しく子沢山で小学校5年まで。 その後額縁屋に丁稚奉公、鉄工所のフイゴ吹きなどで家計を助ける。横山エンタツとコンビを組み、近代的な漫才の芸を確立。ラジオドラマ「お父さんはお人好し」で人気を博す。
 
横山エンタツ
 継母とうまくゆかず中学5年で家を飛び出す。喜劇役者として各地を回り、吉本興業に入り、「しゃべり漫才」で人気を博す。
 
徳川夢声
 母親が、何度も代わる。母親に甘えることを知らずに育つ。『宮本武蔵』の朗読などで独自の話芸を完成させる。
 
川上音二郎
 14歳で母を失ったことに衝撃を受けて故郷を出奔。東京で放浪生活を送る。お供えの仏飯を盗んで捕らえられ、小坊主となる。散歩中の福沢諭吉に拾われ、慶応義塾の子使いとなる。オッペケペー節を歌い、人気を得る。6回監獄に入る。"正劇"運動、女優の養成、帝国座建設、などに手腕を発揮、初の日本演劇海外公演を果たす。
 
中村鴈治郎(初代):(1859〜1935)
 3歳の時、父母離婚。母の許に残され、母と二人の苦しい生活を送る。15歳の時、役者になることを決意。後に関西歌舞伎界を代表する人となる。

中村歌右衛門(6代)
 生まれながらに左の脚を脱臼していたために、2歳ころまで歩くことができなかった。手術を繰り返したが、一生を通じて左足が不自由だった。「芝居を見に来るお客様には何の関係もないこと」と自らに言い聞かせ、常に人に足の悪いことを気づかせないように努めた。5歳で、初舞台。若いとき身の回りの世話をしていた男衆と「駆け落ち」したこともある。芸術院賞を史上最年少で受賞。「歌舞伎の女形」として歴史に残る数々の名演を見せ、また急速に変わり行く戦後社会の中で歌舞伎の発展を支えた。慢性呼吸不全で死去。女形の最高峰で戦後を代表する歌舞伎の人間国宝。84歳。
 
玉川スミ
 幼くして父母を亡くす。3歳で初舞台。6歳で座長。以後様々な芸で知られるようになる。120本の扇子を広げて、口や片足で支えて持ち、松の木を芸で演じる「松づくし」は圧巻。育ての親を含め13人の親を持つ。勲五等受章。
 
林家彦六
 幼くして母一人子一人の生活となり、小学校を出るとすぐ奉公に出され、以後転職を続ける。八第目正蔵を襲名、以後、85歳まで30年間、林家正蔵として活躍。
 
桂 米朝
 小学校卒業寸前に、父死去。崩壊寸前だった上方落語を見事なまでに復活させ、76才になって、およそ100日の舞台をつとめる人間国宝。落語家。

東野英心
 9歳の時、初代水戸黄門役を演じた英治郎が家を出て愛人のもとに去り、長い間、父母の間に立たされて悩んだ。高校時代カミナリ族になって遊び回り、母が死去した際に父を激しく非難。NHKの中学生日記等で好演、奥行きのある脇役でファンを唸らせていた。58歳の時、脳内出血で死去。(トウノエイシン)

桂三木助
 4歳の時、父を亡くす。立教大学経済学部在学中に、亡くなった父、3代目三木助の親友であった柳家小さんに弟子入りする。4代目三木助となったが、「落語界の新人類」と呼ばれ、派手な生活もしていた。芸術祭賞演芸部門の優秀賞を受賞、親子二代受賞が話題となった。晩成を期待する批評家もいる中、43歳で、自殺。

松旭斉天一
 7歳の時、孤児となる。明治に活躍した奇術の名人。

大山のぶ代
 5歳の時、男の子のような変わった声のことを、幼稚園の参観授業で取りざたされる。中学に入り、母からこの声に挑戦するように言われ、放送部に入る。高校1年の時に、その母が癌で入院、8ヶ月後に帰らぬ人となる。反対する父の元を去り、俳優座養成所に入所。結婚後、1年で長女を死産、6年後に次女が未熟児で生まれ、3ヶ月で死去。これらを乗り越え、独特の声を逆に生かしての、「ドラえもん」役がはまり役となる。著書に、「大山のぶ代のおもしろ酒肴」、「大山のぶ代の毎日のおかず」等。
 
ビートたけし
 父親は自分の名前すら書けない無学な職人で、いつも酒を飲んで遅く帰宅。夫婦の諍いが絶えず、家庭は毎日が修羅場のようであった。その父が脳梗塞で倒れて入院8年後、死去。明大工学部中退後、漫才を始めた頃のこと。長兄は18歳年上、姉が10歳年上、すぐ上の兄大(マサル)も5歳年上。たけしは、母が40いくつの時に生まれた子で、溺愛される。お乳を前に住んでいたおばさんの世話になる。浅草のストリップ劇場 "フランス座" でコメディアンでスタート。毒舌とブラックユーモアに人気が出て、俳優や著作活動も始め、やがて、マルチタレントぶりを発揮。
 主な出演に、テレビ『平成教育委員会』他、映画『戦場のメリークリスマス』他。一方、映画監督業にも進出、作品に『その男、兇暴につき』『菊次郎の夏』他。H.9年ベネチア国際映画祭では、北野監督第7作目『HANA-BI』が日本人作品としては3人目、39年振り、となるグランプリ (金獅子賞) を受賞。著書に「たけしくん、ハイ!」「孤独」他、詩集に「僕は馬鹿になった」など、精力的に多方面で活躍中。
 
オスマン・サンコン
 中学の時、父親を亡くす。高校2年生の時、サッカーの試合中、右足を骨折。以来、びっこを引く身となる。大学卒業後、フランスに国費留学。日本に、ギニア大使館を設立するために来日。8年後アメリカの大使館で働き、再来日。以後、独特のキャラクターで人気を博し、タレントとして活躍中。

竹脇無我
 高1の時、人気アナウンサーで、家では6人の子供たちにも優しかった父が、突然自殺。16才で松竹映画「しかも彼等は行く」でデビュー。数年間学業に専念した後、映画界に復帰。「人生劇場」ほか数々の作品に主演。映画とテレビで「姿三四郎」を演じ大人気に。その後は「だいこんの花」、「おやじのヒゲ」、「大岡越前」などテレビや舞台で活躍。8年にも及ぶうつ病との闘いの日々を乗り越える。平成14年11月からは舞台「妻たちの鹿鳴館」(明治座)に出演。『壮絶な生還 うつ病になってよかった』を出版。

黒柳徹子:(1933〜)
 5歳の時、結核性股関節炎で、数ヶ月ギブスで生活、松葉杖になるところを奇跡的に助かる。LD(学習障害)のためであったと言われるが、机にちゃんと座らず、窓際に立って外を眺め、ウロウロ歩き回り、言うことを聞かなかった。ために、小学校入学後、3ヶ月で退学させられる。NHK放送劇団に入団、NHK専属のテレビ女優第一号として活躍。日本で初めてのト−ク番組「徹子の部屋」は、2003年3月28日の放送で、7,000回を迎えた。『窓ぎわのトットちゃん』は700万部売れ、日本のベストセラ−の新記録を達成、世界33ヶ国で翻訳される。1984年のユニセフ(国連児童基金)親善大使就任以来、アフリカ、アジアなどの多くの国を訪問しており、内戦や貧困で苦しんでいる子どもたちの現状を幅広く紹介し、救済を訴え続けている。社会福祉法人トット基金を設立し、福祉事業などに力をそそぐ。日本ペンクラブ会員、ちひろ美術館(東京)館長、新星東京フィルハーモニー交響楽団副理事長などとしても活躍。

加藤治子:(1922〜 )
 数えの5歳の時、父死去。小6の時、母が本妻でないことを知る。30歳前に、その母が62歳で死去。5人兄弟の兄二人が早世、一番上の姉が18歳で自殺。最後の姉も、62歳で、くも膜下出血で死去。松竹少女歌劇団に14歳で、合格。東宝、文学座、劇団「雲」を経て、24歳で、結婚。その夫が7年後に、自宅で自殺。5年後に再婚、その15年後に破局。向田邦子の「阿修羅の如く」では、激しさ、哀しさ、人間の業を秘めた女性を好演。01年、読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。

前田美波里(1948〜)
 3歳の時、父母離婚。父がアメリカに戻り、母に育てられる。15歳で、ミュージカルにデビュー。17歳で、資生堂の夏のポスターに起用され、脚光を浴びる。ポスターの歴史を変えたといわれる。歌手マイク・真木と結婚、離婚。『キャッツ』他、舞台を中心に幅広く活躍中。男優真木蔵人は長男。

岡田茉莉子
(1933〜 )
 1歳の時に、サイレント時代のスターだった父、岡田時彦が死去母の手ひとつで育つ。吉田喜重監督と結婚。監督の方は、幼い時に母を亡くし、お手伝いさんと父親の再婚相手に大切に育てられていた。何度も夫婦で一緒に作品を作ってきたが、出演映画154本目になる「鏡の女たち」、これも主演で、夫が監督。

えなりかずき
 「ボクにとって父は絶対的な存在、コーチですね。私生活でも仕事でも。ただ、一回も手を上げられたことはありません。父いわく「自分はたたくほど甘くはない。もっと冷たい」。2DKのわが家ですか。ま、たとえるとハムスターの家。ボクの部屋なんてない<ザ・インタビュー、毎日>」。3歳から芸能人。「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)も「お江戸でござる」(NHK)も子役は卒業、ぼちぼち青年役である。
 

映画界
 
山田洋次:(1931〜 )
 幼い時、父母離婚。旧制中一の時、敗戦。大連から伯母のいる山口へ引き揚げる。兄と朝から街角に並んでピーナツを売って生活費を稼ぐ。東大卒業後、松竹大船撮影所入社。48回続いた『男はつらいよ』寅さんシリーズ、『学校』シリーズ、『たそがれ清兵衛』等、実直、素朴な人間の営みによせる優しいまなざしにみちた作品で知られる。菊池寛賞、日本アカデミー賞監督賞など受賞。

円谷英二
 3歳の時、母死去。その時、養子の父が家を去り、以後祖母に育てられる。 15歳で日本飛行学校に入学。活動写真技師に拾われ、カメラマンとなる。「ゴジラ」、「ウルトラマン」の生みの親。「特撮の神様」。(ツブラヤ)

