Cosmosoulマーク・光へ

           コスモスの歌

        『 信じ得るもの 』
 
   Agape それは 神の愛              
   Books 著者は 知恵の人              
   Child 子供の 純粋さ             
   Dream 心が 現れる  
   Endorphin の 心地よさ              
 
   Flower 花の 美しさ            
   Gravitation 魅力あり           
   Humor ものには 明るい面              
   I 愛するは 己から               
   Joy は喜び 心から       
 
   Key あり 人生方程式                
   Life 生き生き 生きよかし            
   Music 心の 音楽堂       
   Nature 恵みの ありがたさ
   Oxygen 無料の 動力源
                                                         
   People 人が いればこそ
   Question 解くのが 即人生
   Rainbow 七色 七不思議
   Sudden Death には 覚悟せよ   
   Teardrops には 真実が
 
   Universe には 意志がある
   Vocation には 使命感
   Work 苦労は 楽招く
   Xーray 人には 見えぬもの
   Yesterday は 過ぎた過去
 
   Zoo 色々が 面白い
   信じ得るものがある、そのことを、頭の中に植え込もう。
   今までは、中途半端であった。
   確信がなかった。
   信頼に足るもの、それがある。
 
   喜びは、心の輝き。
   雨が降る、涙は心の雨。
   鳥が鳴く、朝日が昇る。
   出会いがある。
   別れが、来る。
 
 
        『 真・善・美・快 』
 
   「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。
   人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。
   これに聖を加えることもある。」
   以上は、広辞苑第四版に書かれてある言葉である。
   「聖」でなく、「快」を加えてはどうであろうか。
 
   快を、なぜか、人間は、求める。
   快は、人間の理想の一つであるとは言えないだろうか。
   快は、人間の真実を表しているとは言えないだろうか。
   快にも、普遍妥当な価値が認められるのではないか。
   快を求めるのは、人間だけではない、確かに、動物も求める。
 
   「純粋な快」は、普遍的な価値があるのではないか。
   犬は、忠実な動物である。
   犬は、人間を裏切らない。
   真実味がある(true)という点では、人間よりも上をいく。
   犬の方が、へたな人間よりもずっと「真」を求めている。
 
   犬は、人間に安らぎを与えてくれる。
   これは、少なくとも、「善」と言える部分ではなかろうか。
   子犬の可愛さは、人間にもわかる。
   犬の母親が、「美」を感じることができるということである。
   真・善・美を、犬に当てはめるなんてと、言われるかもしれない。
 
   快楽主義という言葉で、快は誤解されてきたように思う。
   誤解してならないのは、利己的な快楽である。
   快楽の快は、必ずしも良い印象ばかりは与えない。
   しかし、心地よいといった意味の快は、悪いものではない。
   自然な心情としての快、それはむしろ、求めるべきものである。
 
   快を求めることをよしとしない、禁欲主義というのがある。
   その対極にある、快楽主義。
   その両方が、快をよくないものと感じさせてきたのではないか。
   快を求めることに、もっと積極的になるべきである。
   快を求め合うことにも、もっと積極的になるべきである。
 
   自分だけが、快を求めているのではない。
   みんなが、快を求めているということがわかる。
   快を求め合う、与え合う、そんな関係に憧れる。
   快を求めるのは、人間の本性である。
   真・善・美・快、この四つを、人間の理想の価値と考えたい。
 
 
        『 ABC優先順位 』
 
   人間は、忘れやすい動物である。
   忘れやすいということをすら忘れる。
   よくよくのことでした決心を忘れてしまう。
   決心はなぜ長続きしないのか。
   忘れないように何か工夫が必要である。
 
   人間は、楽をしたがる動物である。
   人間だけでなく、動物はたいてい楽をしたがる。
   働き者の蟻は、あれでもかなりの遊びの時間があるという。
   働くように見えても、本能的にそういう風にしているという。
   本能的に、楽をしたがるところに問題がある。
 
   生き延びるという一番の目的のために、そうなのではないか。
   動けば、エネルギーを消耗する。
   目的なく、動き回るということは得策ではない。
   餌を求め、異性を求め、糞の場所を見つけようとして動く。
   じゃれて遊ぶことも必要かもしれない。
 
   先に楽なことをしてしまう。
   やっかいなことは後回しにしようとする。
   さぼることで、結局後で苦しみを味わうことになる。
   なぜ、楽を先にしてしまうのか。
   結局苦しくなる道をなぜ選択するのか。
 
   先に楽を選ぶのは、突然の死の可能性を予期しているからか。
   苦の前に死ぬなら、楽を先にしたことは正解だったことになる。
   死の可能性があるということは確かな真実である。
   ただすぐに、その死が来るとは限らない。
   とにかく、今きついことをしたくないのである。
 
