逆境の人々


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【 日 本 】
文芸・作家
 :
 3歳で母を失う。早くから学者であり詩人であった父の影響を受ける。10歳からちょうど10年間、多感な少女時代に、父が官職につけず、時を得ず淋しい思いをしていたが、このことで人間や人生について深く考えるようになる。28歳で結婚、3年後に夫が病死、気をまぎらすために、『源氏物語』の執筆にとりかかる。最初の5帖は父為時がアドバイスしたとも。これが噂になり、道長の目にとまり、宮廷に入り、すすめられるままに書き続け、10年ほどかけて、54帖を完成する。
 
滝沢馬琴 :
 9歳で父を失い、一家離散。一人になり、放浪。連れ戻されて、また家出。14年の放浪の後、山東京伝の門を叩く。19歳の時、母死去。41歳の時、勧善懲悪を書くと宣言、44歳の時、筆塚にそれを刻む。47歳より28年の歳月をかけて『南総里美八犬伝』98巻、106冊を書く。65歳から、視力が衰えたため、38歳で亡くなった息子の嫁おみちに代筆をさせる。75歳で完成した時には、完全な失明状態であった。八犬伝の3分の2は60歳以降のもので、晩年の作品と言える。日記を44歳から死ぬまでつけている。他に『椿説弓張月』等、千冊を越える著作を残す。享年82歳。
 
松尾芭蕉 :
 13歳の時、父死去。京で修学につとめながら、相当放蕩の経験ももったらしい。各地を旅して多くの名句と紀行文を残す。俳諧に文芸性を付与し、蕉風を開始。「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」を辞世の句とし、難波の旅舎に没す。50歳。江戸前期の俳人。『奥の細道』他。
 
小林一茶 :
 3歳の時、母死去。8歳のとき継母が来て異腹の弟が生まれ継子いじめに会う。祖母のカガが一茶をかばったので家庭内はいがみ合いが絶えなかった。14歳のとき祖母が死んで一茶と継母の対立がいっそうひどくなり、父は15歳の一茶を江戸に奉公に出す。52歳で初めて28歳の菊と結婚。次々と生まれた子供はすべて死んでしまう。毎夜五交とか三交、一交の記述が残っている。郷里で3度目の妻に看取られて61歳のとき、逆境のうちに没す。不幸な境遇からにじみ出た主観的・個性的な句で著名な、江戸後期の俳人
 
鴨 長明  :
 父が、早世し、母方の祖母の家を継ぐが、その縁も絶えて孤児として成長する。経済的には困窮することなく若いうちは和歌や琵琶の道にいそしんでいた。49歳で院の和歌所の寄人に任ぜられるが52歳で出家遁世する。60歳で『方丈記』を書く。この手記によって、中世の「隠者文芸人の祖」ともいうべき史的地位を与えられている。「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・」、「剃りたきは心の中の乱れ髪」。64歳で没す。
 
西  行  :
 23歳で妻子、地位財産を捨て出家する。かなわぬ恋のお相手は16歳年上の美しい高貴な女性、鳥羽上皇の婦人、待賢門院であったという。西行出家の2年後、彼女も仏門に入る。西行への思いを断ち切ることのできなかった妻と娘も、仏門に身を投じ、女人禁制の高野山にいる西行を慕い、ふもとの村に庵をかまえてひそかに暮らした。
 
藤原定家 :
 14歳で赤斑(セキハン)、16歳で皰(モガサ)を病み、いずれも危篤におちいり、以後、呼吸器性疾患が持病となる。『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を選、眼精が尽き眼が大いに腫れるまで選歌に熱中した。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。情熱的な天才歌人。(フジワラノサダイエ)
 
上田秋成 :
 4歳で、紙油商上田家の養子となる。5歳で重い疱瘡にかかり、九死に一生を得るが、病毒のために右の中指と左の人差し指が屈して伸びなくなる。出生と指の不具からくる屈辱感は、生涯を通して彼の心を苦しめたという。30歳で小説を書き出すようになる。 64歳で妻を失い、眼疾は左眼から右眼にまで及んだが、起臥も思うに任せぬ不自由な境遇にありながら、歌文集を上梓、読本随筆を書きつづり、76年の生涯を終えた。『雨月物語』他。
 
尾崎紅葉 :
 4歳の時、母死去。以後母方の祖父母に養育される。東大中退。文学上の結社、「硯友社」の代表作家。明治文壇の雄として偉業を遺し、泉鏡花・徳田秋声らの逸材を出した。『金色夜叉』執筆中に、胃ガンで夭逝。36歳。
 
幸田露伴 :
 1歳の頃、病気で死にそうになり、8歳の頃眼病を患い、盲目になることを覚悟したこともある。21歳の時、役人をやめて文学に志した。「身には疾(やまい)あり、胸には愁(うれい)あり、悪因縁逐(お)えども去らず、・・・欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を出でんと決したり」、『突貫紀行』。小説家、戯曲家、評論家、注釈学者。『五重塔』他。幸田文の父。
 
川端康成
 1歳半で父を、2歳半で母を失う。祖父母に育てられるが、7歳で祖母、14歳で祖父を亡くす。別の親戚に預けられていた一人いた姉も夭折し、天涯の孤児となる。23歳の時に16歳の伊藤ハツヨと恋愛、婚約しながら一方的に破約された苦い恋愛体験を持つ。「ノーベル文学賞」受賞。『雪国』、『伊豆の踊り子』、他。ガス自殺。
 
大江健三郎
 9歳の時、父が急死。高校時代に、雑誌を編集、詩・評論などを書く。1浪して入った東大で、19歳の時、学生演劇の脚本などを書き始め、23歳の時、『飼育』で芥川賞を受賞。28歳の時、長男が、頭蓋骨異常で誕生する。多くの短編・長編小説がある。1994年に「ノーベル文学賞」受賞。
 
夏目漱石 :
 1歳の頃、里子に出され、3、4歳の頃天然痘にかかり薄あばたが顔に残る。5男3女の末っ子。小学校入学の頃、養父母が離婚。養父の親と生活、その後養父の新しい妻の連れ子と一緒に小学校に通う。夏目家に復籍したのは、第一高等中学校を卒業の頃であったが、 実父を祖父、実母を祖母と思っていたと言う。『こころ』、『吾輩は猫である』他。49歳。
 
芥川竜之介
 生後7カ月で実母が分裂病発病。ために母の実家の芥川家の養子となり叔母たちに育てられる。幼年時代は非常に神経質であったが、知能は抜群であった。学生時代から『羅生門』、『鼻』等を発表。 終生、自分の生母が精神病であったこと、牛乳によって育てられたことに、劣等感を抱いていた。35歳で、睡眠薬自殺。
 
太宰 治  :
 乳母の乳で育ったが、その乳母が1年足らずで去り、母の妹きえに育てられる。3歳前から子守の少女たけの世話になり、6歳の時きえが家を去るが、この叔母を実母と思い込んでいた。学校に入るときむりやり本家に連れ戻される。小学校2、3年までは母を知らなかったと述懐。『走れメロス』他。5回自殺をはかり、最後は、同姓相手と多摩川上水に入水自殺。38歳。
 