黒沢 明
 4男4女の末っ子。生粋の軍人だった厳格な父から武士の精神をたたき込まれる。13歳の時、関東大震災に遭遇。限りない数の死体の山を見せて回った4歳上の兄が、映画説明者となり、27歳で、心中自殺。同年、長兄死去。35歳で、結婚。41歳、「羅生門」が、ベネチア国際映画祭金獅子賞。44歳、「生きる」が、ベルリン国際映画祭で銀熊賞。「7人の侍」が、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞。61歳、手首と首を切り自殺未遂。70歳、「影武者」がカンヌ国際映画祭でグランプリ。66歳で、第一稿を脱稿、75歳の時公開された「乱」では、一人の女性にあやつられる男たちを描く。
 常に3台のカメラを使い、魔法のようにフィルムをつなぎ合わせて、ドキュメンタリータッチの映画を作り上げた。男らしさとヒューマニズム、大胆で細心、世界に日本を知らしめ、30本の名作を残した映画監督。「世界のクロサワ」。88歳。 

溝口健二
 家が貧しいために、芸妓となった姉によって育てられた。終生変わらぬテーマ「聖なる女性」は、この姉への思いから生まれている。17歳の時、母死去。22歳で、日活撮影所へ。27歳の時、同棲していた女性に痴情の果て、剃刀で背中を斬られる。川口松太郎が小学校の同級生で、二人の交友は生涯に渡って続いた。『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒大夫』で、ベネチア国際映画祭3年連続受賞。完全主義、ワンシーン・ワンカットの長回しで知られる。邦画界にリアリズムを確立、日本ばかりでなくフランスのヌーベル・バーグにも影響を与えた、世界的映画監督
 
和田 勉
 11歳の時、母死去。父、再婚せず。「父は僕が「本を買う」と、とても喜んだ。小学校、中学校と、ぼくは町の文精堂という一番大きな本屋さんで、すべての本を父のはからいでツケで買うことができた。また、敗戦直前に防空壕で、父の『現代日本文学全集』総計43巻をほとんどすべて中学3年生で読みつくしてしまった」。NHKに入社。女優操り師、怪物ディレクター、など異名を持つ女優の魅力を最大限に表現する鬼才。著書に『素敵な女ほどウソがうまい』。演出家。(ベン)
 
小津安二郎:(1903〜1963)   
 寄宿舎から追い出され、自宅通学の合間に映画を見る習慣ができる。笠智衆、原節子主演の『秋刀魚の味』、『東京物語』などの傑作を世に送る。市民生活の細部を独特のローアングルで凝視。夫婦や親子、人生の機微を丹念に描き、「小津調」と呼ばれた。「最も日本的な映画」とも言われ、死後、芸術的声価が世界に浸透した。監督総作品数、54本。映画監督として初めての芸術院会員。母との二人暮しで、生涯独身
 
 
歌手
 
三橋美智也
 4歳の時、父親が炭鉱で事故死。物心がついたときから舞台に立ち、9歳の時、北海道全域の民謡コンクールで大人達にまじり優勝。21歳の時、高校に入学。その美声と真面目な歌い振りは長期にわたり日本中を風靡した。昭和31年「哀愁列車」他。
 
桂 銀淑
 誕生の時、父なく、母に育てられる。15歳の時、実父に会い、中2の時、母の先夫の子である姉に会う。不良仲間のリーダーとなり高校1年の時、喧嘩がもとで退学、転校。左腕にナイフの傷を持つ。高校卒業後、モデル業。韓国でアイドル歌手となり、失恋して日本に渡り、歌手として成功する。(ケーウンスク)
 
安室奈美恵
 幼稚園時に、母32歳で離婚。以後母は、夜はスナックを切り盛りしながら一人で3人の子育てに奮闘。奈美恵は強い母の生き方に学び、わがままを言わない我慢強い子に育った。デビュー3年目に「Try Me」が大ヒット。ソロ史上最年少で、日本レコード大賞を受賞。翌年も同賞連続受賞。20歳で結婚し子供も生まれたが、母が惨殺されるという憂き目に会い、そのニュースが大きく報じられた。
 
美川憲一
 2歳の時、その父に捨てられ、母子家庭となる。4歳の時から母の姉に預けられ、実母の姉夫婦を実の親と思い育つ。幼時に養父が他界。中学時に、叔母であることを知る。高校を中退し、17歳で芸能界入り。実父の死を、死後7年で知り、その墓を訪問、異母兄とも面会。歌手でタレント。
 
森 進一
 父が事業に失敗して単身、沼津で塗装業を営んでいたため、森内一宏とその母は、甲府で生活していたが、一宏6歳の時、沼津の父の元へ。しかし、父は愛人を家に入れてしまい、耐えかねた母は、子供3人を連れて家出。父の親戚の下関へ、復縁を願って身を寄せることになり、間借り生活となる。母は持病を悪化させたが、病弱にむち打って懸命に夜も休むことなく働き続けた。生活保護を受け、制服や教科書を貰うなどしながら、一宏も二つの仕事を5年間休まず続けたりした。中3の時、母が倒れ、復縁を諦め、母は子供を連れて実家の鹿児島へ。
 極貧の少年時代を過ごした一宏は、15歳で集団就職で大阪へ。最初、寿司屋の見習い、少しでも良い給料を求め、次々と職を変える。上京しての初日は公園のベンチで朝を迎える。職歴17を数えていたとき、オーディションに応募、合格。チャーリー石黒に見出され、バンドボーイに。メンバーの靴を磨いて得るわずかな金が貴重な収入源で、家族を何とかしたいとあせる気持ちの中、妹から、送られてきた2千円に涙するということもあった。
 猪俣公章の曲「女のためいき」でついにデビュー。「ダミ声」「一発屋」と酷評もされるが、「花と蝶」で紅白出場となり、以後、次々とヒット曲を出すことになる。昭和45年、やっと新居に家族を呼び寄せることができたが、ファンという女性に母が手紙を出したことがきっかけで、「婚約不履行」で告訴されるという事件が起こる。これを思い詰めた母尚子が47歳で、自殺。家族で暮らす長年の夢が1年足らずで、白紙に戻ってしまう。
 「襟裳岬」で歌謡大賞受賞の時の弁、「『日々の暮らしはいやでも静かに笑ってしまおう』っていうそういう歌ですが・・なかなか笑ってしまうことができない僕で、何かとっても慰めになりました。いまはもう居なくなりましたお袋の所へお参りして、・。」
 昭和52年妹満寿美が結婚。弟も立派な医者になり、昭和61年、森昌子と再婚、子供3人にも恵まれる。「じゃがいもの会」は結婚前から続いているチャリティ活動。独特の声を生かしての歌唱力で、心に響く歌を多く歌い上げる
 
村田英雄:
 身ごもった母は18歳、実父は消息が途絶え、実父を愛していた姉弟子に育てられる。7歳の時、浪曲師に預けられ浪曲界に花咲き、古賀政夫に見い出され歌謡界映画に活躍することになる。
 
三波春夫:
 13歳の時、父が事業に失敗して新潟から上京、小学校の後、魚河岸などで働く。16才で日本浪曲学校に入り、出征。4年間のシベリアでの強制労働の後に帰国、浪曲会に復帰。浪曲師から歌手に転じ、演技を取り入れた浪曲演歌を案出。「チャンチキおけさ」でデビュー、東京オリンピック、大阪万博のテーマ曲を大ヒットさせ、「俵星玄蕃」他多くを歌った国民的歌手。美声と笑顔、「お客様は神様です」の名セリフで親しまれ、多くの観客を魅了した。子どもの頃から本好きで、人物評伝『熱血!日本偉人伝』を上梓している。国民栄誉賞受賞。77才。
 
竜鉄也:
 幼時のころ、ハシカの後遺症で失明。マッサージ師から演歌師へ転身。故郷飛騨高山の夜の街で流しをはじめ、生母に生き別れ、離婚も経験。経営を始めた演歌酒場『呑竜』が焼失。45歳の時、修行の汗と涙の結晶『奥飛騨慕情』が売れ始め、孫もいる中年新人が誕生した。
 
並木路子:
 唱歌と体操以外はまったくダメで、松竹少女歌劇団に入団、戦時中は全国を回り、大陸にも出かけた。この間、父親が船が撃沈され行方不明長兄は海軍で消息をたち、次兄は戦死。東京空襲で隅田川に母と飛び込んだが、助かったのは自分一人であった。抜擢されて「リンゴの歌」を歌ったとき、何度やり直しても、明るさの中にもどこかもの悲しいあの歌声となった。戦後初のヒット曲を歌い、焦土に立つ日本人を大いに勇気づけ、懐メロブームでまた返り咲いた歌手。心筋梗塞で死去、79歳。
 
島倉千代子:
 小学1年の時、左手に47針も縫う大けが。16歳でデビュー。家族の反対に我を通して結婚、やがて離婚。声の自信を失い紅白歌合戦を辞退したこともある。巨額の借金をかかえ、そのあげく乳ガンの宣告と手術。堕胎した3人の子どもたちに「忍」という名を与える。母との確執、長姉の自殺、弟との絶交、ほとんど一家離散の状況であった。島倉調、童女のように可憐で、しみ通るような優しさで歌う。紫綬褒章受章。
 
雪村いづみ:
 9歳の時、父が自殺。母は洋裁店を失敗、貧困の中学時代を経験、都立高校の入学金が払えず、やむなく働き始める。貧乏のドン底時代を経て、認められてビクターと契約を交わすまでになる。
 
山本リンダ:
 1歳の時、米軍兵士の父が朝鮮動乱で帰らぬ人となり、父の顔を知らずに成長。中3の時、歌のコンテストに挑戦、認められて遠藤実に紹介される。「どうにもとまらない」などが大ヒットする。
 
鶴田浩二
 幼時に、父母離婚。母を追う子に分からぬように母が去る。母方祖母に育てられる。時代劇から任侠物まで、幅広いファンを獲得した俳優。『傷だらけの人生』では、数々の音楽賞受賞。戦友の遺骨収集のためのチャリティーショーを開くなど、学徒動員で入隊し、二十歳の海軍少尉として終戦を迎えた体験を最後まで忘れなかった。62歳。肺ガン。
 
船木一夫
 もと博徒の酒好きの父親から、実母が逃げたのは小学校1年生の時。以後次々と母親が変わる。貧乏生活の後、『高校三年生』でデビュー。婚約中に、自殺未遂。9人目の母に生まれた弟が、酒によって転落死。舞台『親父の背中』を成功させ、『高校三年生』で、再デビューした。
 