   何が大切かを忘れてしまう。
   本当に幸せになる道を選ぶべきである。
   結果を恐れずに今の快楽に走るのは、目的を忘れるからである。
   優先順位づけABC方式というのがある。
   できるだけ楽をしたい人間向きの、行動指針である。
 
   明日したいことを列記して、次のようにABCをつける。
   Aは、一つ、最優先にこれだけは今日中にやり上げたいこと。
   Bは、二つ、この二つまでできれば、今日は満足できるとする。
   Cは、二つ、これまでできれば、今日は上出来という、ABC。
   Aだけは確実にすませること、それだけでも、前向きである。
 
 
        『 ABCタイプ人間分類 』
 
   人には、大きく分けて、タイプに三つの要素があるという。
   大方は、昆虫型、次に、勝者型、彫刻型、この三つである。
   人間の大多数は昆虫型で、これは勝者型に支配されて生きる。
   勝者型と彫刻型の間には、常に強い闘争が行われている。
   彫刻型よ悩むな、とその本には書いてある。
 
   これを細かく、次のように、分類してみた。
   Aは、Animal 動物で普通の生活をするタイプ。
   Bは、Beat で相手をやっつけようとするタイプ。
   Cは、Carve で彫る、即ち自らを彫って磨き上げるタイプ。
   そのような三つを要素として、次のように9タイプに、分ける。
 
   ABタイプ、最も多く、普通の人で、負けない方がいいと思う人。
   ACタイプ、普通の人で、人のいい、まわりにやさしくできる人。
   BAタイプ、負けたくないが先にあり、ABタイプの上に出る人。
   CAタイプ、彫刻型ではあるが、いまいち自信のない人。
   CBタイプ、自らを磨く中で人に負けぬ実力をつける人。
 
   BCタイプ、勝つことを優先、努力し、嫌われることもある人。
   B[BB]、負けん気が強くまわりからは煙たがられる人。
   A[AA]、動物的な生き方をし、死んでも惜しまれない人。
   C[CC]、自らと闘い、強い倫理観を持つ英雄的な人。
   このCタイプが自分から見ての理想のタイプである。
 
   しかし、自分はまだCBタイプからもほど遠い存在である。
   実は、CAタイプのつもりでいる。
   しかし、ACタイプですらないかもしれない。
   むしろ、ABタイプであるかもしれない。
   実のところ、Aタイプでしかないと言われるかもしれない。
 
   このタイプ分類は、自分の、他人に対する評価である。
   だから、失礼な分類法と言われるかもしれない。
   あの人はこうだと、当てはめて考えてみる。
   すると、腹が立たなくなることが多いのである。
   そんな利点があることが、敢えてこれを出してみた理由である。
 
   一日の内で、自分がいろんなタイプに変化している。
   生き甲斐を持って生きたい。
   生き甲斐を感じながら生きたい。
   自分を磨くためにこの分類法、役に立つのではないか。
   人のことをとやかく批判する時間は惜しい、そんな生き方がいい。
 
 
        『 1冊の本と3枚の絵 』
 
   『人間苦と人生の価値』という本が、残っている。
   父の書棚から引き抜いたもので、今は自分で大事にしている。
   父が亡くなったとき、なぜか、悲しさがなかった。
   父が亡くなっても、涙が出なかったのである。
   父に対する自分の思いの、いかに薄いかを感じざるを得ない。
 
   自分には、涙がないというわけではなかった。
   犬のランが、それからほぼ1年後に亡くなっている。
   この時は、数日前から、その痛々しさに、涙を流している。
   亡くなる二日前、地震で埋ったランを一番に助け出す夢も見た。
   愚かにも、犬とのつながりの方を、自分は大事にしていたのか。
 
   果たして、自分にとって、父親とは何であったろうか。
   父の死後、1年を経て、やっと考えが動き始めている。
   亡くなるまでは見たことがなかった父の夢を、死後は、4度見た。
   潜在意識は、父を意識していたということであろう。
   自分は、父のことを、あまり高く評価できないと考えていた。
 
   自分の思い込みは、かたよっていたかもしれない。
   少しは、違った考え方をしてみる必要があるのではないか。
   帆足理一郎著、初版大正12年の、その本。
   深緑色のハードカヴァー、その題字が薄くなっている。
   昭和6年に、第1回目を読了、とサインがある。
 
   その本の内容が、今の自分の気持ちにぴったりくるので、驚く。
   その考えが、結論めいた今の考え方に似ているのにも、驚く。
   若いときの父は、老境に入ってからの父とはまったく違っていた。
   著者の意見に反対して、自分の言葉を書き込んでいた。
   なるほどと、納得のいく反論であった。
 