石川達三 :
 9歳の時、母死去。東京府立中受験に失敗、一浪。早稲田英文科中退。大阪朝日の懸賞小説に入賞。移民船で、ブラジルへ渡航、農場で仕事。『蒼氓』で、第一回芥川賞受賞。人生論的に人間のモラルを追求した作品が多く、社会性の強い日常的正義感に裏打ちされた作風があった。社会派作家として、『人間の壁』、『四十八歳の抵抗』など数多くのベストレラーがある。積極的に行動もし、日本ペンクラブ会長も務める。79歳。
 
小泉八雲 :
 父が軍医でギリシャ駐屯中、土地の女性との間に生まれる。生後まもなく、父と別れ、母とダブリンに住むことになったが、母が健康を害し、やがて帰国した父とも不和となり離婚。不幸な運命のうちに死去した母を、後年まで思慕する。少年ハーンは父方の大叔母に養育される。強度の近視であったが、遊びの途中過失がもとで左目を失明。この肉体的な負い目は後年まで彼の心に暗いかげを残す。経済的な理由と父の死により学校を中退。放浪しアメリカで種々な職業に従事、新聞記者となり、旅行記を書く目的で40歳の時日本を訪れた。小泉節子と結婚、帰化する。もとイギリス人で、ギリシャ生まれ。『怪談』他。 (Lafcadio Hearn)
 
正岡子規 :
 4歳の時、父死去。母の実家で、母が裁縫の内職等で生活を支える。11歳の時、毎日一つづつ五言絶句の漢詩を作り、漢学者土屋久明に添削を受け始める。雑誌『ホトトギス』を機関として、日本派俳句・写生文を首唱、また『歌よみにあたふる書』を発表して、和歌の革新を述べ、新体詩・小説にも筆を染める。35歳で死去。
 
樋口一葉 :
 16歳で長兄、18歳で父が死去。母と妹との生活を支えるため、小説を書こうと決意。愛人のいた桃水トウスイへの恋は実らぬまま、荒物・駄菓子屋を開いたが、商売は失敗に終わる。『たけくらべ』等を発表。評論家の激賞を受けて、今紫式部、今清少納言の名をほしいままにする。かっての師桃水に対する愛情は終生変わることなく心の支えとなった。結核におかされ、貧困の内に、24歳で早世。
 
志賀直哉 :
 12歳の時、母死去。生母の死ぬ以前からお祖母さん子として寵愛を受けていた。主として、祖父と祖母の手で育てられる。内村鑑三の話を7年間にわたって聞く。東大国文科中退。実業家として成功した父と不和となり、女中との結婚問題もからんで、家出。 転々と旅し、結婚、生後間もない長女を失う。34歳の時、父と和解。『暗夜行路』は、わが国近代小説中屈指の名作と評されている。文化勲章受章。
 
武者小路実篤
 2歳の時、父死去。以後母の手ひとつで育てられ大の母思いとなる。14歳の時、愛していた7歳年上の姉が病没。落第してきた志賀直哉と同級生となり、一緒に雑誌『白樺』を創刊。トルストイを脱皮後、個性の尊重と自我の拡充を主張する理想主義的な作風を確立、人生肯定、人間信頼を唱えた。熱心に絵を描き、書画にも独自の風格を出した。『友情』、『人間万歳』他。文化勲章受章。
 
島崎藤村 :
 教え子との恋に破れ各地を放浪。右頬に小さな丸いあざ。『新生』では姪との肉体関係を題材とした。『夜明け前』は父をモデルにした大歴史小説。自然主義文学の開幕を告げた詩人・作家。『破戒』他。
 
泉 鏡花  :
 9歳の時、母死去。まだ若く美しかった母への思慕は、摩耶夫人マヤブニン信仰などの形をとって、一生彼の心を支配する。尾崎紅葉の作品に感激、その玄関番となり、師事する。『婦系図』他。
 
高山樗牛 :
 1歳の時、実父の兄の養子となり、その転勤により山形、酒田、福島と移り住み上京。 数学が不得手で、仙台二高に仮入学、東大哲学科へ進む。読売の懸賞小説に、『滝口入道』が入賞。明治後期の青年らに人気を博す。
 
島村抱月 :
 父が破産、火災を起こして焼死母は病弱で父に先んじて死去。貧窮の あまり15、6歳で裁判所の給仕などをしながら私塾へ通う。検事島村に才を認められて学資を受け、東京専門学校(早大)の文学科へ進む。風采すこぶるあがらなかったが、学力は群を抜き常にトップを占めた。雑誌「早稲田文学」を主宰、自然主義文学運動に尽力、文芸協会のために貢献。松井須磨子と芸術座を起こして、西洋近代劇を紹介。  
 
田山花袋 :
 5歳の時、父が西南の役で戦死。自然主義文学に一時期を画し、赤裸々な現実描写を主張した。語彙が貧しく、機知や趣向に欠けていたが、素朴と自然を求める志向は、有限な世相や社会をこえて、永遠なもの、無限なものに憧れていった。『布団』、『田舎教師』、他。
 
長谷川伸 :
 4歳の時、母と生き別れる。この幼児体験が後年、代表作『瞼の母』を生む。家は破産、小学校は2年で中退、一家離散、12歳で土木現場で働くなど、人生の辛酸をなめる。文字は、事務所に落ちていた新聞を拾い、これを読んで習い覚える。本格的な作家活動に入ったのは41歳の時。 700本の作品を残した劇作家。山岡荘八、村上元三、平岩弓枝、山手樹一郎ら多くの門下生も育て、 大衆文壇の大御所的存在だった。生き別れた実母と、47年振りに再会が実現する。
 
川口松太郎
 実の母親の愛情というものを知らずに育つ。『愛染かつら』、『明治一代女』他、多くが映画化され、新派劇になるなど大衆的人気を博す。「私は自分の作品を後生に残したいとは思わぬ。 現世に多くの知己を得て、現世に繁栄したいのが絶えざる願望である」、と書いた。 
 
三木露風 :
 7歳の時、母が実家に帰る。祖父母に引き取られ、伯父一家と同居。 相馬御風らと早稲田詩社を結成。『白き手の猟人』で神秘的な象徴詩を完成した。 
 
国木田独歩
 父が静養中、手伝いの土地の女との間に生まれる。 矢野龍渓の世話 で、佐伯の鶴谷学館教頭として赴き、付近の山野を逍遥。鶴谷学館の生徒4名とともに上京、国民新聞社に入社。キリスト教を通じて、佐々城信子という女性と知り合い、周囲の反対を押し切って結婚。しかし、信子は窮乏する生活に疲れ失踪、二人の愛は半年余で破局を迎える。愛する者を失った傷心の日々の中で、彼は作家として一人で歩むべく、決心。それ以後、「独歩」と名乗ることになった。自然主義文学の先駆者。『武蔵野』他。      