越路吹雪
 幼い頃、父親の不倫を知り、父親を疑う。親夫婦は幸せを演じていた。孤独を感じ、心に傷を抱えたまま宝塚に入ったが、宝塚始まって以来の不良少女、劣等生であった。束縛しない本当の愛を知ったが、父親の悲報には何ら反応せず、歌い続けた。シャンソン歌手。

マイク・真木
 8歳の時、2年前から肺病で病床にあった母が死去。以来父親が、一人っ子の壮一郎を育てる。型破りでユニークな生き方で、自分流を貫くフォークシンガー。デビュー曲、「バラが咲いた」がヒットする。2度の離婚を経験、3人の息子たちを炊事洗濯して、1人で育てる。18歳年下の女性と、再々婚。

松尾和子
 幼時に、父死去。キャバレーの歌姫から実力でのし上がる。甘く切なく悩ましいハスキー・ヴォイスで、和田弘とマヒナスターズと共に歌った「誰よりも君を愛す」が大ヒット。映画に出演するなど人気を集めたが、晩年は必ずしも幸せではなかっ。「ムード歌謡の女王」。57歳。
 
淡谷のり子
 母17歳の時の子で、最初、隠居所で育てられる。高等女学校では不良少女。16歳の時、母、妹と共に上京、東洋音楽学校に入学。母が内職、質屋通いで貧乏暮しの中、自らヌードモデルをして家計を助ける。一度結婚するが、4年で別れる。最愛の人の子供を身ごもるが間もなくその相手が病死。歌い続けて、84歳で現役。「ブルースの女王」。
 
笠置シズ子
 実父の家政婦を母に生まれる。養父母が実父母でないことを知ったのは18歳の時。実母とは名乗らないままに終わる。29歳の時22歳の吉村興業の一人息子と恋仲になり子供をはらむが、結婚を許されないまま、相手は若くして亡くなる。148センチで小柄。一人娘のために、31歳まで、独特な持ち味で歌う。71歳で死ぬまで、ひどい潔癖症で苦しむ。「ブギの女王」。
 
山口百恵
 父には別に妻子があった誕生の時より母に育てられ、精神的、経済的に辛酸をなめる。「スター誕生」で、歌手デビュー。森昌子、桜田淳子らと「花の中三トリオ」と呼ばれアイドル的存在となり、TVドラマや映画に出演。下は小学生の女の子から上は中年のおじさんまでと幅広いファン層を獲得、数々の賞を獲得、国民的歌手への道を歩む。「伊豆の踊り子」での初共演以来、三浦友和との共演が続き、リサイタル中に三浦友和との「恋人宣言」を発表。日本武道館で「わたしのわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」と挨拶、「さようならの向こう側」を最後に、白いマイクをステージにそっと置いて去っていった。引退、結婚後は芸能活動は一切行わず主婦業、子育てに専念する。

尾崎 豊
 1歳5ヶ月の時、母が突然発病、入院し、飛騨高山の父の実家に預けられる。「母親の私が大病をしてしばらく入院をしておりました為、豊はいなかのオバアちゃんに預かっていただいておりました。オバアちゃんが体の具合を悪く致しましたので止むなく引き取りましたが、私の体の具合がまだ悪く子供のめんどうは無理と医者にも言われ・・。豊のくせとしては寝る時又悲しい時など、タオルを吸う事でございます・・」。小学校時代、転校していじめにあい、登校拒否になる。高校停学3回、結局退学。18歳でデビュー。出したアルバムはいずれも大ヒット。1年間単身、ニューヨーク生活。日本で活動再開直後、「覚醒剤所持」で逮捕され、最後は反逆のヒーローとして変死。遺作のCDが爆発的に売れた。
 
新垣 勉
  ラテン系アメリカ人を父に沖縄でうまれ、助産婦の手違いによって全盲となり、父母の離婚、失踪、天涯孤独という「悲惨な」生活を経験する。「障害者ゆえの、混血ゆえの差別を受け、父を、母を、助産婦を恨んで、「殺してやる」とまで思っていた私は、自分のような人間はなくてもいいや、と思って生きていました。自殺を試みて友人にとめられ、ひとり悶々としていたその時、ラジオから賛美歌が聞こえてきて………。自分に与えられたこの歌という、声という楽器を使って、その人でしか生きることのできない素晴らしい人生があるのだということを、歌い続けたいと思います」。『さとうきび畑』他、その澄んだ、青空のような歌声が、聴く人の心を励ましてくれる。

 
作曲家・演奏家
 
古賀政夫
 5歳の時、父死去。7歳で兄を頼って故郷を捨て母セツと共に韓国へ渡る。7歳で大正琴を従兄弟より、15歳でマンドリンを四男、久次郎より譲り受ける。母が長兄の嫁とうまく行かず自殺をはかる。17歳で初恋の人と別れ、朝鮮を後にし、明大に入りマンドリンクラブを作る。黙って明大に入ったことで長兄より勘当される。卒業の年、自殺を考え、この時、「影を慕いて」を一晩で書き上げ、翌年25歳でこれをレコード化、作曲家としてスタートする。一ヶ月かけて作った藤山一郎の歌で発表した「酒は涙かため息か」が100万枚売れる。
 一度結婚するが、夫婦仲がうまく行かず、1年あまりで破綻、以後独身を通す。作曲した歌謡曲は5000を越えた。国民栄誉賞受賞。
 
船村 徹:
 
11歳の時、父死去。父60歳、母42歳の時の子。東洋音楽学校ピアノ科時代に、朋友高野公男の作詩を得て、茨の道が続いていたが、「別れの一本杉」が、高野26歳、船村24歳の時、大ヒット。翌年、その高野が肺結核で他界。船村宛ての「男の友情」が絶筆であった。「王将」は戦後初、「兄弟船」も、ミリオン・セラーとなり、これまでに世に送り出した作品、4500曲。「故・高野公男・三十三回忌」には、全国規模で、追悼供養演奏を行った。紫綬褒章受賞。

宮城道雄
 生後7カ月の頃に角膜炎を患い、視力が落ち始める2歳の時に両親が離婚、祖母の手によって育てられる。7歳くらいより目がすっかり見えなくなり、二世中島検校に入門、生田流箏曲を学ぶ。9歳の時、その師匠の病死に会い、改めて三代中島検校に師事。11歳の時、父が暴漢に襲われて負傷し、送金不可能となり、代稽古の役で自活するようになる。13歳の秋、仁川に移り、一家の生計を支える身となり、生活苦にあえぎながら、14歳にして処女作「水の変態」を作曲。琴の作曲演奏家、東京芸大教授、日本芸術院会員として多数の弟子を育てる。17弦、大胡弓を開発。350曲作曲。鉄道事故死。『春の海』他。「邦楽の父」。 
 
山田耕筰
 9歳の時、父死去父の遺志でキリスト教系の自営館に入れられ、最年少であったため、夜間学校へは行かず終日働かされる。自営館のまわりにはからたちの垣根があったが、辛い時はそこに逃げて泣いたという。13歳の時、病気で家に戻ったが、自活のための労働が続いた。18歳の時、母死去。岩崎小弥太の給費でベルリンに留学、6学期間、王室アカデミー高等音楽院で作曲と指揮を学ぶ。日本最初の管弦楽団東京フィルハーモニーを結成。交響詩、オペラ、ピアノ曲等、1600曲を残している。特に三木露風、北原白秋等と親交を結んで、『からたちの花』、『この道』、『赤とんぼ』等の名曲を生んだ。許嫁ドロテア・シュミットの住むベルリンに帰れなくなり、婚約解消、華やかなラヴ・アフェアーに世間から中傷を受けたりもした。ジオン・ドヌール勲章、文化勲章受章受賞。。
 
滝廉太郎:(1879〜1903)
 役人であった父の転勤により、横浜、富山、東京、大分、竹田と住まいを転々。大分県竹田は12歳の時から、ここで多感な少年期を過ごす。極度の近視であったために、父が官吏にすることを諦め、好きな音楽の道に入ることを許し、オルガンを勉強させた。日本で初めてのピアノの留学生としてドイツに学ぶが、病を得て帰国。2年後、23歳の若さで亡くなる。『荒城の月』は、彼が最も愛したといわれる竹田の岡城阯をイメージして作られた。『花』、『鳩ぽっぽ』、『お正月』もよく知られている。

園田高弘
 8歳の時、ピアニストであった父が32歳の若さで亡くなる。1955年ベルリンフィルの定期公演に独奏者としてデビューして以来、欧米各地で演奏活動を続け、ジュネーブ国際音楽コンクール、ショパン・ピアノコンクールなど、世界各地のコンクールで審査員を務める。「園田高弘賞ピアノコンクール」。

フジ子・ヘミング:(Ingrid Fujiko V.Georgii-Hemming  1928〜)
 5歳の時、両親と共にベルリンから帰国。スエーデン人の父が日本を離れ、以後ピアニストの母の手一つで東京に育つ。17歳で、ピアノリサイタル。東京芸大在学中にNHK毎日コンクール入賞など。卒業後、日本フィルなどとの共演の後、渡欧。ベルリン音楽学校卒業後、ヨーロッパで活動。16歳の時の右耳に続き、今度は風邪が原因で左耳の聴力を失い、一時演奏活動を中断。孤独と絶望の時期を過ごし、極度の貧困も経験。現在、左耳のみ40%回復。母の死を機に、30年振りに、日本で再デビュー。NHKのドキュメント番組が大反響を呼び、苦難を乗り越えた「奇跡のピアニスト」として、ブームを巻き起こす。『奇跡のカンパネラ』他が、異例の大ヒット、クラシックCDの記録を更新中。世界の恵まれない人々への支援も、継続中である。

宮下富実夫
 11歳の時、父死去。20歳はロックミュージシャンとして活躍、渡米して演奏活動中、腰を痛め、東洋医学などを学び音楽療法を研究。独自のヒーリングミュージックを完成、「音楽による精神と肉体の解放」をテーマに、制作発表を続けている。音楽療法の第一人者
 