   老境に入ってからの焼酎を飲む姿からは想像できない。
   やはり何かを求めていたということであろうか。
   人間苦から、果たして、逃れることができたのであろうか。
   その本は子供の頃から、ずっと目の届くところに置かれていた。
   傍線とか、カッコのつけ方とかが、自分ととてもよく似ている。
 
   書類の間に挟まれていた絵が3枚、いずれもミレーであった。
   『晩鐘』、これは、今、自分の部屋に、額に入れて飾ってある。
   『毛を刈られた羊』、見ていると、こころが静まってくる。
   『ニワトリに餌をやる女』、静かな優しさが感じられる。
   見ていると、父の気持ちが伝わってくる。
 
 
        『 コスモスの花 』
 
   自分が、いのちの乗り物として生まれる瞬間は、知りがたい。
   ただ、確実に、母の体内で、いのちの乗り物として出発する。
   受胎のその瞬間から、成長が始まる。
   二つに分裂し、分裂した細胞、それぞれが、成長する。
   取り込むことで成長し、分裂し、成長し、分裂する。
 
   分裂と成長は続き、設計図通りに、自分の身体が形成される。
   最終的には、60兆ほどの細胞からなる一個の身体になる。
   この個体は、色々な元素からなっている。
   それら元素は、外から、色々な形で取り込まれたものである。
   それらの元素は、もともと、どこからきたものであろうか。
 
   赤ん坊は、必要なものを、母親の母体から、取り込む。
   母親は、食事と呼吸で必要なものを、外から取り込む。
   成長のために取り込まれるCや、Hは、どこからきたものか。
   Hや、Oが、何かが変化してできたということは聞かない。
   ずっと昔から、地球にあったものもということではないか。
 
   地球形成の時からのHやOが、今に残っているのではないか。
   太陽系外の遠くから飛んできたものもあるのではないか。
   2028年、直径1.6キロの小惑星が、月と地球の間を通過する。
   隕石は、大昔から、そして今も、大小、地球に落ちてくる。
   自分を作る元素の一部は、宇宙の彼方から飛んできたものか。
 
   人間が死ぬとき、それはいのちの乗り物としての役が終わる。
   焼かれると、空のかなたへと昇っていく部分もある。
   長い目で見れば、この身体は、宇宙へ帰っていくと言える。
   乗り物であるこの身体から、元素は解体されて、宇宙へ帰る。
   この身体は、無限大の宇宙へと戻っていくと考えられる。
 
   自分という人間は、宇宙がこの一身に集まってできあがった。
   自分という人間が死ぬと、すべてがまた宇宙へと帰っていく。
   自分とは、宇宙が集まって、宇宙に帰っていく存在である。
   「宇宙、即、我」は、ヨガの悟りの境地である。
   宇宙が我が身と一体であると感じられるということである。
 
   物質としてみた自分もまた、宇宙と一体ではないか。
   コスモスの花を見ていると、宇宙を、感じさせられる。
   コスモスの花には、確かに、宇宙を、感じさせるものがある。
   生駒高原の、あのコスモス畑は、本当に、素晴らしかった。
   コスモスの花は、しあわせを感じさせる花である。
 
 
        『 夢の分析 』
 
   夢は、不思議なもののひとつである。
   夢の不思議なことは、昔からであった。
   夢は、潜在意識の現れであるという。
   夢が不思議というとき、その夢の内容が不思議なのである。
   不思議であるというのは、意識では、理解しがたいからである。
 
   現実は、起こった出来事が連続している。
   自分で考えて作った物語ではない。
   うそがない。
   ところが、夢は、起こったできごとではない。
   言えば、フィクションである。
 
   もう一人の自分というものが、物語を作るのであろうか。
   夢の内容は、直前にふと見たりしたようなことが関係している。
   常日頃、強く思っていることである場合もある。
   夢の内容が、自分のためにならないということはなかった。
   それは、断言できるように思う。
 
   酔っぱらって、車にぶつかり顔が血で染まったこともある。
   飲み過ぎて倒れて、宴会場から、運ばれて出たこともある。
   人の協力で、間に合ったこともある。
   人の助言で、座る席が取れたこともある。
   本当は、騙されているという警告もあった。
 
   アイデアの提案もあった。
   犬の気持ちを教えるものもあった。
   自分の内心を教えるものも多かった。
   もっと頑張らねばダメであるというのもあった。
   言いにくいことを、言葉で教えてくれるというものもあった。
 