岩谷小波
 生後間もなく母を失い、里子に出される。5歳で実家に戻るが、15、6歳まで、継母を実母と信じていたという。11歳の時、ドイツ留学中の長兄からオットーのメルヘン集を送られ、これがのちに童話で身を立てることに影響する。杉浦重剛の娘に失恋し、料亭の女中に失恋する。児童文学作家、小説家。『日本昔噺』、『日本お伽噺』、他。(サザナミ)                              
北条民雄 :
 2歳の時、母を失い、祖父母に育てられ、高等小学校を卒業後、商店の小僧になり、19歳の時、帰郷して結婚。翌年、癩ライ発病、離婚して上京、左翼活動に走り、入院。川端康成に原稿を送り、激励を受け、以後、原稿を川端を通じて発表するようになる。『いのちの初夜』他。23歳で、早世
 
林芙美子 :
 行商人と宿屋の娘との間に生まれた私生児。7歳の時に母が男と出奔、それについて関西、四国、九州と行商して回り木賃宿を転々とする。4年間に7回も転向、15歳で尾道の小学校を卒業。アルバイトをしながら尾道高女を卒業、相手の親に反対され、大学生との恋に破れ、女中・露天商・女給などあらゆる職業を転々とし、色々な男性と同棲した。『放浪記』他。
 
鈴木三重吉
 8歳の時母死去。5人兄弟のうち3人が10歳未満で死去。祖母れいの手で育てられる。母の墓前でひとり遊ぶ孤独癖があった。第三高等学校時代、3年間神経衰弱と胃病とに苦しむ。東京帝大文科英文学科在学中神経衰弱のために1年間休学。漱石に「死ぬか生きるか命のやりとりをするような維新の志士の如き激しい精神」の必要があると励まされる。 その漱石に送った、『千鳥』が出世作となる。のち童話作家として活動、雑誌『赤い鳥』を創刊、児童文学に貢献する。
 
室生犀星 :
 父が女中ハルに生ませた子で、誕生と同時に、住職室生真乗の内妻ハツの 許にやられその私生児として届けられる。寺は貧しく、ハツはあばずれで、他の3人の貰い子とともにかなりすさまじい幼年期を送る。9歳の時実父死去実母も家を出て、犀星は生涯実母に会っていない。『あにいもうと』他。
 
種田山頭火
 少年期に母が自殺。病による早大中退、実家の破産、震災後、43歳で出家得度し、翌年妻子を捨てて行乞(ギョウコツ)の旅に出る。門口に立って経を唱え、わずかな施しを受けては酒を飲んだ。女郎屋にも通った。その度に、仏の道を歩む身を省みて、嘆き苦しんだ。自由律の句を詠み、松山市の一草庵で数奇な生涯を終えた、自由律俳句の先駆者。「意思の弱さ、酒の強さ…あゝ、これが私の致命傷だ!」。
 
久米正雄 :
 7歳の時、小学校の校長であった父が、失火の責任をとって割腹自殺。 菊池寛、芥川龍之介らと第三次、第四次「新思潮」を興し、後通俗物に転じ、句作もする。『学生時代』他。
 
山本有三 :
 貧しい呉服屋に生まれ、東京の呉服屋に奉公に出されたが、向学心に燃え苦学して東大独文科を卒業。人間に対する深い愛情を込めた理想主義の立場から、世の中の現実を見つめる人道主義的な作品を書いた。戦後、参議院議員。文化勲章受章。『路傍の石』、『真実一路』他。
 
菊池 寛 :
 小学生の頃、教科書を買う金がなく、父親から筆写を命じられたほど、貧乏に苦しんでいたが、人一倍悪戯もし勉強もできる友人たちから慕われるガキ大将であった。友人の援助を得て、京大に進み、卒業後、時事新報社に入社。以後、文芸春秋社設立、「芥川賞」・「直木賞」設定、大映社長他を歴任等。幅広い分野で活躍。初代文芸家協会会長。『父帰る』、『恩讐の彼方に』他。
 
菊田一夫 :
 2〜3歳で、父母に捨てられる。転々と他人の手で養育された末、5歳の時、菊田家の養子となる。小6の時、薬種問屋に売られ、年季奉公。その後、小僧生活を続け、数十種に及ぶ作業を経験、17歳の時、文学に心ひかれて印刷工となる。連続放送劇『君の名は』などで、一世を風びした。
 
河井酔茗 :
 9歳で父を、17歳で母を失う。  「文庫」派の中心として多くの詩人を育て、また、明治末期に、口語自由詩を提唱。穏和で平明な詩風。詩集『無弦弓』他。
 
坪田譲治 :
 8歳の時、突然、父が死去。以来「死とは何か」、「目で見えるものの向こうに神秘的な何かがある」と考えるようになる。小説、童話に一貫して童心の世界を描き、小川未明亡き後の指導的役割を果たした。『子供の四季』他。
 
吉川英治 :
 11歳の時父親の会社がつぶれ、ために小学校は4年までで中退。行商、印刷工、給仕、商店員など20にも及ぶ職業を転々とし、病父、幼い弟妹をかかえ、手内職にやせ細る母を助けて土工の手伝いまでした。草鞋を買う金が無く、人の捨てたぼろ草鞋をひろって足にくくりつけ、建築場へ出かけていく毎朝であった。18歳の春、横浜の船具工に採用されたが、翌年冬、足場からドックの底に転落、人事不省となり、一ヶ月の病院生活。蔵前工芸夜学校に通うかたわら蒔絵技術を習得。23歳の時、はじめて生計の見込みが立ち、浅草に一戸を借家して父母弟妹一つ屋根の下に住むことができたが、間もなく父が死去。続いて母イク女と永別する。生活苦と闘いながら読書にふけり、懸賞小説に応募、3編が当選、連載を載せるようになる。関東大震災に遇い、上野公園でヨシズを張り牛飯を売るうち、作家として立つ決意が固まる。43歳で知り合った25歳年下の文子夫人はこの世で巡り会えた最高の女性であった。先妻との生活を精算、2男2女に恵まれて、傑作を次々と発表した。剣豪小説、大衆歴史小説で日本人の圧倒的支持を得た大衆文学の巨匠。剣の求道者の生きる姿を描いた『宮本武蔵』は、43歳頃。文化勲章受受章。享年70歳。
 
江戸川乱歩
 祖母に可愛がられ、お婆さん子として育つ。空想好きで、「いじめられっ子」にもなり、そのことで空想癖をますます強くした。大学でエドガー・アラン・ポーに出会い、卒業後色々な職業を転々。どれも長続きせず、会社にも出勤せず、独身寮の押入で一日中物思いにふけることもあった。この頃の歩みが「乱歩」の名にも込められているという。現実の社会生活よりも、幼い頃から描いていた、独自の夢の世界を表現する道を選んだ。『怪人二十面相』他。江戸川乱歩賞制定。推理小説の先駆者。
 
井上光晴 :
 父は北満に放浪して消息を絶ち、母とは4歳のとき生別し、 祖母や妹とともに親戚を頼ったりする生活。生活が困窮、小学校高等科1年を中退、14歳で製鋼所の見習い工となり、炭鉱などで働く。戦後、日本共産党に入党、離党。「井上光晴長編小説全集」15巻などが出ている。
 