喜多郎 
 高校卒業後、4畳半に5人のぎゅうぎゅうづめの、練習のかたわら土方仕事をしながらの、共同生活。入社式に出ず、母親を騙し、そのまま豊橋から名古屋に出て、ロックグループを組んでいた。富士山麓に2年間、一人で、シンセサイザーに打ち込み、瞑想に耽る。ロンドン生活の後、アジアを放浪。帰国してデビュー、自作自演の『天界』を発表した時、25歳。NHK「シルクロード」の音楽で注目されるようになり、89年に米国へ移住、93年には米ゴールデン・グローブ賞の作曲賞を受賞。83年に山口組3代目長女・田岡由伎さんと結婚、90年離婚。96年にミュージシャンのKEIKOと再婚。ノミネート7回目にして、グラミー賞受賞。『シルク・ロード』他。「人間というのは、何事によらず、せっぱつまればできてしまうものではないだろうか。要は本当にせっぱつまるまでになんとかなればいいのだし、そこまできたら、人間というのはけっこうなんとかしてしまうものではないかと思う。アルバイトをしてもなぜかあまり金が入ってこない。”どうしよう”という時、私は三日間連続、つまり72時間の、俗に”アンコ”と呼ばれる、力仕事をしていた<喜多郎>」。

みなみらんぼう:(1944〜)
 11歳の時、母が脳溢血で死去。「NHKみんなの歌」で放送された『山口君ちのつとむ君』がミリオンセラーとなる。シンガーソングライター。現在は、音楽活動以外に、自然や登山をテーマにしたエッセイを執筆するなど、多方面で活躍している。
 
 
美術・画家・漫画家

安藤広重
 13歳の時、春に母が、秋に父が相次いで死去。その年、定火消(ジョウビケシ)同心となる。幼少の頃より絵は巧みであったが、同心役を15年ばかり勤める。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開く。『東海道五十三次』他。

葛飾北斎
 4歳の頃、母の実家へ養子に出される。19歳の時、浮世絵師の門に入る。26歳のおりに独立するが、ほどなく破産。画業で立ち行かず、貧困のあまりに唐辛子や暦の行商まで手を染める。勝川門下に復帰するが、師が没して、破門され、署名もできぬ雌伏生活を余儀なくされる。作画界で表立っての活動を開始したのは、36歳の時であった。3年後に完全独立、画料として2両手にしたことから志を改め、妙見菩薩、北斗星に、生涯画工をもって世を全うすることを誓い、名を北斎と改めた。
 作画活動は70年の長期にわたり、その間子供に次々と先立たれたり、長女の離婚、不肖の孫の放蕩で物心両面から悩まされるなどした。72歳から、『富獄三十六景』、75歳から『富獄百景』を出版。90歳の死に際まで作品を描き続けた。その卓抜した画法はフランス印象派の画家にも大きな影響を与えた。
 
雪舟等楊
 12、3歳の頃、相国寺(ショウコクジ)に小僧として入る。48歳で中国に渡り帰国後も山口、大分、島根、岐阜、山形、再び山口と各地の寺を転々、画技を磨いた。臨済宗の僧で水墨画の大家。『四季山水図』他。87歳。(トウヨウ)
 
いわさきちひろ
 3人姉妹の長女。小さい頃から絵がとても好きで、14歳の頃デザインと油絵を、父の世話で岡田三郎助に習いはじめる。20歳の時、心から尊敬し信頼していた母に勧められてお見合い。結婚するが、生真面な銀行員であった夫をどうしても好きになれずこれをさけるために夫はこれを気に病みノイローゼとなり、ある日突然首つり自殺する。夫を死に追いやってしまったことに強い自責の念を覚え、あまりにも幼かった自分を反省、様々な書物を読む。たどり着いたのは、「世界が全体幸福にならないうちに個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の生き方であった。
 自分も皆の幸せのために何かをしたいと生き方を模索。投獄されても、いのちを奪われても戦争に反対していた共産党に出会う。そして、31歳の時7歳年下の青年と再婚する。
 片道2時間半の地で開墾の仕事に黙々と汗を流し懺悔の生活を送る両親、泥と土にまみれながら苦しみの中に真剣に生きている人々、それらを見ていく中で、やがてちひろは心を変容させていく。どこか憂いあるその絵は、子供の純な表情や姿を通して、深い人生の色々な喜びや悲しみ、希望や夢を訴えかけている。
 
池 大雅
 4歳の時、父死去日本の伝統画派や西洋画の画法を採り入れ、自由奔放に個性を打ち出し、独特の画風で大雅様式を確立。江戸中期の文人画家。日本文人画の大成者

岡倉天心
 8歳の時、母死去。翌年母の菩提寺、長延寺に預けられる。8歳から英語を学び、東京大学でフェノロサに学び、18歳で卒業。28歳で、東京美術学校校長に。日本美術院を、創設。米国ボストン美術館東洋部長等、国際的にも活躍。著書はいずれも英文で、『茶の本』他。
 また、恋多き人生をも送った。インドで知り合ったある女流詩人へ、死の直前まで送り続けた大量の恋文が戦後発見され話題になる。美校校長を排斥された最大の理由が、後援者の男爵夫人との道ならぬ恋であった。離別された上、天心との仲を裂かれた夫人は、精神障害で寂しく死んだが、14歳で天心に嫁いだ元子未亡人の手で、男爵夫人の一枚の写真が、「あなたも不幸な人でしたね」の言葉とともに、五浦の墓地に一緒に埋葬されたという。50歳。
 
棟方志功
 小学校卒業後、鍛冶職の手伝い、青森地方裁判所の勤務の中で、画家を志して油絵を独学。生まれつき目が弱かったが、ゴッホの『ひまわり』を見て、画家となることを決心。さらに、ゴッホ、ゴッホも賛美した日本の木版画に転向。日本の伝統的な木版画法を駆使し、民芸調の、太く力強い独特の線と構図で、存在感の躍動する奔放な作風の作品を数多く創作。国際賞を多数受賞。「世界の棟方」となる。『釈迦十大弟子』他。文化勲章受賞。 

平山郁夫
 中学3年の時、広島にいて、爆心からわずか3キロしか離れていない所で被爆。たまたま小屋の中にいて、水や食べ物を口にしなかったことが幸いし、九死に一生を得たが、その後長く後遺症に苦しむ。同期の日本画科を主席で卒業した美知子を妻に得て、共に副手として大学に残る。シルク・ロードを訪れること80数回。作品に『仏教伝来』他。
 
東山魁夷
 父親が事業に失敗、兄と弟も肺結核に倒れ、 さらに母親も脳溢血に倒れるという不幸に次々と見舞われる。多額の返済を迫られるという経済的窮迫状態の中、世に認められたいという一心で懸命に絵筆を握り、改組第一回帝展に出品するが落選。 やがて父が病没。病身の母と弟、さらに妻を残して、召集を受け熊本へ。死を身近に意識していたとき熊本城趾から肥後平野を眺望し、そのとき「風景開眼」を経験する。
 終戦後、郷里でその感動を作品に描き、その「残照」が第3回日展で特選に輝く。39歳であった。「描くことは祈りである」と述べる。現代における日本画の最高峰の一人
 
竹久夢二
 16歳の時、家が没落、家出同然に上京。中学を4年で中退。藤島武二に憧れ、画家を志す。岸たまき、笠井彦乃、お葉と恋愛をくり返しながら、美人画と感傷的な詩文で一世を風靡した。作品に『女十題』、詩作に『宵待草』等がある。50歳。
 
伊東深水
 幼くして養子となり、生活のために小学校を中退、印刷所や新聞社でアルバイトの中、絵を習う。遊びは好んだが、酒もタバコも絵を描くために邪魔になるとして口にしなかった。江戸浮世絵の流れをくむ美人画で好評を博する。芸術院会員。
 
小林古径
 3歳で母を、9歳で兄を、10歳で父を失う。明治・大正・昭和の3代に活躍した日本画家。『』他。東京芸大教授。文化勲章受賞。 
 
山下 清
 軽度の知恵遅れで小学校は5年まで。小4の時、父病死。母は、3人の子ども連れで再婚。暴力を振るわれ、すぐに逃げだし、母子で母子ホームに入る。「放浪の天才画家」。
 
星野富弘
 中学校体育教師として赴任後2カ月目、体操の授業中不慮の事故により手足の自由を失う。9年間の病院生活の後、口を使っての詩画を発表するようになり、これが世に認められるに至る。『愛、深き淵より』、『かぎなくやさしい花々』他「努力し続ければ、きっと叶う時が来る。諦めたら、そこで終りなんだ。病気と言う事に甘えないで、私も頑張らなくっちゃと思うようになりました<ハンドル名:yu-ki>」。
 
富永一郎
 3歳の時、父死去。生まれた頃より左眼がほとんど見えなかった。6歳で父方の祖父(佐伯)に引き取られる。『ちんころねえちゃん』他。
 
長谷川町子
 13歳の時、父死去。15歳で、漫画を書き始める。26歳で『サザエさん』の連載開始。国民栄誉賞受賞。72才。生涯独身
 
梶原一騎
 早稲田大学入学が決まった直後、父親が死去。野球を題材にした連載漫画『巨人の星』が爆発的なヒット。続いて『柔道一直線』、『あしたのジョー』等、テレビ化、映画化され、人気を博した。
 
おおば比呂司
 13歳の時、父死去幼少より画才をあらわし、兵役の後、北海道新聞社の挿絵描きの明け暮れ、これがおおば漫画の原点となる。画風はどこまでもほのぽのとして温かく、あたかも水鳥の水面をゆうゆうとすべるさまにも似ており、水面下では、あわただしく細心に水をかく、努力の人。漫画家
 
やなせたかし
 4歳の時、父死去。グラフィックデザイナーとして勤務後、漫画家となる。月刊「詩ととメルヘン」刊行。絵本「アンパンマン」が人気を得て、アニメ化も。総発行部数2000万部以上。舞台の演出、アニメの美術監督としても活躍。

手塚治虫(1928〜1989)
 幼少年期、やせこけたひ弱なチビで、髪は天然でチリチリ、メガネをかけて、団子っ鼻に特徴があり、ずっと「いじめられっ子」であった。朝から晩まで、ガキ大将、番長クラスに酷い目に会い、クラスメートからもばかにされ、いびりの標的であった。下に弟妹がいて、長男。軍人の娘で厳しいしつけを受けていた母が、「今日は何回泣かされたの」と尋ねるしまつ。その母が買ってくれた漫画を、せりふだけでなく画面も残らず暗記してしまうほどに何度も読み返し、漫画を描いて、それがいじめ対策になることに気づく。小5の時、ノートに1冊分の漫画を描き、それが先生に見つかり、逆にほめられて、これが転機となる。戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して後年医学博士になるが、結局、漫画家の道を選ぶ。作品の愛すべきキャラクター「鉄腕アトム」たちは、漫画からさらにTVを通じて日本中を席巻、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国にも輸出され、世界の子供達の夢を育んだ。
 