   56歳にしてついにやったりという上から響いてきた声もある。
   本当にそうありたいという心の願いが現れたものに違いない。
   56歳で何かが起こるように、潜在意識が仕向けているのか。
   何とかしたいという思いは、死ぬほどに強いものである。
   これは神からの啓示であると、できるなら本当にそう思いたい。
 
   自分の方から、実現に向けての懸命の努力をしていきたい。
   もう一人の自分、奥にある潜在意識の自分。
   頼りになるというのが、最近の結論である。
   これからも、夢からの忠告を期待する。
   神からの啓示とも考えられる夢の忠告、有り難く受けとめたい。
 
 
        『 潜在意識 』
 
   敵を意識すると、潜在意識が働き防禦または攻撃体勢に入る。
   そのための身体の大きな変化の一つが呼吸器官の硬直である。
   コントロールできない状態が続くから、どうしょうもなくなる。
   飲まれて取った自分の行動に潜在意識の恐ろしさを感じる。
   自分の潜在意識の責任を取る必要のあることを認識するに至る。
 
   これまで解決を求めてきた、最後の拠り所である呼吸法。
   また改めて、これに目を向けることになった。
   思い至ったのが、腰を中心に身体を下向きに左右にねじる方法。
   下腹下部に力を込め息を吐きながらゆっくりと左下後ろ方向に、
   左足の後ろを見るように、身体をねじる。
 
   ねじりながら、息をゆっくりと吐いていく。
   精一杯押し出すように、息を出し切る。
   吐き終わり頃には腰より上を少し前にかがめるようにする。
   ねじることと前にかがむこととで息を大きく吐くことができる。
   吐き切ったら身体を戻して息を吸い、リラックスする。
 
   今度は右側方向にも同じことをする。
   左右を一度にできれば肛門を閉じるのと同じような結果となる。
   下腹で息を吐き出してリラックスすることが可能になる。
   自律神経である呼吸をコントロールすることが可能になる。
   飲まれて取った行動に辟易しての、思いついた工夫である。
 
   そうすることで、潜在意識につながりを持つことができる。
   人間のこころの中には、鬼も住んでいるが、神も住んでいる。
   そのことを本当に認識するまでにえらく時間がかかった。
   酔いつぶれての行動を記憶していないことが何度もあった。
   なぜか、同じ愚かな行動を取り続けてきたのである。
 
   酔って我を忘れた時の自分を、自分ではないとしてきた。
   潜在意識の行動には、自分で責任を感じてなかったのである。
   飲まれた瞬間から自分ではなくなっていたのである。
   意識では、確かに、認識できない潜在意識の部分である。
   潜在意識を自分のものとしなかったことは、間違いであった。
 
   潜在意識には、善を求める神の部分もある。
   そのこともまた、信じることができないできた。
   自己のすべてに、責任を取らなければならない。
   潜在意識の中には、自分を守る働きもあったのである。
   弥勒菩薩にも等しい、ミクロコスモソウルの存在があった。
 
 
        『 エンドルフィン 』
 
   体内でモルヒネに類似した物質が作り出されることが判明した。
   ほんの20数年前、1975年のことである。
   内因性モルヒネ様ペプチド、総称してエンドルフィン。
   その鎮痛作用は、モルヒネよりはるかに強力であるとのこと。
   鍼を打つことで、脳内のエンドルフィンが増えるという。
 
   エンドルフィンは、痛覚を抑えたり、解消したりする。
   痛みが伝わってきたという信号で、すぐに、作り出される。
   性生活に至るまで、この脳内モルヒネが関係するとされている。
   分娩の時、予想ほど痛みを感じないのはこのためであるという。
   女性の、長時間の快感維持も、これに関係があるかもしれない。
 
   心臓は、生まれたときから、その鼓動をやめない。
   勿論、やめれば、ただちに死んでしまうからである。
   肺呼吸についても、同じ事が言える。
   生まれてからこのかた、一度もその運動をやめたことがない。
   やめれば、ただちに死んでしまうからである。
 
   手の平を、しばらく閉じたり、開いたりしてみる。
   すぐにわかることは、疲れてくるということである。
   ものの、5分も続けられるであろうか。
   心臓の鼓動に、これを当てはめてみるとわかる。
   疲れてきても、やめるわけにはいかないのである。
 
   胃に食べ物が入ると、消化液が出るのと同じである。
   疲れを癒す働きが、生まれてきたということである。
   エンドルフィンは、心臓、肺に留まらない。
   駆け足をしてみるとわかる。
   筋肉の中にも、エンドルフィンが働くということが理解できる。
 