椎名鱗三 :
 小3の時、父と別れ、母とともに母の里に帰り、母及び妹弟と暮らす。中3の時、家庭の事情から家出し、色々な職を転々として自活、「全協(日本労働組合全国協議会)」に加盟、ある闘争の共産党のキャップとなる。投獄され、転向、出所、哲学書、聖書を耽読する。戦後、実存主義を基調に庶民的実感を踏まえた作風で登場。『深夜の酒宴』他。
 
小林多喜二
 4歳の頃、貧しさゆえに、新天地北海道を目指し一家で小樽に移り住んだ。この地で労働者たちが監視のもとに日夜酷使されている姿が目に焼きけられる。高校時代はパン屋で働きながら家計を助け、勉学。大学時代、マルクスに影響を受ける。結婚の翌年、特高に逮捕され、、拷問を受け、獄中死。31歳。小説『蟹工船』が代表作。プロレタリア文学運動の先駆者。
 
堀 辰雄  :
 父が妻との間に子がなく、町家の娘を愛してもうけた子。3歳の時、父と別れ、母子は他家に引き取られる。18歳の時、関東大震災で母を失う。30歳の時、婚約者矢野綾子が療養所で死去。若くして肋膜苑を患い、肺結核の持病に苦しめられた。『風立ちぬ』他。49歳。
 
下村湖人 :
 生後まもなく、母が病弱なため里子に出され4歳の時実家に戻ったが、10才の時、母が病死。12歳の時、継母を迎える。東大英文科を卒業。中学校長、高校校長を経て、青年教育に身を投じる。『次郎物語』は、人生追求の自伝的教養小説であり、教育者とし ての経験が強く流れ、特に第一部、二部は、多数の少年読者を持っている。
 
島木健作 :
 2歳の時、父と死別。母が内職で生計をたてる家庭で成長。高等小学校中退後、銀行の給仕となり、16歳で上京して苦学、過労で肺結核になり、帰郷。プロレタリア文学運動の過渡期に登場。『生活の探求』他。
 
野間 宏  :
 10歳の時、父を失う。5歳頃から、父の宗門の後継者として宗教的修業をつまされる。戦後派文学の中心的担い手であり、社会問題についても広く発言。『真空地帯』他。
 
戸川幸夫 :
 誕生後すぐ、養父母の許で育てられ始める。実母が幼少の頃に亡くなる。動物文学作家として、動物への深い愛情と知識に根ざした特異な作風を開く。『けものみち』他。
 
福永武彦 :
 7歳の時、母を失う。中学の英語教師等を勤めるが、7年間の療養生活を経験。内部世界の真実を知的抒情で織りなす作風で登場。小説『風土』、評論『ゴーギャンの世界』他。
 
高見 順  :
 1歳の時、母、祖母とともに東京に移り、実父とは生前一度も会う機会がなかった。東大英文科卒。治安維持法違反で検挙され、留置中に妻に去られ、転向と家庭崩壊で虚無状態になる。転向文学から出発、孤立した知識人の内面的な苦悩を描いた。『如何なる星の下に』他。
 
井上 靖  :
 6歳の時、両親のもとを離れ、郷里の祖母のもとで育つ。 京大哲学科を29歳で卒業。 『あすなろ物語』、『天平の甍』他。「井上靖小説全集」全32巻などが出ている。
 
広津和郎 :
 小学校入学の年に、母を失う。『精神病時代』で、作家的地位を確立。 戦後、10年余にわたり松川事件の裁判批判を行う。納得できないものは納得できないとする柔軟なフリー・シンカーであった。
 
立原正秋 :
 9歳の時、父が自殺し、3年後に母が再婚。物心つくかつかないうちに、雲水とともに礼仏座禅、漢籍の素読、作務という生活を送る。職を転々としながら、6千枚の原稿を書きためる。『冬の旅』他。(タチハラ)
 
井上ひさし
 5歳の時、父と死別。中学生の時、一家の窮乏化のため、 カトリックの児童養護施設に引き取られる。16歳で受洗。上智大学ドイツ文学科に入学、講義に失望、休学を続ける。卒業後、放送作家として活躍。5年間続いたNHKの放送劇『ひょっこりひょうたん島』が人気を集める。戯曲、小説、SF、エッセー他、多くの力作がある。
 
幸田 文  :
 7歳の時、母を失い、継母に育てられる。父露伴に、6歳の時から百人一首を毎日一首ずつ覚えさせられ始める。その日の和歌を露伴が3度読み、それを翌朝までに暗記するように命じられた。米のとぎ方、魚のおろし方、雑巾の絞り方、箒のの持ち方、薪割りまで、父親から伝授されている。結婚し、病弱の夫を助けて家業に励んだが、性格の相違などで離婚。娘を連れて帰り、父露伴と死ぬまで生活を共にした。小説家、随筆家。
 
田中澄江 :
 7歳の時、結核闘病5年の父が死去。祖母は生まれる前の年に死去。 弟に母を取られ、いつも一緒に祖父と寝る身であったが、6歳の時、寒さに震えたある明け方、祖父の体は冷たくなっていた。 カトリックに入信。『がらしあ・細川夫人』他。テレビ・ドラマ、映画シナリオの作品も多い。
 
芹沢光治良
 5歳の時、父が天理教に入って故郷を去ったため貧しく育つ。東大 経済学部、農商務省を経て、結婚後新妻を伴いソルボンヌ大学に留学。結核に倒れ、スイス、フランスで療養所生活。帰国後、小説を書き始める。日本ペンクラブ会長、芸術院会員。『人間の運命』他。
 
丹羽文雄 :
 4歳の時、生母が家出し、愛情的孤児となる。父と義理の祖母に関係が生じたためであった。真宗のお寺に生まれたため、早稲田国文科を卒業後、一度僧侶になる。戦時中も風俗小説の名手として活躍。戦後、『厭がらせの年齢』、『親鸞』など、作品に深みと広がりを見せた。2005.4.20.死去。100歳。
 
三浦綾子 :
 肺結核を病み、13年間の闘病生活を送る。その間、病床でキリスト教の洗礼を受ける。「朝日新聞」1千万円の懸賞小説に、『氷点』が入選。 『塩狩峠』他。     
 
松本清張 :
 高等小学校卒。印刷会社の版木下書き工の仕事などを経て、朝日新聞西部本社広告部でデザインを担当。40歳を過ぎてから小説執筆。週刊朝日の懸賞小説に入選。ついで芥川賞授賞。4年後勤めをやめて執筆に専念するようになる。社会的に抑圧された人々を主人公に下積み生活の苦労や執念につかれた姿を描いて深い共感を呼ぶ。社会派推理小説の巨匠。独特のマスク、厚い唇で語る語りに特徴があった。残した作品は、原稿用紙約8万枚。『点と線』他、750冊。脳出血で倒れる直前まで連載小説を書き続け、4ヶ月後に逝去。82歳。肝臓癌。
 
水上 勉  :
 9歳の時、寺の侍者となり、さらに店員、行商、集金人をしながら、立命館大国文科に学び、無理がたたって発病、1年半ほど自宅で療養。『雁の寺』で、自己の鉱脈を発見。以後多彩な作品を世に送る。(ミズカミ)
 