スポーツ
 
星野仙一:(1947〜 )
 誕生前に、父が死去。母の手一つで育てられる。巨人入りの夢がかなわず、中日ドラゴンズに入団。中日一筋に14年間、エース、打倒巨人に燃えた闘将として、「ジャイアンツキラー」の異名を取る。中日の監督となってからは、リーグ優勝2回。阪神の監督となって2年目、4年間最下位であった阪神を、18年振りにリーグ優勝に導く。最愛の妻扶紗子さんを5年前亡くし、母の死に向き合った直後のことであった。「正しいと思ったことは、信念を持ってやり遂げなさい」の母の言葉は、今も心の支えであると言う。

千代大海
 3歳の時、父病死。小5の時に母再婚。中学の時、一人で11人の高校生を相手に喧嘩に勝つ。悪いことはしつくす札付きの非行少年で、遅刻早退無断欠席の常習犯であった。ゴムを巻いた竹の束で、母から叩かれて育つ。中卒後始めたとび職は続かず、相撲部屋に入った時はそりを入れ、眉は薄く、金髪であった。入門後6年で、大関に昇進。

貴 ノ 花
 5歳の時、父死去。7歳(小1)の時に、母と共に子供達5人が、兄二子山の家に引き取られ、室蘭から杉並へと転校。中3の時、百メートルバタフライで中学新記録樹立。母の意見に従い、相撲界へ。20歳の時、憲子夫人と結婚。藤島部屋親方として、若貴兄弟横綱を誕生させる
 
双 葉 山
 10歳の時、母死去。6歳の時、吹き矢が右目に当たりほとんど視力を失う。又小学生の時に滑車に挟まれ左小指を第一関節から失う。小学校4年で父が事業に失敗。現役時代は相手に右眼のことはさとられなかったが、引退後そのことを打ち明けられた出羽海は、感動のあまり思わず双葉山の手を握って号泣しという。土俵生活の中につねに道を求めてやまない姿は力士の理想像であった。2場所時代に69連勝
 
舞 の 海
 千代乃富士の例を出して小さくても勝てると父になだめられ考え直したのは小5の時。日大では体重不足から、レギュラー出場がかなわず、悔しい思いをしていたが、4年の時、巨漢の後輩が朝起きた時、突然急死しているのに遭遇。自分の命もはかないものであることを身をもって実感。母の反対も押し返して、命を賭して、望む道に邁進することを決意。角界入りの検査の時は、頭頂を10センチ以上にわたって開き、高さ4センチのシリコンを縫い込み規定の174センチをパス。身長170センチ、体重は90キロ足らずの小兵で1994年小結に昇進。
 
寺  尾
 高校生の時、母が乳ガンで急死。母の死のその日、弱虫・泣き虫の甘えん坊が、角界入りを決意。蔵前小町と呼ばれた母の20歳の時の写真をいつも持ち歩く。朝と夜、ベランダに出て空を見上げながら、母親に話しかけると妻の弁。名関脇鶴ヶ嶺を父に、兄弟が揃って関脇まで昇進、兄弟揃って三賞受賞。きっぷのいい取り口、彫りの深い顔立ちと均整の取れた体、軽量をカバーする技量、常に全力を尽くすことで、格別の人気があった。関取在位110場所(歴代1位、H.15)、「平成の鉄人」。

智 ノ 花
 11歳の時、両親離婚。失語症となる。父の弟成松光法に引き取られ相撲を勧められる。選抜高校宇佐大会で優勝。日大3年の時、彼女に「先生になるなら結婚してもいい」と言われ、相撲を捨て体育の教師となる。4年間の教師生活中、全日本相撲選手権で優勝。後輩舞の海の活躍を見て、27歳の時、教職を捨て角界入りする。
 
野村克也
 3歳の時、父が戦死。病弱の母、兄と3人で貧乏に苦しむ。9歳から新聞配達。高卒で南海に入団。戦後初の三冠王となる。捕手、4番打者で、監督を務めるが、解任され去る。後に少年野球チームの監督として全国優勝。万年Bクラスのヤクルトを日本一のチームに育て上げる。
 
衣笠祥雄
 小学生の時、母が再婚。プロ野球の連続試合出場の世界記録保持者。小学校の卒業作文に「将来、プロ野球選手になりたい」と書く。「鉄人衣笠」と呼ばれる。

山下泰祐:(1957〜 )
 小学校入学の時、すでに六年生並の身体。低学年時から元気を持てあまし、かなりの問題児であった。親が学校に呼び出されたり、近所から苦情が出たり、小四の時はそのために登校拒否の子が出るしまつ。これを家人が心配、将来を危ぶみ、柔道でも習わせればということで始めたのがきっかけ。中学の柔道部で白石礼介先生との出会いがあり、文武両道の精神の大切さを教えられる。オリンピックチャンピオン、国民栄誉賞受賞、全日本の監督八年など。

スタルヒン
 9歳のときに祖国ロシアから亡命して来日。父が女性店員を殺害。マウンドで野次を飛ばされるとポロポロ涙を流しながら投球を続けた。年間、42勝38完投、年間最多連勝18連勝達成。初のプロ野球300勝投手。交通事故死。
 
エデイ・タウンゼント
 3歳の時、母が急死。父は母の妹と再婚。新しい母と折り合いが良くなかった。幼稚園の時、「混血」と虐められるが、小学校に入ると喧嘩坊主になる。中学高校で何度も停学処分を受け、退転学を繰り返す。14歳の時、ボクシングを習い始める。44歳で25歳のダンサーと再婚。ボクシングに自分を発見名トレーナーとして6人のチャンピオンを生む。
 
大仁田厚
 小3の時、父母離婚、長崎から東京に移り母と別れて暮らす。中学時代に、新聞配達、左官と以後全部で18の職業を経験する。16歳の時にジャイアント・馬場に出会い、プロレスラーになる。FMWを結成。
 
前田日明
 父親が事故で左親指を無くし左肘の関節をつぶすけがをしていたこともあったのか、離婚し、仕事の関係などでよく家を空けていた。ショー的要素を廃したプロレスを追求、新生UWFを旗揚げ、人気を呼ぶ。(アキラ)
 
嘉納治五郎
 157センチ足らずの小躯。 18歳の時に初めて柔術と出会う。道場「講道館」を開設。古来の柔術を改良した講道館柔道を完成。第五高等中学校校長。 日本最初のIOC委員。大日本体育協会創立、初代会長。第12回東京オリンピック招致に尽力。
 
古橋広之進
 中学3年の時、勤労動員の作業中、歯車にかまれ、左手中指の第二関節から先を切断。これを発憤材料にして猛練習に打ち込む。日大では朝は4時半から5〜6千メートル、授業終了後 全体練習で6〜7千メートル、寝る前にはまたプールに向い、手足が棒のようになるまで泳ぎ続けた。更に脚力強化のために、考え付くことには片っ端から挑戦。結果、昭和24年全米選手権自由形で、400、800、1500、800リレーで世界新を樹立。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれ、33の世界新記録を作り、戦後の人々に生きる勇気を与えた。日本水連、世界水連副、日本JOC会長等を務める。
 
荻村伊智朗
 2歳の時、父を失う。高1で、卓球を始める。卓球台は、空襲で屋根の焼け落ちた体育館に、皆でアルバイトをして買った中古品。都立大では、一日8時間の練習。日大卓球部の八尾板監督に誘われ日大へ移り、軟式、硬式で日本選手権獲得。21歳の時、ロンドンの世界選手権に、卓球仲間の街頭募金や後援会のカンパで出場、根強い反日感情の中、男子シングルスに初優勝。33歳で現役を引退するまでに、世界タイトル12。米中国交回復のきっかけとなった世界選手権名古屋大会を成功させ、世界選手権千葉大会では、南北朝鮮統一チームを実現させた。国際卓球連名会長。世界一の卓球選手で指導者、水泳の古橋に続く戦後日本スポーツ界のヒーローであった。肺ガンで死去。62歳。(オギムライチロウ)
 
遠藤幸雄
 中学から高校までを福祉施設で過ごす。アルバイトをしつつ東京教育大を卒業。日大の講師となってから体操界で頭角を現す。昭和37年から全日本選手権4連覇。39年の東京オリンピックで個人総合優勝し、団体優勝をも導く。43年のメキシコ五輪では、団体優勝の牽引車となり、開会式では日本代表選手団の旗手を務める。
 
山手 勝
 3歳の時、左腕を失う家出をして日本中を転々とする。福岡の米軍キャンプで米国に片腕のプロゴルファーがいると聞く。8時から5時まで勤務。夜明けから練習。夜も炭坑のキャップランプで苦労、訓練。5年かかって18ホールを37歳で回る。平成3年3月から、「片腕のプロゴルファー」。(オサム)
 
宗 道臣
 8歳の時、父死去。天理教を信仰していた母に育てられる。10歳の時、父方の祖父と満州に渡る。15歳頃、母と2人の妹が相次いで死去。翌年祖父も他界し、天涯孤独の身となる。工作員として再び満州に渡り、そこで少林寺拳法の師に出会う。日本の「少林寺拳法の創始者」。
 
中村 清
 中2で、父親病気に倒れ、3円の月謝を払えずある教師に援助を受ける。中3で、兄死去。瀬古選手育ての親
 
イチロー
 チチロー宣之さんは、高校時代、野球部で練習中、硬球を左耳下にまともにくらい、野球を断念せざるを得なかった。イチローにかける並々ならぬ情熱は、その無念さから端を発している。3歳の時、オモチャ代わりに買い与えられたプラスチックのバットとボールをイチローはいたく気に入り、外に遊びに出る時には必ずそれを持って出た。右利きのイチローを左バッターに変えたのは、二歩分くらいは一塁に近いからであった。バッティングフォームは最初にバットを握った時から作られていた。小3で、野球部に入部。「おやじはこれまで僕にウソをついたことがない・・」。午後3時すぎに学校から帰ってくると、二人は毎日グラウンドへ出かけ、日が暮れるまで練習をした。家の近くのバッティングセンターにも小3の時から通い始めている。練習が終わると、家で夕食。それから珠算と習字の塾に行った。そのあと親子はバッティングセンターへ。中学になると120キロに満足できず、130キロの球を出せるバネを特注してもらう。その選球眼はここで身につけたに違いない。その「目」の確かさと、身体の対応の訓練は、チチローによれば、小6で終えていた。
 