   エンドルフィンは、一種のホルモンである。
   このホルモン、身体全体で、発生するに違いないと思われる。
   このホルモンの発生に対して、受容体が存在するという。
   モルヒネ受容体は、脳に、腸壁に、精管壁に、作られている。
   ヨガでも、ジョギングでも、同じ作用が発生するに違いない。
 
   気功法は、中国で、3000年の歴史がある。
   中国では、朝早く、4時、5時から、人々が公園でこれをする。
   リラックスし、エンドルフィンが出て心が落ちつくのであろう。
   生存するために、そのような機能が生まれてきたのである。
   Endorphin(END or FIN)に行きついたということか。
 
 
        『 光源瞑想法 』 ( 火 → 光 )
 
   五感は、見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐ。
   その五感の刺激に対して、こころが反応する。
   もしこの五つの感覚を遮断すればどうなるか。
   当然、反応が起こらない。
   意識は外には向かわず、内に向かうことになる。
 
   瞑想では、意識を、我が内なる欲求に向け続けることになる。
   瞑想では、自分の欲求を、内から主体的に観察する。
   刺激に対する単なる反応は、「受身的なありよう」である。
   瞑想により、意識が主となる「能動的なありよう」に変化する。
   習慣化されると「主体的な生き方」ができるようになるという。
 
   そういうことが起こりはしないかという期待感がある。
   不幸感を脱するには、主体的な生き方をすることである。
   欲求に操られるのでなく、欲求を操る生き方をすることである。
   主体的な生き方ができれば自然、幸福感も増してくるであろう。
   瞑想によってその主体性を体得する必要がある。
 
   TVカメラに太陽光が入って、六条の放射光が映ることがある。
   この六条の光を不思議に感じるようになっている。
   大きく輝くその六条の光を、TVで見るたびに思うのである。
   なぜいつも六条なのか。
   しかも、少しだけ角度がよじれている。
 
   天体望遠鏡で見た宇宙の星の光はなぜか十字である。
   光源が遠いと、十字になるのであろうか。
   それとも光源が小さいと、十字になるのであろうか。
   光が不思議なものであるということは、昔も今も変わりない。
   太陽または光を崇拝の対象とする宗教が多いのもうなずける。
   
   太陽が宇宙の中心ではないということは明かである。
   しかし、光そのものは、やはり神々しいものである。
   不思議なものの代表として永遠に存在し続けるであろう。
   瞑想の時、その集中の一点に、六条光を思い描いてはどうか。
   この六条光に、精神を集中するように訓練してはどうか。
 
   母親のまたその母親のと、辿ると、いのちの源に行き着く。
   その源から輝き出ている光、六条光になって光っている。
   女性のシンボルもまた、六条光からイメージできる。
   共に、生命が誕生してくる所と考えると、同じように尊い。
   人生は、楽しいもの、尊いものであるとイメージすべきである。
 
 
        『 呼吸法 1 』  ( 風 → 呼吸 )
 
   聖音、"AUM"というのがある。
   オーとかアーとかいう下腹に響く言葉をくり返し続けてみる。
   そうすると、精神的に心が落ちついてくるということである。
   「みょうほうれんげきょうー」は、オーオーオーとオーが続く。
   「なんまいだー」では、アーアーアーと、アーが続く。
 
   「コスモソウル」というのは、随分前に思いついたものである。
   一種のマントラ(唱え言葉)と考えることもできる。
   これを利用して、聖音として唱えてみるのはどうであろうか。
   南無コー(ス)モーソーー(ウル)と、唱えるのである。
   親鸞が法然を信じたように、只信じて行じてみてはと考える。
 
   腹式呼吸では、息を吐くときに、意識を下に持って行く。
   頭(コー<コーベ) →胸(モー<ムネ) →背(ソー<セ)、
   腰(コー<コシ) →腿(モー<モモ) →足(ソー<ソク)と、意識を下に送る。
   孔子(コー) →孟子(モー) →ソクラテス(ソー)、コーモーソーと、
   孔子、孟子、ソクラテスに、意識を、集中することもできる。
 
   「 南無 コォ(ス) ムォ ォー  ソォ  ォー ー ー (ル) 」 と、
   心の中で唱えながら、息を上方に、8拍子で吸う。
   吐く時、8拍子でゆっくり、喉の奥から下方に響かせる。
   実践できるなら、悩みが解消できるのではなかろうか。
   「 火風水の戒、唱名 」とは、別に、唱えるのである。
 
   マントラは発声時の振動効果が肉体に大きく影響するという。
   叡智のもとに文字と音節が組み合わされたものであるという。
   マントラは、リズムと意識の集中をもって発音される。
   その時私たちの体内にパワフルなエネルギーが目覚めてくる。
   肉眼では見えない高次元の力と共振させる事ができるという。
 