野坂昭如 :
 母の死去により、養子にやられる。中学時代、空襲にあい養父も失う。早大中退。在学中からアルバイトで様々な職業を遍歴。「焼跡闇市派」を自称、タレントとしても活躍している。『火垂ホタるの墓』他。(アキユキ)
 
遠藤周作 :
 小学校入学後、両親離婚。小4で母と共に大連より帰国。 灘中卒業後 3年浪人し慶応技塾仏文に入学。父の命ずる医学部を受けなかったためひどく叱責され、家を飛び出し、以後アルバイトを続けながら学校に通う。叔母の影響で9歳の時、カトリックに受洗。『白い人』で芥川賞。『深い河』で毎日芸術賞。翌年文化勲章受章。他に、『沈黙』他。
 
五味康祐 :
 誕生の年に、父死去。家業の映画館をのっとられ街頭に放り出される。母方の祖父母に育てられ、7歳の時、祖父死去。病弱で、小中学校時代、しばしば学校を休み、文学書に耽溺。早大英文科中退。各種の職業を転々とし、結婚後定職を持たず覚醒剤中毒になる。32歳の時、『喪神』が芥川賞を受賞。『2人の武蔵』、『柳生武芸帖』他で、剣豪ブームを巻き起こす。享年58歳。(ヤススケ)
 
柴田錬三郎
 父の早世により、母の手ひとつで育てられた、三男。第二次大戦中 撃沈され7時間漂流、奇跡的に助かる。この漂流は、彼の生の傷となり、また精神の新しい発条となった。恩師の佐藤春夫に叱られて発奮。円月殺法の『眠狂四郎』、『図々しい奴』他、多くの大衆作品を出す。
 
山口誓子 :
 小学生の時、母が死去。母方の祖父に預けられ、東京、樺太豊原(サハリン)で少年期を送る。学生、サラリ^マン時代、戦後と療養生活が続き、俳句と強く結びついた。俳句界に新風を吹き込んだ。(セイシ)
 
近藤啓太郎
 生後半年の頃、父が病死。劣等感の強い義父が、母に残酷に当たり、 これを激しく憎む。16歳の時その義父が死去。17歳の時、母が生母でないことを知る。36歳の時、『海人舟』により、芥川賞を受賞。
 
一色次郎 :
 幼少時に、父が獄死母も悲惨な事故死。鹿児島生まれの小説家。太宰治賞、菊池寛賞を受賞。死刑廃止運動にも打ち込む。
 
開高 健  :
 13歳の時、父が腸チフスで死去。28歳の時、『裸の王様』で 芥川賞を受賞。(タケシ)
 
織田作之助
 18歳の時、父親の突然の死で一家離散。学資に苦しみ肺を患い、 三高を退学。22歳の時、京都のカフェで働いていた宮田一枝と出会い同棲、5年後結婚。翌年『夫婦善哉』発表。34歳、肺結核で急逝。  
 
石川啄木:(1886〜1912)
 父が僧職で、妻帯をかくそうとして、養子の形で入籍される。堀合節子との結婚には母から猛反対され、父が僧職を失い、一家を支えるために代用教員になり、新聞社に勤めたり転々、妻の家出、長男の夭折と、貧困と病気に苦しむ。26歳の時、肺結核で死去。『一握の砂』他。「国民詩人」。

岡本綺堂 :
 5歳の時、 ハシカで危篤になって以来、貧血、リウマチ、胃腸病、神経性、胃けいれん、心臓病、気管支炎、肺結核他の病魔と格闘。延べ1955日間の病床。 『修善寺物語』等、戯曲196篇他、数多くの作品を残す。
 
与謝野晶子
 「菓子屋の店で竹の皮で羊羹を包みながら育」ち、「12、3歳から10年間店の帳簿から経済の遣繰(ヤリクリ)、雇人と両親との間の融和まで自分一人で始末を付けていた」。浪速の商家の女の強靭な精神力を身につけ、晶子は鉄幹主宰の『明星』に投稿、彼のもとへ走った。「やは肌のあつき血汐に〜」他、現代女性にも通じる普遍的な魅力を放つ作品を次々と発表。11人の子をなした歌人。『みだれ髪』他。
 
北原白秋 :
 柳川の裕福な造り酒屋で生まれ、14歳で白秋を名のり創作をはじめ、19歳で上京、早稲田大学英文科予科を中退する。27歳の時、人妻との不倫事件で告訴され、不倫相手と結婚。破綻。再婚するが、貧乏のどん底で、5年でこれも破綻。36歳で3度目の結婚。52歳の冬、眼底出血で倒れ、光をほとんど失うが、亡くなる57歳まで活躍する。民衆に親しまれた象徴派抒情詩人。「からたちの花」他、日本人の心に深く根ざす動揺を数多く残した。全著作は200冊にのぼる。
 
星野哲郎 :
 生まれるとすぐ、 両親が離婚。おばあさん子に育つ。船乗りになるが 22歳の時から、 5年目ごとに肺結核、 腎臓結核、 腎臓の片方を切除、心筋梗塞など、 何度も死ぬ目に遭う。ために船乗りを諦め、 曲を作り始める。作った曲は4000曲に近い。 
 
阿久 悠  :
 高校卒業直後、父親が急死。東京に出て18年間故郷の淡路島に帰らなかった、映画『瀬戸内野球少年団』の原作者。日本の作詞家で歴代NO.1の売り上げ、合計で6千万枚のレコード売り上げを記録。「北の蛍」、「熱き心に」など、300曲にも及ぶ多くのヒット曲、聴く人の心に深く刻み込まれる多くの歌を生み出している。
 
なかにし礼
 7歳の時、満州から一家引き上げの途中、父親を失う。貧苦の中、高校、大学へと進み、やがて日本を代表する作詞家となる。 特攻隊上がりの14歳年上の兄に悩まされ続け、その物語『兄弟』は直木賞候補に。『今日でお別れ』、『花の首飾り』など、ヒット曲多数。

五木寛之
 12歳の時、平壌で敗戦の混乱のさなか、母が死去。早大露文科入学後、アルバイトで生計をたてるかたわら、露文学を読みあさる。20歳の時、父親が結核で病死するが、旅費の工面がつかず帰郷できないまま。授業料未納で大学6年で抹籍届け提出。以後、文筆関係の職業を転々とし、33歳の時、精神科医の五木玲子氏と結婚。『さらばモスクワ愚連隊』で作家生活に入り、37歳で、『青春の門』の連載を始める。

向田邦子
 秘めていたある妻子ある男性との恋が妹和子著「向田邦子の恋文」で発表される。かって向田家は父親の浮気で、家族が大きく揺れた。そのつらさを知るからこそ自分の不倫を封じ込めたのであろう。取材旅行中に、飛行機事故に遭って帰らぬ人となる。51歳。『あ・うん』、『阿修羅のごとく』他。女流作家・テレビ脚本家。生涯独身