冒険家
 
今給黎教子
 10歳の時、父死去。少女の頃、『Dove号の冒険』で少年達がヨットで世界一周する物語を読み、触発されていた。ヨット「海連」に乗って「単独無寄港世界一周」を278日間で果たす。(イマキイレ)
 
中浜万次郎
 9歳の時、父病死。14歳の時、漂流、無人島に漂着143日の島生活の後、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、24歳で帰国。土佐藩、幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。(ジョン万次郎
 
松田宏也
 誕生前2ヶ月の時父が手術中に麻酔でショック死する。兄と2人を母は一人で育てる。中2の夏休み久住山で見た満天の星が心に残る。四川省ミニヤコンカの北東稜からの登頂で頂上に向かった二人の内の一人。悪天候のため、トランシーバー凍結、交信途絶え、頂上付近で消息を絶つ。生存絶望と判断されたが、19日の彷徨の後、地元民に救出される。寒気、飢餓、疲労、凍傷、幻聴、幻覚で極限を経験。ザイルの取り払われた絶壁を見て、絶望の淵に陥る。両手指両足の患部切断。「奇跡の生還」であった。答礼の再訪の時、「すべては昨年とまったく変わっていなかった。ただ、僕だけが大きく変わった。ミニヤコンカという一つの山を舞台として、僕の人生は大きく転換した」と書いた。佐伯市出身。高校時代、クラスでは、態度は遠慮がちで目立たない存在であった。


財界人・実業家

井深 大:(1908〜1997)
 2歳の時、父死去。日光、東京、北海道、愛知、神戸と住まいを変え、学校を転々。その寂しさを紛らわしたものは、複雑な歯車で作られたさまざまなおもちゃであった。戦時に出会った盛田昭夫元海軍中尉と共に東京通信工業を興し、テープレコーダー、トランジスターラジオなど、数多くの独創的な日本初、世界初の商品を世に送り出す。「世界のソニー」生みの親。教育問題にも高い関心を寄せ、小中学校の理科教育、幼児教育に多方面で力を注いでいる。『幼稚園では遅すぎる』『井深大の心の教育』『子供は育て方しだい』『〇歳からの母親作戦』などの著書を残し、幼児期からの教育の大切さを訴えた。

松下幸之助
 貧農の子。8人兄弟の末っ子。4歳の時、父が米相場で失敗、先祖伝来の土地や家をほとんど失ってしまった。小学校を4年で中退、9歳で大阪に奉公に出て苦労を重ねた父が病死、母が再婚、他家へ移り母とは二度と会えなくなる。親兄弟を亡くし、一人で病気がちであった。いくつかの職業を経たのち、改良ソケットを考案、22歳の時、独立。大量生産、大量販売で大松下グループを作り上げ日本における家電製品の普及に貢献した。昭和21年、PHP研究所を設立、ビジネス活動によって社会の平和と幸福を実現するという運動を展開。「我々人間は、決めなければならないときには決めなければならない。勇気をふるって決断をしなければならない」。「経営の神様」。94歳。
 
原 安三郎
 3歳の時に流行性リューマチにかかり、右の手と左の足が不自由な身体となる。徳島中学の2年の時、これを理由に校長から退学を命じられ、これを時の文部大臣に直訴。これより6ヶ月後、体操のできない者でも中学入学を許可するの指令が文部省より全国の中学に出される。一橋入学、三井物産入社も身体のことで辞退。「日本火薬」の創業者。会社再建の名手として知られる。
 
嶋田卓彌
 小学校6年の夏に、父病死。口減らしのために大阪船場の呉服問屋へ丁稚奉公に出される。角袖に角帯をしめた丁稚姿を同級生に冷やかされ、唇をかみしめたこともある。越前永平寺の雲水の修行に似たことも経験、1日17時間ほどの重労働であったともいう。長年「ジャノメミシン社長として活躍。(タカヤ)
 
石橋正次郎
 小学校卒、進学を残念、家業の仕立屋を継ぐ。地下タビを発明、ヒットさせる。石橋を逆にした名の「ブリジストンタイヤ」を創設しタイヤ作りを始める。ブリジストン美術館を開設。日経連・経団連常任理事等。
 
浅野総一郎
 6歳の時父と死別。養子を離縁され実家に戻り、借金を踏み倒し故郷を出奔。東京で醤油屋の小僧。仕入値タダの竹の皮屋を皮切りに、廃棄物のコークスを利用するなどして、「アサノセメント」、浅野財閥を築く。
 
本田宗一郎
 祖母は「女左甚五郎」と呼ばれるほどの手先の器用な女性で農機具まで作っていたが、その父親、曾祖父も「製材の名人」と言われるほどの技術の人で、宗一郎の「技術者魂」は、「遺伝」ではなく、むしろ代々の技術の伝授」からきている。貧しい農家の長男であったた儀平は、10歳の時に、隣村の鍛冶屋に奉公に出されている。入れ歯まで作るようになった、「創意工夫の人」、腕の立つその父親の姿を見て宗一郎は育った。3、4歳のころの最も古い記憶の一つは、仕事場で父親が汗にまみれて灼熱の鉄を打っていた姿であると言う。旧制工業中退。「丁稚奉公時代に、何度、家に帰ろうと荷物をまとめたことか。そんな私を思い止まらせたものは、両親への誓いであった」と記す。「本田技研」創業者。「オートバイ王」。
 
豊田佐吉
 小学校を終えると父の大工仕事を手伝う。18歳の時、特許条例を知り、発明を志す。手織機の改良を企て、日夜努力を重ねたが借金はたまる一方で、親戚や近所の人たちから気違い扱いされ、最初の妻が生まれたばかりの赤子を残して逃げだした。画期的な「豊田式自動織機」を完成、生涯に100にのぼる特許を取得した。
 
早川徳次(1893〜1980)
 母が病弱で、2歳の時、養子に出され、貧困のため、9歳の時から学校を離れ丁稚奉公。19歳で独立。技術を生かし、独創的な繰り出し鉛筆(シャープ・ペンシル)を発明。アメリカでの特許も取る。それを元に事業を行うが、関東大震災で妻と子供を失い、工場が壊滅。大阪で早川金属工業所(後にシャープ)を設立、再起を図る。国産初の小型鉱石ラジオの組み立てに成功、テレビ受像器の試作品を完成。放送開始と共に量産、世界初の電子式卓上計算機を製作、事業を拡大する。身体障害者による工場を設立するなど、福祉事業にも尽力した。

岩波茂雄
 14歳の時、父死去。人生問題に悩み、高校を卒業せず、東京大学は選科で哲学を学ぶ。神田中学校に奉職するも3年にして、「人の子を賊ソコナう不安と苦痛より免れんため」教師をやめ、古本屋を開業。翌年出版を始める。古今東西の名著を安価に普及するための「岩波文庫」、「岩波全書」、「岩波新書」、「哲学叢書」などを企画、文庫本、新書本、の先駆をなし、学術普及に大きく貢献する。文化勲章受章
 
林 武志
 1歳の時、石炭を馬車で運ぶ人夫の頭で盲目であった父が死去。7人兄弟の末っ子。日雇いで日銭を稼ぐ母のもと、工業高校時代、ケンカばかりして、福岡県下に勇名鳴り響く総番長となった。ラーメン屋の出前、トラックの運転手を経て、東京に着いて駅でうどんを食べた時には30円しか残っていなかった。新聞を拾って、化粧品のセールスの仕事を見つけ、給料日まで新宿駅構内でダンボールや新聞にくるまり、飲まず食わずで働く。昭和58年、「朝日ソーラー」設立。太陽熱温水器の販売で、8年にして業界日本一になる。
 
早矢仕 有的:(はやし・ゆうてき 1837〜1901)
 誕生の2カ月前に、父病死17歳の時、母死去。岐阜で漢学、医学、蘭学を学び、江戸に出て町医者となる。29歳の時、福沢塾に入門、英学を学び、福沢諭吉に指導を受ける。31歳で書店を開き、後に、日本最初の株式会社「丸善」を創業。ハヤシライスの生みの親と言われている。

高久康憲
 小5の時、突然、父死去。一家は貧乏のどん底に陥る。お寺の小僧に預けられ、冬でも素足で朝早くから起き、凍るような水で雑巾を絞って長い廊下を拭くこと7年間。東大印度哲学科を卒業。日本有数のファッションチェーンを率いる、「タカキュー」会長。「メンズファッション王」。
 
神近義邦
 貧乏で小学校のころから働き、家計を助ける。定時制高校2年の時、神近家に養子に行く。卒業後、役場に就職、かたわら土地を借り、父親に習って花の栽培を本格的に開始。朝晩、日曜祭日、一日も休まず働いた。旱魃の時は、毎晩懐中電灯を口にくわえ、池から水を運び菊に与えた。この頃、14万本の菊を栽培。「長崎ハウステンボス」プロジェクトは、そうしたやる気と人間的魅力を持った一人の男に協力する者が集まって実現した一大ロマンである。
 
郷 誠之助
 12歳頃から遊郭通いのやりたい放題、 若いときは札つきの放蕩息子であったが、 近所に住む少女に恋をし、10年後には夫婦になることを固く約束する。3年間、 文通による2人の熱い恋が続き、女遊びもきっぱりやめ、 のぶ一筋であった。ところがのぶ18歳の時、 のぶに縁談が起こり、 2人は引き裂かれる。のぶは遺書を残して服毒自殺した。20歳でドイツハイデルベルグ大学に入学、 27歳で帰国後、「日本運輸」の社長などを歴任、顔の広さと手腕によって、大企業の合併、整理、陸上運送業の合同、鉄工業の国策化を進めるなど、戦前日本の財界のリーダー的存在として活躍した。ただ生涯、妻をもらわなかった。心に本当に愛する人を秘めての一生であったかもしれない。
 
川崎正蔵
 6歳の時母死去。幼い頃から父を助けて行商に歩き回る。15歳のとき、祖父死去。翌年、自宅全焼。16歳の時、薩摩の「山木屋」の長崎支店に奉公に上がる。川崎造船所、後の「川崎重工」を創業する。
 
松田重次郎
 3歳の時父急逝。小学校にもほとんど通わず漁に出る毎日。13歳で、鍛冶屋に奉公に出る。17歳で、呉海軍工廠(ショウ)で職工見習い。10代の終わりに工場を持つが、すぐに廃業。「マツダ」の創業者。