   発声と、性エネルギーは関係が深いということもある。
   性腺とのどにある甲状腺は密接なつながりがあるそうである。
   性腺の活動が活発になる14歳頃には、声変わりがある。
   声変わりと性の目覚めは、確かに時期的にも一致している。
   ボーイソプラノを保存するために去勢が行われていたという。
 
   発声の呼吸法には、見えない何かの意義が隠されている。
   エンドルフィンが出るに違いないと思われる。
   オーという声が、胴体と頭によく響くように工夫する。
   響きが、頭の芯にまで届くようにする。
   何とも言えないエクスタシー感が味わえるようにしていく。
 
 
        『般若真言』  (ワンニャ(ン)シンゴン)

   南無コー モーー
   ソーーーー       
   南無コー モーー      
   ソーーーー
   吸いながら、吐きながら

   ニャンコー モーー        
   ソーーーー       
   ワンコー モーー      
   ソーーーー       
   吸いながら、吐きながら      

   ニャン公も そう
   ワン公も  そう
   生あるものは       
   必ず           
   滅する       

   「コーモーソー」は、
   コスモソウル
   COSMOSOULは、           
   COSMOS 宇宙           
   SOUL   魂         

   「般若」は、
   迷いを離れ
   事物の
   真相を見抜く
   本当の知恵           
 
   「南無」は、           
   帰依する           
   信じるの意           
   南無           
   COsMOSOul           

   南無COsMOSOul           
   南無妙法蓮華経           
   南無阿弥陀仏           
   ナンであれ、帰依できるものがあるとよいのではないか
   南無・・・・・・・・・・
 
 
        『 全身動体法 』  ( 水 → 身 )
 
   動物は、身を動かしてこそ動物である。
   人間が植物のような生活をしていては身心のためによくない。
   睡眠を取り、食べるものを食べ、運動をする必要がある。
   朝晩、適度な運動を続けること。
   散歩にヨガに、ストレッチ、何でもいいから、継続すること。
 
   犬のお陰で、朝晩散歩をし早寝早起きができるようになった。
   自然に従うことの大切さを、犬から学ぶことができた。
   何よりも犬が信じるに足るものであると思う様になっている。
   信じ得るものがあるという考えは、年を経てできあがった。
   犬のおかげとても大きいと思われる。
 
   犬は、勇気がある。
   犬は、きれい好きである。
   犬は、恋に生きている。
   犬は、習慣を守る。
   犬は、徹底する等々、多くの点で、犬は我が師である。
 
   神信心が、犬のお陰でできるようになるかもしれない。
   「変わるためには何が必要であるか」という問に対して、
   「それはある決心をすることである」という返事が得られた。
   夢も信じられるものの一つであるという考えは前からあった。
   朝の散歩でも「火風水の戒」を唱えるようになったのである。
 
   9月始めに始めてから、半年になる。
   大きく変化が感じられる思いがする。
   創価学会等の朝晩の勤行に学んだ形である。
   幸いにして、自分なりの「戒」もでき上がった。
   その内容のほとんどは読んだ本からの受け売りである。
 
   偶然に、神の加護としか思えないようなことが起こっている。
   戒を唱えることをとにかく実践しようと踏み切ったのである。
   戒の内容を守るまでには、まだ至っていない。
   これでは、ご利益もまだ少ないかもしれない。
   とにかく必ず唱えるということを続ける決心でいる。
 
   犬のお陰であるということだけは言える。
   dogはgodが姿を変えて現れてくれたものかもしれない。
   口の前に十本の指を合わせることで叶うという字ができる。
   叶うことを信じて、祈りたい。
   戒を唱えながら、散歩とヨガのストレッチを続けていきたい。
 
 
        『 呼吸法 2 』
 
   顔の緊張を弛める。
   背を伸ばし、肩の力を抜き、腹に一息、吸い込む。
   この時、肋骨はほとんど動かさず、横隔膜は下向きに膨れる。
   腹式呼吸で、『肺の下部』に、息を吸い込む。
   肩は上がらず、胃の辺りから下は、膨れる。
 
   次に、鼻の奥から、『肺のまん中』に、胸に吸い込む。
   乳の辺りの肋骨を、両上腕の内側にくっつくまでに膨らます。
   乳の位から上部の背骨を、やや後ろに反らせる形で吸う。
   上方に胸と後ろ頭を引き上げる感じで実際に胸を引き上げる。
   肋骨には外向きに力が入り、胸は膨れるが、肩は上がらない。
 