久留島武彦
 大分県玖珠郡森町生まれ。16歳の時、父死去。英語教師M.ウェインラントに誘われて、17歳で洗礼を受ける。23歳で巖谷小波の木曜会に参加。25歳で結婚。童話の先覚者。「日本のアンデルセン」。86歳。

中村真一郎
 3歳の時、母が結核で死去。10歳の時、父が再婚するが13の時 継母も結核で死去。16歳の時、父が莫大な借金を残して死去。叔母のもとに引き取られる。東大仏文卒。作家、評論家、フランス文学者。

永井路子
 子供のない永井家(叔父)の籍に入る。父が、顔を覚えないうちに、他界。母が再婚し、祖母も叔父も死去し、12歳で永井家の戸主となる。屈折の思い深く少女期を過ごすが、心やさしい戸籍上の母、本好きの大叔父に慈しまれる。授業中にこっそり、ヘッセ、ジイドなどを読み、東京女子大に入ってからもトルストイ、ロマン・ロランなどを飽きずに読む。小学館に入社。『炎環』で直木賞、『雲と風と』で吉川英治賞、歴史小説に新風をもたらした功績により菊池寛賞などを受賞。現代感覚に富んだ歴史小説を書き続けている。
 
壇一雄
 少年期に母が若い学生と出奔、その傷心が文学への原点となる。東大経済学部在学中の処女作が認められ、佐藤春夫に師事。「日本浪曼派」に加わるも、従軍と中国放浪の約10年間を沈黙。『リツ子・その愛』『リツ子・その死』を上梓して文壇復帰。『真説石川五右衛門』で直木賞受賞。死の前年まで20年にわたって書き継がれた『火宅の人』により、没後、読売文学賞と日本文学大賞の両賞受賞。


武将・軍人
 
徳川家康
 3歳で、離縁された母と生き別れ、7歳で、父暗殺される。6歳から人質生活が始まり、8歳から19歳まで、今川義元の下で人質として暮らす。人質時代に、松平家再興の悲願のもとに、家臣の心をつかむリーダーシップを養う。 妻と気が合わず別居。長子信康も信長の娘徳姫とうまくいっていなかったためか、徳姫の知らせで、妻「築山殿」の裏切りが信長に伝わり、信康を殺すように命じられる。近習に信康の切腹を命じた後、一人肩を震わせ涙した。信長が倒れた時、実質的実力があったにもかかわらず、秀吉の中国大返しによって、先を越される。
 
豊臣秀吉
 8歳の時、父急死。養父との折り合いが悪く家を出る。世間の風は冷たく転職すること30数回。戦国時代、貧しい農民の子に生まれながら天下統一を果たし、天皇の名代である関白にまで上り詰める。容貌、貧しさ、身分の三つのコンプレックスを逆に出世の原動力とした。刀狩りや、課税制度のもととなった太閤検地、貨幣制度の統一などを行い、幕藩体制の基礎をつくり、桃山時代の優れた文化も誕生させた。夢はアジアの統一へと向かい、二度に渡る朝鮮出兵によって、国内から不満の声が高まるなか、この世を去り、二代で滅びることとなった。
 
織田信長
 16歳の時、父病死。性剛勇果断。18歳で家督を継ぎ、今川義元を桶狭間に討って頭角を現す。家康と結んで尾張を統一、足利義昭を奉じて上洛、天下布武をめざす。朝倉、浅井を滅ぼし安土に築城、一向一揆を下し、武田氏を滅ぼし、さらに中国、四国に兵を進めるが、明智光秀の裏切りに遭い、京都本能寺で、自刃。寺院勢力との対抗上キリスト教を保護し、独特の安土文化を現出させた。48歳。
 
加藤清正
 3歳で、父を亡くし、5歳から秀吉の側近として預けられる。賤ヶ獄(シズガタケ)の合戦により猛將として有名になり、九州征伐で活躍、熊本城城主となり、家康の東軍に属し、54万石を領するようになる。
 
伊達政宗
 幼少の時、疱瘡にかかり右目を失う。母親の義姫が、次男の竺丸を溺愛、夫に後継ぎを竺丸にと嘆願。人質になった父輝宗を眼前で見殺しにし、母に毒を盛られ、弟を刺殺。支倉をヨーロッパに派遣、海外貿易を試みる。
 
徳川吉宗
 家康の孫父徳川光貞が、61歳の時、卑しい身分の湯女に第4男子として産ませた子。5歳になるまで家臣に預けられ育つ。部屋住みの身から越前丹生3万石の大名、さらに兄2人の相次ぐ死で22歳で紀州55万石の藩主、そして7代将軍家継が8歳で夭折した後、33歳で8代将軍となる。在位30年。目安箱を創設。「享保の改革」を推進。木綿しか着用しない倹約将軍であった。財政再建策で、米価安定に努力。「八木(ハチボク)(米)将軍」と呼ばれた。死後、遺品の中から膨大な反故(ホゴ)、裏表びっしり数字が書かれたメモ用紙が発見されたが、その数字は浅草の米相場であったという。
 
平 清盛
 3歳の時、実母卒去。娘を高倉天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位につけ、皇室の外威として権力を誇った。しかし、没後数年にして、平氏の嫡流は滅亡する。平治の乱で捕らえた源頼朝を、継母の池禅尼の懇望により殺さなかったが、これは幼少時に生母を失った清盛の継母に対する遠慮であったとする見方がある。
 
上杉謙信:(1530〜1578)
 7歳の時、父死去。7歳から14歳まで、林泉寺で厳しい戒律の下、仏教と禅の修行に励む。初陣は15歳。66回戦って、44勝22引き分けの合戦の連続であった。毘沙門天を信仰。宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」が名高い。「越後の虎」。生涯独身で側室なし。

毛利元就
 5歳で、母と、10歳で、父と死別。孤児となり、継母の '大方殿に取りつき申し'て生き抜いた。妻を愛し、妻が死ぬまで、一人の側室も置かなかった。家臣の前では、戦国一の策略家とさえ呼ばれており、常に強き勇者であり、恐い君主であったが、妻の死に臨んでは、家臣達のいる中で号泣したという。
 
竹中半兵衛
 父が病死し、16歳で城主となる。秀吉に仕え、その中国経略に軍師として功績をたてるも、陣中にて病死。
 
山中鹿之介
 生後1年にして父を亡くし、貧窮のうちに育つ。16歳で病弱の兄より家督を譲られる。生涯、月に向かって、「願わくば、われに七難八苦を与えたまえ」と祈り、その苦難を克服して大成することを誓った。主家尼子家の再興に命を賭けた男。
 
宮本武蔵
 3歳の時、母が実家につれ去るが無二斎まもなく後妻をもらい離縁した先妻の手もとからすぐに連れ戻す。この継母とどうしても馴染まず、5歳の頃、実母に会いに尋ねて行くがその家には入れられず連れ戻されて、父からしたたかに打ちすえられる。まもなく母病死の知らせを受ける。父から兵法の手ほどきを受け始めたのは3、4歳頃。7歳の時、その父も病死。その後妻も同じ頃亡くなり、天涯孤独となる。13歳で武芸者を打ち殺し、近隣の人々を恐れおののかせる。
          