小林一三
 誕生直後に、母死去。婿養子の父が離縁され、2歳で家督を継ぐ。慶大卒業後、三井銀行に入社。退社後、阪鶴鉄道鑑査役、箕面有馬電気軌道会社専務に。沿線を住宅地として開発、箕面動物園、宝塚新温泉、豊中運動場を作り、宝塚少女歌劇養成会を結成、客寄せするアイデアあふれる独創的な経営で、事業を伸ばし、その後、宝塚歌劇、東宝映画を創設、東京電灯(後に東京電力)、目蒲電鉄、東横電鉄、日本軽金属の役員を歴任。近衛内閣の商工相、戦後は東宝社長に就任する。「今太閤」。
 
鈴木三郎助
 8歳の時父病死。3人の子を残された母ナカは「今日からは母を父と思って〜」と涙ながらに言い渡す。14歳の時食料品問屋の住み込み小僧。苦心筆紙に尽くし得ず。後に、「味の素」を世に出す。
 
鈴木清一
 父が病気で治療費など借金がかさみ5歳の時口減らしのため養子に出される。医者も見放す大病を経験、頭を丸め、金も、地位も、名誉も捨てて『一灯園』に飛び込んだ。「ダスキン」創業者。
 
吉本晴彦
 3歳で父を、11歳で母を亡くす。親代わりになった祖父も13歳の時亡くなり、独りぼっちで十代を生き抜いて成人、陸軍主計少尉として敗戦の日本に帰還。大阪丸ビル、大阪第一ホテルなどの社長。「大日本どケチ教」の教祖。
 
伊藤次郎衛門
 6歳の頃、父戦場に向い帰らぬ人となる。商人となっていた父の跡を継ぎ次第に呉服商伊藤屋を大きくする。名古屋から江戸に出て財をなし、江戸上野の松坂屋を買収する。「松坂屋百貨店」の始祖。
 
浜田彦蔵
 幼時に、父死去13歳の時、再婚した母が死去。嵐で漂流、アメリカ船に救助され渡米。帰化してジョセフ・ヒコと称し、日系アメリカ人第一号としてリンカーン大統領に会う。横浜で英字新聞を抄訳した『海外新聞』を発行。
 
土光敏夫
 母は、その父親が法華経の信仰の厚い人で、幼いときから経を読み出し、16歳の時に川に入って水行をしている。橘学園は、登美が70歳の時に、女子教育をしっかりやらなければならいとして創立した学苑。「私が考えますのに、どんなに偉い学者も政治家も軍人も生まれた時は皆母親のふところに抱かれその乳房をふくんで育つのです。その時母親が、むつきの中からわが子にたいして、世界を正しく導くような人間になれと教育したら、むごたらしい戦争をしなくても世を治めて行ける人々が多く出て、立正安国の実もあらわれましょう。肝心なのは女子教育だと思います<登美>」。正しいと信じたことに執念を燃やす土光を育てたのは、この母登美である。県立中学入学を3度失敗。蔵前高にまたしても失敗、次の年22歳で合格。彼の読書は有名で、暇さえあれば読みふけった。毎朝、起床は4時、その後20分前後、法華経の読経、死ぬまで、読経を続けた。「私は、つまらん男です。なにか心の拠り所がないとネ<敏夫>」。
石川島播磨重工業、東芝を再建経団連会長、臨時行政調査会会長を務めた、経済界の大物。


学問研究

伊能忠敬
 7歳で、母と死別。継母が家に来るが、その継母とうまくゆかず親戚を転々とする。18歳で伊能家の養子となり、伊能家再興を果たし、飢饉に見舞われた村の再興も果たし、名字帯刀を許される。 江戸の天文方(ガタ)に学び始めたのが51歳。地球図を見て、「日本地図」を作ろう思い立つ。実際に測量を始めたのは56歳。北海道から始め、東北、北陸、中部、関東、近畿、九州と回り、歩いた距離は、地球一周分。約17年間、努力を続け、『日本沿海輿地全図』を完成する。
 
頼 山陽
 父が江戸住みで、14歳までは実質上、母の手一つで育てられた。この田舎者の秀才は大江戸で遊びの味を覚え、遊蕩児に変身。嫁さんをあてがわれたが放蕩はやまなかった。家出して連れ戻され、座敷牢に幽閉される。しかし牢内で猛勉強。『日本外史』他。
 
塙保己一
 5歳の時、肝の病で失明12歳の時、母死去。鉄眼大和尚18年の血の結晶、版木6万余枚の一切経を手に触れ、口も聞けない興奮を覚える。これが、版木17,244枚の『群書類従』作成の動機となる。21歳の春、北野天満宮に詣でたとき、天満宮こそ一生涯の守護神と定め、早起きの決意と誓いを立てる。34歳で『群書類従』の豪所を編集して、開板成就できるように天満宮に祈願。そのため、毎朝3時に起床して午前4時までに、『般若心経』を100巻ずつ読み、100万巻完遂の誓願を立てた。居宅中にも天満宮を祀り、心経100巻ずつを34歳から読み続け、74歳で他界する日の20日前まで、一日も欠かさず、40年と8ヶ月23日間これを続ける。計 2,018,690巻の般若心経を読誦し続け、670巻を仕上げた。異常な記憶力により和漢の学に通暁。幕府保護の下に和学講談所を建て、門下に碩学を輩出した。江戸中期の「盲目の国学者」。(ハナワホキノイチ)
 
山本常朝
 11歳の時、父死去。『葉隠聞書(キキガキ)』11巻は、常朝の口述を筆録したもの。藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の道徳を説いた。「武士道といふは、即ち死ぬことと見付けたり」。(ツネトモ)

渡辺華山
 12歳の時、同年の幼い殿様の行列にぶつかり、顔から火の出るほどに殴られ、怒声とともにぬかる道にはね飛ばされるという生涯に一度の屈辱を受ける。この無念の思いが学問に向く。父が病み、貧乏の内に弟妹6人が次々と死去。独自の画法を完成。幕末の文人画家・洋学者。「蛮社の獄」に連座し、自刃。
 
本居宣長
 11歳の時、父死去。幼時を、母の手一つで育てられる。34歳の時、『古事記研究の志を67歳の賀茂馬淵に打ち明けて、その教示を得、入門、上代古典の研究に傾倒。30余年を費やして、『古事記伝』を完成。医業は生活の資をかせぐ手段、宣長の目的は和歌・文学の研究から進んで古道を研究するにあった。江戸中期の国学者
 
荻生徂徠
 14歳の時、父が流罪となる。これが英資錬磨の機会となり、13年間猛勉強。27歳で開塾。江戸中期の儒学者
 
山鹿素行
 幼時、江戸榎木町の済松寺において祖心尼に養われ9歳で林羅山に入門、15歳で兵法家の小幡景憲、北条氏長に入門、21歳で印可状を与えられる。江戸前期の儒学者・兵学者
 
大塩平八郎
 7歳の時、父を、翌年母を失い、以来もっぱら祖父母に養育される。14歳で与力見習い。学者としても世評があり、家塾「洗心洞」を開き、幕吏や近郊の地主富農、その子弟など多数の門弟を集めた。天保飢饉で市中困窮に当たり、自らの全蔵書を売却、650両を33ヵ村の窮民に分け与え、窮民救済、幕批判のために立ち上がった。一揆は敗れて、潜伏し、最後は、放火、自殺。江戸後期の陽明学者
 
林 子平
 3歳の時、父が人を斬り、妻子を父の弟に預けて出奔。15歳の時、その叔父が死去。40歳の時、『海国兵談』を起稿、世人を覚醒しようとしたが、禁固の生活に入る。江戸中期の経世家
 
平田篤胤
 19歳の時、継母の虐待が原因で出奔。以後転々流浪の生活が続いたが、25歳の時、読書する声を聞かれ、平田の養子に迎えられる。復古神道を体系化。尊王運動に大きく影響を与える。江戸後期の国学者
 
熊沢蕃山
 8歳の時、父が浪人し、母弟妹と共に母方の祖父、熊沢家に身を寄せる。16歳で岡山藩主の児小姓。中江藤樹に師事。江戸前期の儒学者
 
高野長英
 8歳頃、父が死去。母とともに実家に戻り、伯父高野玄斉の養嗣子となる。祖父から漢学の手ほどきを受け、杉田玄白に学んだ養父から蘭学の初歩を学びながら育つ。江戸で、吉田長叔に師事、蘭方医学を学ぶ。長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で近代科学の偉大さを学び、西洋事情の研究等により、政治的見識を広め、シーボルトからドクトルの称号を受ける。シーボルト事件では、難を免れ、江戸で塾を開き、わが国初の生理学書『医原枢要』、京都で地震にあえば『泰西地震説』、天保の大飢饉には『二物考』を著わし、馬鈴薯と早ソバの栽培を庶民にすすめ、民衆の願いにこたえて著述、翻訳、講義、診療に精力的に活動。「蛮社の獄」の大弾圧で、『夢物語』を書いて幕府を批判したことから終身刑となる。この時は獄中から『万国地理書』百巻の翻訳を願い出るなど、不屈な姿勢を示す。入獄6年目江戸伝馬町獄舎の火事を機に逃走。数多くの門人や学者、宇和島、薩摩藩主等に守られながら、薬で額を焼き面相を変え、いくども名を変えて、潜行活動を続けながら『三兵タクチーキ』などの訳業をなしとげる。密告により、幕府の捕方におそわれ、所持していた脇差で喉をついて自刃。47歳。その生涯は、日本の夜明けのために捧げられた。

長谷川如是閑
 8歳で坪内逍遥の私塾に預けられる。10歳で曾祖母の家を継ぐ。満州事変の翌年『日本ファシズム批判』を出版するも発売禁止となる。全国中等学校野球大会を発案。明治・大正・昭和期のジャーナリスト。文化勲章授賞。生涯独身95歳。
 
西田幾多郎
 強度の近眼で、机に顔をつけるようにして文字を書いた。西洋と東洋の哲学を取り混ぜた『禅の研究』を基礎として形成した独自の「西田哲学」は当時の思想界に大きな影響を与え、門下生の育成にも努めた。文化勲章受章。
 