   今度は、鼻の奥から、息を脳天に吸い上げる感じで息を吸う。
   『肺の上部』に、息を満たしていく。
   右手を大きく右上方向に伸ばす(感じ)、時間は少し。
   上に吸い上げながら首の辺りから上方に頭も右側上に伸ばす。
   乳の位置から上を右に傾ける感じで鼻の奥で息を吸い上げる。
 
   続いて右同様、左手を左上方向に伸ばす(感じ)、時間は少し。
   頭を引き上げ、左上方に鼻の奥で息を引き上げるように吸う。
   扇の左右の線に沿い左右上に身体を伸ばす感じで吸い上げる。
   腕は上げなくてもできるが、上げて考えた方がわかりやすい。
   背筋は上に延びて、背は後ろに反る感じ。
 
   左右上に伸びた腕を、扇の半円に沿って、真上で合わせる。
   息を、脳天に、最後に吸い上げる。
   背筋は、特に乳の辺りの線から上が、後ろに反る感じ。
   あまり無理に吸い込まないが肺一杯上中下に、空気を入れる。
   スパイラル式に胸がグルグル回って上に息を吸い上げる感じ。
 
   右に揺れ左に揺れ、伸ばした首を反るように、後ろに揺れる。
   いつもは使わない、肺の上部の肋骨と筋肉を使うことになる。
   そうするとエンドルフィン(快感物質)が出るように思われる。
   吸い終わったら少し貯めて、脊髄の上にある脳天から今度は
   背骨を真っ直ぐ下にゆっくりと、息を吐いていく。
 
   最後は丹田の下辺りに、吐いた息を集める。
   そして、下腹で息を押し出す。
   左に体をよじるように吐き、右に体をよじるように吐く。
   中央下で、身を前にかがめてみぞおちを押し下げ、吐き切る。
   最後は腰を反る感じで、最後の残りの息を吐き出すのである。
 
 
          『 呼吸法 3 』
 
   大の字に寝て、練習する。
   吐く息で、両脚を下に真っ直ぐに伸ばす。     
   両ももの付け根内側を引きしめ、下腹を押し息を吐き切る。
   吸う息で両腕を左右水平に、伸ばして、肩胛骨を合わせる。
   両手脚釘付けのキリストをイメージし、吐いて吸っていく。
 
   吐く息では、へそより下の部分を腹で押していく。
   下腹を、押して引き締め、緊張させる。
   終わり頃に、両腿(モモ)の内側の付け根に、力を込める。
   両脚を下に真っ直ぐ遠くに伸ばしながら、力を込める。
   ももの内側の付け根、肛門の近くを引き締める感じにする。
 
   吐く息では、両脚を揃えて真っ直ぐ伸ばす。
    ドルフィンキックのように腰を揺すって押し出す。
    魚になって、水の中を泳ぐような感じになる。
    セックスの最後の瞬間を、連続して行うような感じである。
    身体全体で、突き出すようなしぐさにする。
 
    横笛のその名人は、太鼓と鐘に合わせて演奏していた。
    舞台中央に出て、大きく身体を使って吹いていた。
    上下に前後に揺するように大きく身体を動かしての演奏。
   明らかに、会場全体が、エクスタシーに包まれていた。
    会場全体が興奮し、陶酔し切っていたのである。
 
    呼吸法が頭の中にあったので身体の動かし方に注意した。     
   呼吸法を、セックスにつなげて考えていた。
    両脚を伸ばしきって両ももの付けねに力を集めて息を吐く。
    それが、エクスタシーにつながる。
    そのようにその時自分には感じられ、納得したのである。
   
   呼吸法は、やすらぎ、エクスタシーを求めている。
   エクスタシーは、恐怖や不安の対極にあるもの。
    吸う息で、両腕を左右に伸ばして、胸を広げ引き上げる。
   肩胛骨を合わせ、羽ばたくように、胸を出すように吸う。
   鷲になって、大きく空を飛ぶつもりになる。
 
    若いときによく見た空を飛ぶ夢はセックスに関係している。
    胸を広げて、両腕を翼にして、大きく空に舞う。
   鷲が翼を広げて羽ばたくように、息を吸って吐いていく。
   吐くときは頭を打ち振るように吸うときは頭を振り上げる。
   できるようになったら、起きて椅子に座った状態で行う。
 
 
        『 呼吸法 4 』
   
   両目を閉じる。                        
   閉じたら、ブランコに乗っているところを想像する。           
   閉じたまま見上げてブランコの二本の綱の付け根に目をやる。
   遊園地の普通のブランコよりもずっと、ずーっと長い綱である。      
   その二本の綱は上の方に果てしなく延びている。             
   