源 頼朝
 13歳の時、父義朝が平治の乱で敗死。清盛の義理の母、池禅尼(イケノゼンニ)に命を救われ、伊豆流罪にとどまった。伊豆で20年の流人生活。平氏の専横に不満を持つ関東武士にかつがれ、1180年に挙兵。5年で平氏を壇ノ浦で滅亡させる。奥州藤原氏をも滅ぼし、1192年に、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開く。全国に守護地頭を置く。初代鎌倉幕府将軍。
 
源 義経
 2歳の時、平治の乱で父を失い、11歳の頃、平家の指図で出家するために鞍馬寺に入れられた。22歳の義経に対面した頼朝は、絶句して涙にむせんで泣いたと言う。31歳の時、やむなく自害。
 
足利義政
 病死した兄義勝(七代)の後を継ぎ、8歳で室町幕府八代将軍となる。暗殺された六代将軍義教の五男。37歳で隠居。混乱の世で、資金・労働力不足のため未完成ではあったが、銀閣(慈照寺)を造営。銀閣とその庭園には、禅風の極致ともいえる閑寂枯淡な世界が見られる。
 
坂本竜馬:(1835〜1867)
 12歳の時、母死去。姉の世話を受ける。14歳、「泣き虫竜馬」の異名。18歳で江戸の千葉道場に入門、北辰一刀流の免許皆伝。脱藩して勝海舟の門に入り、長崎で「亀山社中」を設立。「海援隊」を組織、西郷、木戸らと図り、対立していた長州藩と薩摩藩の連合の仲介を成し遂げる。土佐藩を説き大政奉還へのきっかけを作ったが、32歳の誕生日に、京都近江屋で斬殺される。土佐藩出身。

大石良雄
 父が早く没したので、祖父のあとを受けて、19歳の時、家督を継ぐ。兵学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだという。大石家は浅野家5万石の代々家老であったため、21歳の時、若くして家老となる。主君切腹処分の後、主家再興の望みを断たれるや、襲撃を決心。同志と共に翌年12月14日夜、吉良邸に仇を報じ、翌る年の2月4日、45歳で、切腹。主君と同じ泉岳寺に葬られる。通称、内蔵助。

山岡鉄舟
 16歳で母、17歳で父を亡くす。下は2歳の弟たちの面倒を見る。剣道に達し、禅を修行、書をよくした。王政復古後、33歳の時、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させる。江戸城無血開城の事前交渉をやりとげた後、一切これに触れることなく、西郷と勝に表舞台をまかせた。「無刀流」の創始者。県知事の後、明治天皇の侍従となる。
 
西郷隆盛
 抜群に剣道が強かったが、ために妬まれ、12、3歳のとき木剣で闇討ちにあい、右手を骨折。それ以後、剣道を諦め、無参禅師に参じる。禅を極め、『言志四録』などを熟読。「敬天愛人、克己」の思想にいきつく。僧月照と自殺を図る。倒幕運動に活躍。1868年、大総督軍参謀として東征、江戸城を平和裡に収める。明治4年、政府筆頭参議(現総理)に就任。明治6年、最初の陸軍大将。征韓の議容れられず、退官、帰郷。私学校党に擁せられて挙兵、敗れて城山に、自刃。49年の生涯を閉じる。「人を相手にせず、天を相手にせよ」の『西郷南洲遺訓』を遺す。50歳。
 
井伊直弼
 5歳で母を、17歳で父を失う。14男であったが、兄たちが次々と病死、養子に行くなどし、36歳の時、禄高300俵から35万石の彦根藩主となる。藩政を改革、失業対策、公娼廃止など善政を行う。幕府の大老となってからは、紀伊徳川家から14代家茂を迎え、勅許を待たずに諸外国と条約を結ぶなどし、反対派を弾圧(安政の大獄)。水戸と薩摩の浪士に桜田門外で殺される。46歳。
 
近藤 勇
 5歳の時、母死去。農業を営む父、宮川久次郎の三男。14歳の時、二人の兄と共に、「天然理心流」近藤周助門下に入門。15歳の時、近藤家の養子となる。幕府の浪士隊に採用され、のち「新撰組」を結成、局長となり、諸藩の倒幕志士を捕殺。官軍と甲斐勝沼に戦って破れ、武蔵板橋で、斬首。
 
乃木希典
 吉田松陰に心腹、叔父の玉木文之進の塾に学ぶ。19歳の時、西南戦争で軍旗を奪われ、これを生涯の恥辱とした。若い頃は遊蕩の限りを尽くすが、明治天皇の崩御の後を追って天皇の写真の前で妻とともに殉死する。左眼が不自由であったことは死ぬまで知られていなかった。イギリスで見たボーイスカウトを取り入れる。「聖将」と呼ばれ、神格化された陸軍大将。(マレスケ)
 
山本五十六
 父56歳の時の子。22歳の時、日露戦争で敵の砲弾を浴び、破片で左手の人差指と中指を失い、右の腿の肉を赤ん坊の頭ほどえぐり取られる。その傷の治療に、尻の肉を削って移植したりし、つぎはぎだらけの身体となる。三国同盟と、日米開戦に身命を投げうって反対。米内大臣に連合艦隊指令長官に推挙され、強硬に反対した日米戦で自ら先頭に立って勝ち目のない戦いの指揮をとることになる。前線視察に向かう途中、ブーゲンビル島上空で、戦闘機16機に襲撃され戦死。
 
島津斉彬
 15歳の時、母死去。母周子(カネコ)は、仙台藩主伊達重村の娘。文武両道をたしなみ、 17歳で島津家に嫁す。斉彬を乳母に手渡さず、 みずから師となりスパルタ式に躾ける。側室お由羅の方の生んだ久光との間のお家騒動の後、43歳で藩主。英明をもって知られ、 幕末の大名中第一の偉材と言われたが、 病を得て急死。49歳。(ナリアキラ)
 
 
政治家
 
聖徳太子
 14歳の時、父、用明天皇崩御。内外の学問に通じ、深く仏法に帰依。わが国最初の女帝推古天皇の摂政として、官位12階を定め、17条の憲法を制定、遣随史を派遣、多くの寺院を建立する。推古天皇より先に病没、ついに天皇になることは叶わなかった。48歳。
 
上杉鷹山
 上杉家の養子となり、10歳で世子(跡継ぎ)となり、17歳で十代目米沢藩主となる。破産状態の藩政を立て直すため、不退転の決意をもって自ら率先して倹約の範を示し、大改革を断行。倹約励行や殖産興業推進など56年に及ぶ執政の全期間、一貫した改革政策で、藩を再建し、名君の一人に数え上げられた。ケネディー大統領が最も尊敬した日本の政治家。(ヨウザン)
 
明治天皇
 14歳の時、父、孝明天皇崩御。新帝となった睦仁には、まだ京ぼんぼんのあどけなさがあった。近代日本生育途上における政務・軍務は、波瀾に富んだものであったが、その間に「鬼神も泣かするものは世の中の人の心の誠なりけり」他、93,032首の詠作を残した。
 