牧野富太郎
 3歳で父を、5歳で母を亡くし、祖母の手で育てられる。幼い頃は病気ばかりの虚弱児であった。小学校中退、 独力で植物学を学び、 東京帝大植物学教室に出入りし、 東京帝大講師となる。13人の子宝に恵まれたが、家賃が払えず追い出され結婚以来18回も引越しを繰り返す。名は富太郎であったが一生金に苦しめられた研究一筋の植物学者。1000種を越える植物を発見し、『植物図鑑』を著す。文化勲章受章。
 
中江兆民
 父は落度の多い人物でまた江戸詰めであったので、弟と共に母一人に育てられる14歳で父を失う。自由民権運動の理論的指導者。「東洋のルソー」と呼ばれる。料亭で酔っぱらって火鉢の中に放尿するなど奇人としても知られた。
 
三木 清
 高3の時、西田幾多郎の『善の研究』を読んで、哲学専攻を決心。ヨーロッパに留学、ハイデッガーに師事、パリではパスカルの研究に専念。。民族主義、全体主義に抵抗し、思想統制にあい、治安維持法違反で投獄される。栄養失調とかいせんに悩みながら獄中で病死。48歳。『人生論ノート』など、その自由主義的な思想は、若者の間に多くの共感を呼ぶものがあった。「岩波文庫」を発案。戦前を代表する哲学者
 
谷川徹三
 一高入学の頃から「青春の醜さに悩み、人生を否定的に考え、近水(チカミズ)常観の求道学舎に入る。『歎異抄』に親しみ、人生の肯定に転じ、ホイットマンやゲーテからも感化を受けた。「人間とは常に人間になりつつある存在だ」と考え、「人類が未来に生きるためには平和的共存が唯一の道である」とし、世界連邦運動にも加わり、独断と狂信を嫌った。広大な「教養体験」と、あらゆる体験に深い影を落とす「原体験」から生まれる繊細な把握は、独特な知的世界を作った。哲学者。 

田口卯吉
 5歳で父を失い、江戸、横浜、沼津、静岡などに移り住む。自由主義経済の唱道、民権の鼓吹に努め、実業界にも活躍。衆議院議員。『群書類従』編集刊行。『日本開化小史』他。
 
本明 寛
 母子家庭に育つ。早稲田大学名誉教授。日本心理学会理事長。文学博士。著書『人間の能力』他、多数。 
 
鈴木大拙
 5歳の時、父死去。第一高等中学予科を生活のため中退。20歳の時母を亡くす。学生時代禅僧今北洪川に師事。27歳から13年間アメリカで生活。50歳を過ぎて著作活動に入る仏教哲学者。1936年に世界宗教会議に日本代表で出席。日本文化と禅思想を世界に広めることに努力。95歳。
 
田中耕一
 生後26日で、母が産後の肥立ちが悪く死去。父の弟一家に預けられ、4人姉弟の末っ子として育てられる。そのことを知ったのは東北大学の入学手続きで戸籍を取り寄せた時。たんぱく質解析に新手法を開発したことで、43歳の時、2002年、「ノーベル化学賞」受賞。「博士」の肩書きを持たない大学卒の一サラリーマンが、作業服で記者会見に臨んだ。

小柴昌俊
 旧制横須賀中学時代に、ポリオにかかり、数ヶ月休学。旧制一高の受験に一度失敗。戦後、父親が公職を追放されたため、アルバイトで生計を支える。宇宙の成り立ちを解明するニュートリノをカミオカンデ大実験装置(地下千メートルに3千トンの水をたたえた素粒子実験装置)で捉えて15年後、2002年、「ノーベル物理学賞」受賞。東大名誉教授。

湯川秀樹
 神経質で、机や椅子を畳の目に合わせて置かなければ気が済まないという几帳面さ。皆から「イワンちゃん」とあだ名されていたが、これは「何も言わん」というところからきていたという。読書を好む無口な少年で、学校でも、皆の視線を感じ、顔を赤くして声が出なくなってしまう状態であった。物理に興味を持ち始めたのは、中学の頃。京大に進み、原子核の研究を続け、「中間子」という新しい素粒子を発見、1949年「ノーベル物理学賞」受賞。

長崎玄弥
 小学校3年の時、10年間闘病生活を送っていた父が死去。父は厳しい人で、門限を設定、少しでも遅れると、食事抜きで机に向かえと怒鳴る。それで遊んでいても「今何時ですか」と大人に聴いてばかりであった。毎日課されていたのは、新聞記事からの切り抜きと、やたら早い暗算と日記で、間違えた数だけゲンコツで殴られ、死に際には、それが長い竹の棒に代わった。”恐父病”は60歳を越えてもまだ治らないと言う。英語教育家。ベストセラー『奇跡の英単語』他。
 
渡部昇一
 「母親が幼くして両親を失っており、何軒もの家に奉公に出されていた。そして自分の女主人たちを見てきていた。そうした観察の母の結論は「わがままが嵩じると女は馬鹿になる。本物の馬鹿になる」というものであった。「父は書店の主人に『この子が欲しいという本があったら、どれでも帳面につけて、渡してやってほしい』と告げ、自分に本を自由に買うことを許してくれた。自分にも子どもが出来た。私は三人の子どもに近くにある本屋から、ツケで買ってもよいという特権を与えた」。専門は英語学、上智大教授。哲学博士。著書に、歴史、文明評論等、『日本史から見た日本人』他。

奈良本辰也
 12歳の時に、母死去。病弱の少年で文学書に親しむ。旧制松山高校で、軍事教練に反発、退学一歩手前となる。京都帝大、国史専攻卒業。執筆活動に加え講演、テレビ出演などで超多忙。病弱な体質をはねのけ、色々な要職もこなし、精力的に活動を続けた。著書多数。歴史学者。87歳。

池田澄子
 5歳の時、失明。本が好きで点字を覚えてからは自分で読むようになったが、点字図書は少なかった。イギリスの点字図書館の蔵書は積み上げると3.5マイルに達すると聞き、日本にも本格的な図書館を造ろうと決意。昭和15年、借家に点字図書館を開く。日本点字図書館の蔵書は今15万冊。児童文学者


医学健康術
 
貝原益軒
 6歳で生母、13歳で継母を失う。江戸前期の儒者・教育家・本草学者。39歳の時、17歳の初と結婚。「接して漏らさず・・」のセックス指南は有名。有名な著作のほとんどが70歳を越えてからのもの。『養生訓』は84歳の時。生涯に、98部、247巻を著す。
 
杉田玄白
 難産のため分娩後に母親が死去し、その命と引きかえに生まれ出た。幼少時、父から相当厳しい訓育を受け、読書の記憶が悪いという理由で物で頭をたたかれ、そのときの頭頂の傷痕は生涯にわたって残った。前野良沢等と『解体新書』を翻訳。『蘭学事始』他を著した蘭医。
 
楠本いね
 2歳8カ月の時、父シーボルトが国禁でオランダに帰る。母たきに育てられるが、髪や目の色の違いで嫌がらせや迫害に会う。シーボルトの弟子二宮敬作等に医学を学ぶ。宮内省御用係。日本最初の女医、産婦人科医。私生児を生むが生涯独身。「オランダおいね」。77歳。
 
野口英世
 1歳5カ月の時、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負う。母がこれを負目に感じ甘やかしたためか、抑制のきかない性格を後々まで残す。2回の手術の後、超人的な勤勉さと努力とで、世の評価を得、実績も残すが、最後は黄熱病研究中のアフリカで命を失う。細菌・病理学者
 
池見酉次郎
 3歳のとき、母が婚家から家出し、子ども3人をつれて実家へ帰る。祖父は、2号さん3号さんを家に置き、2号さんを「お母さん」、母を「お姉さん」と呼ばせられた。高校1年時、神経症で1年休学。京都嵯峨の断食道場で10日間の断食、玄米食療法、温灸療法等、さまざまな療法を体験、さまざまな宗教を遍歴する。中学・高校・大学を通して、慢性の胃腸症状に悩まされた。「心療内科」を創始。
 
養老孟司:(1937〜 )
 4歳の時、父親が結核で死去。母親は開業医。遠慮がちな性格になり中学、高校と外で知り合いと会っても挨拶ができなかった。精力的な執筆活動で人気を博す、解剖学者。解剖学の他に、脳科学や哲学、文学論など幅広く活躍。著書『唯脳論』は「脳」ブームを巻き起こし、『バカの壁』は、新書史上新記録のベストセラーとなる。

岩村 昇
 学徒動員で鉄筋コンクリートの倉庫で作業中に、1、2キロの近距離で、被爆二日間意識なく、三日目の朝救出される。建物はなくただ一面の焼け野原を幽霊だけが歩いている感じであったという。医学部に進み、日本海外医療協力会に参加。悲惨な医療事情のネパール、アジア、アフリカ、中南米各国で活動。人材養成のための「国際人材開発機構」設立。理事長。
 
肥田春充
 6歳の時に母が、前後して1年間に兄姉弟5人が、亡くなる。累々と重なる血縁の墓前に立ち恐ろしさ悲しさに震えた春充も、生来、虚弱の体質に生まれていたが、18歳の時、憤然として体格改造に志す。「強健術中心道」創始者。(ハルミチ)
 
ナターシャ・スタルヒン
 5歳の時、シーズン42勝を上げジャイアンツで活躍した父スタルヒン投手が死去。少女時代からの悩みだった肥満をさまざまなダイエットの実践、研究の末に、独自の痩身法で克服。美容コンサルタント。講演執筆に活躍。
 
志賀 潔
 家は貧しく、7歳の時、母方の志賀家の養子となる。東京帝大医科卒業後、北里の指導により「赤痢菌」を発見。「自分は天才でも秀才でもない。運がよかっただけだ」と語る。京城帝大総長なども務める。

徳田虎雄
 母の父が、母が5歳の時、死去。母が手を休めているのを虎雄は見たことがなかった。母のひたむきな努力、忍耐、節約を身に染みて感じ、徳雄は勉強を続けた。阪大医学部在学中も、普段は家庭教師のダブルヘッダー、春夏冬の休みは、帰省したりする友人の家庭教師を引き受け、昼は日雇い(安雇:安定所の雇用)の土方をしても生活費を稼いだ。「子どもは母親がつくる。子どもはやがて国をつくる。ということは、女性がこの社会の将来をつくるのである。母親が一瞬にたゆみもなく努力していれば、子どもはそれを見習う。<母の力>」年中24時間オープン、患者からの贈り物は受け取らない病院、「徳洲会病院」を開設。全国に125施設(H.15.4.)の特定医療法人「徳洲会理事長。著書に『ゼロからの出発』他。