高橋是清
 母は子守女で奉公先の主人が父親であった。生まれてまもなく、足軽高橋家の養子となり、父母の顔を知らずに育つ。子供の頃、馬に蹴られ、それが縁でその飼い主仙台藩主夫人の知遇を得る。11歳で口減らしのために奉公に出されるが、行き先は、宣教師で医師のヘボン家であった。14歳でアメリカへ留学。帰国の船の中で後の文部大臣森有礼と知り合う。17歳頃芸者遊びを覚え、芸者の紐になる。ある女性の忠告で身を反省し、森の紹介で18歳で英語学校の教師となる。日銀総裁、蔵相、首相を歴任、2・26事件で襲撃され、83歳で没す。
 
犬養 毅
 14歳の時、父死去。第1回総選挙で当選、以後死去まで18回衆議院議員。1931年に首相。翌年、軍部と右翼団体の反感を買ったため、5・15事件で、「話せばわかる」の言葉を残し、「問答無用」で射殺された。孫文、蒋介石などからアジアの救世主と期待された特異な政治家。
 
大隈重信
 13歳の時、父死去。母に養育される。条約改正に努力中、爆弾を投ぜられ片脚を失う。米仏蘭の艦隊に対する長州藩の砲撃を支援し、西洋との力の差にあらためてショックを受け、ますます国論を統一して外国に当たることの必要を痛感する。わが国最初の政党内閣を組織するなど、明治・大正期の政界に大きな足跡を残した政治家。総理大臣を2度務める。「早稲田大学」の創立者。
 
浅沼稲次郎
 私生児として生まれる。11歳で父に認知され、その時生母と離別。一時は共産党とも関係したが、たびたび投獄されながらも、人気ある大衆政治家であった。社会党委員長在任中、右翼少年に暗殺される。
 
幸徳秋水
 2歳の時、父死去。母、多治は残された4人の子供のため再婚の話も断わり、崇高な犠牲の生涯を送る。日露戦争に反対、「平民社」を起こし、「平民新聞」を創刊。無政府共産主義に転向。大逆事件の首謀者として刑死。
 
木戸孝允
 8歳の時隣家の桂家の養子となるまもなく養父が亡くなり吉田松陰に17歳で師事する。松下村塾で、改革派の頭目となった、長州藩士。初め桂小五郎。薩藩と連合して倒幕の策を講じ、維新後、版籍奉還・廃藩置県に努力。征韓論に反対。維新政府首脳中最も開明的であった。(タカヨシ)

本島 等
 妻子ある男に騙されて、母が身ごもる。生後11ヶ月の子を母方の祖父母の許に預けて、母は等を残して嫁ぐ。京大工学部を卒業、学校教諭を経験。その後、長崎県議を5期、1979年からは、長崎市長。「天皇責任論」を唱え、ピストルで撃たれ、重傷。その事件が裁判になり、「犯人を許す」と発言、これが新聞にも報道される。

渡辺美智雄
 生後すぐ母が死去。6歳の兄と共に伯父夫婦に預けられる。毎朝あげる神官の伯父の祝詞を全部暗唱する。中三の時その養父が急死。第二の叔父夫婦に引き取られそこから通学。蔵相などを歴任、活躍が期待されたが病魔に倒れた。
 
岩國哲人
 7歳の時、父が病死。翌年大阪を離れ、母方の祖父のもと出雲に移る。小学校5、6年からは、農作業の他に豆腐を売ったり新聞配達、牛乳配達。出雲高校時代は往復3時間を汽車で通学。東大、日興証券、モルガン・スタンレー銀行を経て52歳の時メリル・リンチ社の副社長を辞任、出雲市長となる。
 
桜庭康喜
 12歳の時、父が病死。祖母、母、高2の長女を頭に6人の子供が路頭に迷ったが、母はキッパリ生活保護を拒否。市民党の立場で市民総行動の先頭に立って情熱を焼き尽くすまで頑張る覚悟で、市長に当選。北海道名寄市長、2期目。(サクラバヤスキ)

福田昭夫
 6歳の時、父と死別。4人兄弟の末っ子。大学卒業の時母が1人で暮らしていた故郷に帰り市役所勤務。市を変えたい、よくしたいの一念をもって43歳で今市市長。「オアシス都市構想」実現化に努力。
 
木村芳城
 幼時、父が戦死し、その顔を覚えず。3人兄弟の長男として、母の手一つで育てられる。連続2回市会議員当選を経て、49歳で、石岡市長
 
安部晋太郎
 生後間もなく父母が離婚。生後二ヶ月余で親類に預けられる。母は再婚し、31歳で亡くなる。それを知らず、母の消息を尋ねて回り回りの者を困惑させた。父に内緒で母を捜して歩いた。内閣官房長官、外相などを歴任。
 
神近市子
 3歳の時、父死去。敗戦後間もなく民主婦人協会を設立、婦人問題に取り組み、日本婦人会議顧問として活躍。衆議院四期、売春防止法の制定や婦人問題に打ち込み、女性解放や人権擁護の活動に尽力。大杉栄との愛情のもつれから大杉を刺して重傷を負わせ、2年間獄中生活を送る。93歳。
 
橋本龍太郎
 生後5ヶ月の時、母が亡くなる父は11歳で脊椎カリエスを患い七年間を寝たきりで過ごし、足に傷害を残して、後に厚生大臣、文部大臣を歴任していた。7歳の時、父が再婚。大二郎(高知県知事)とは、異母兄弟。子どものころ、母親がいないことでいじめられた思い出に触れ、育ての母、正さんを迎えたときは「一番つらいときで、ずいぶん長い間、なじまなかった。」「しかし、たいていの母と息子より、わが家の方が仲がいいと胸を張っていえる」、と首相は、自らの「2人の母」への思いを語った。首相は1月の就任後も、ほぼ週に1度のペースで、入院中の正さんの見舞いを続けている。

近衛文麿
 13歳の時、父が死去、公爵を継ぐ。東大哲学科に入るが、哲学に興味を持てず、京大法学部に移る。貴族院議長を経て、内閣を組織。武力南進方針の採用、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創設など、総力戦に備えた体制を準備、国家総動員態勢が進んだ。近衛はアメリカとの妥協を図るが、実現せず、総辞職、代わった東条英機内閣のもとで日本は対米戦争に突入した。戦犯に指名され、出頭期限の日の未明、服毒自殺。
 
田中角栄
 高等小学校卒業の学歴しかなく、幼少時代は吃音で、浪曲をうなりながら矯正したと自ら言う。15歳で上京、19歳で建築事務所を構え、事業の才覚に桁外れのものがあった。吉田茂の目に止まり、池田勇人の知遇を得て、後に姻戚関係となった。後援会「越山会」をバックに11回連続トップ当選。強引さが身上で、池田、佐藤内閣の蔵相、党幹事長等を務め、政治業績を上げ、自民党総裁、第64代首相にと、裸一貫から頂点に上り詰めた。ロッキード事件に連座した後も「闇将軍」として政界に影響力を発揮し続けたが、脳梗塞で倒れた。「コンピューター付きブルドーザー」。