    とても長く、果てしなく延びて、先は見えなくなる。        
    その端は、そう、神様の指に結びつけられているのだ。
    綱はとても長く、最初は、前後に、なかなか揺れない。
   綱が短いつもりで揺すってみると、揺れてくる。             
    揺れるようになったら段々綱を伸ばしていき、ゆっくりと揺らす。
 
    吸う息で、前に、漕ぐ。
   吐く息で、後に、漕ぐ。
    座って漕いでもいい、立って漕いでもいい。             
    ただ、後ろから押してはもらえない。             
    自分の力で、自分の身体を使って、ゆっくりと漕ぐ。         
 
    息を吸って前方上に来たとき、胸が張り、肋骨が上がる。 
    息を吐いて後方上に来たとき、腹がへこみ上半身が前にかがむ。
    胸から上が、前に、そして後ろに、揺れる感じ。         
    胸を張った状態で吸って吐き、胸の筋肉と横隔膜をマッサージ。   
   横隔膜の動き、胸の張りの、両方が意識し、ゆくっりと揺らす。  
 
   遠い昔、ゆっくりと揺れていたゆりかご。
   気持ちのいい、眠気を誘うような、あのゆりかご。
   宇宙ブランコは、ゆりかごを思い出させる。
   生まれでてくる前、母親のお腹の中でも、やはり揺れていた。
   母親の呼吸のたびごとに、ゆっくりと揺れていた。
 
   あの揺れが、潜在意識に、焼きついているに違いない。
   心地よかったことを、覚えているに違いない。
   何も心配のないかのような、安堵のある、あの心地良い感じ。
   思い出すだけで、エンドルフィンが出てくるのではないか。
   ゆっくりと、吐いて、吸って、吐いて、吸って。
 
   快楽を求める、人間の本性。
   そして生まれた、エンドルフィンという快感物質。
   エンドルフィンは、考えるだけでも出てくる、脳内麻薬。
   意識呼吸で、自己按摩ができる。
   意識は、吸って、吐いて、宇宙ブランコ。
 
  
        『 こころと魂[Soul] 』
 
   精神的、身体的欲求の強まりを感じるようになった13歳の頃。
   その頃から、意志の弱さを実感するようになった。
   二十歳の頃から、 魂[Soul]という言葉に、引きつけられていた。
   意志の弱さに悩んでいたことへの反動であったのかもしれない。
   自己を意識するようになって、以来40年ほどが経過している。
 
   こころの奥底には、「魂」と呼ばれるようなものがある。
   そういう思いは、若い頃から何とはなしにあった推測である。
   25歳の頃、ホイットマンの詩集、「草の葉」を読んだ。
   読後、「魂への信仰(Belief in Soul)」という感想文を書いた。
   魂という言葉に、非常に強く、印象づけられたのである。
 
   行動は「魂」というようなものからはほど遠いものであった。
   思うようにならない自分を、何ともすることができなかった。
   苦しい立場に立ち、苦い思いをすることが続いた。
   自分を信じたいにもかかわらず、自分が信じられなかった。
   そのような思いが、ずっと続いてきたのである。
 
   救われる日がくるのではないか、期待する思いがあった。
   「魂」というようなものに何か憧れのような思いがあった。
   そんな思いが、自分を支えてきてくれたように思う。
   「魂」のようなものが、ときどき顔を出していた。
   「魂」の片鱗が、夢に現れていたのである。
 
   人はみな、世の中に役立つ者となる必要がある。
   人はみな、満足してこの世を去る必要がある。
   脳の中の「環境と教育」というソフトは取り替えがきく。
   取り替えさえすれば、自分は、変わることができる。
   夢の中で、この「魂」は、そう教えてくれたように思われる。
 
   ソフトは、取り替えることができるというのである。
   今までの考え方のソフトを、入れ換えよというのである。
   これまでのような考え方では、生きて行けないからという。
   経験を通して、こころがそのことを、悟ったというのか。
   こころの底から悟るということであるのかもしれない。
 
   「魂」のようなものへの、憧れとも言うべき思い入れがある。
   信じたいという思いが年齢とともにいよいよ強まってきている。
   こころの底の「魂」、それは神聖なものである。
   それは、神にも似たものである。
   近頃、そのことを、確信するようになっている。
 
 
        『 こころと宇宙[Cosmos] 』
 
   こころは、いのちが あって初めて息づく。
   このいのちは、その親のまたその親のと果てしなくさかのぼる。
   このいのちの流れは、遡ると、宇宙の始まりにまで行き着く。
   宇宙の始まりは、すべてのものの始まりである。
   人のこころも、そこに源がある。
   
   人間は、宇宙から生まれ出た存在である。
   宇宙存在そのものが、人間のこころの生みの親である。
   宇宙存在そのものを、いわゆる「神」と考えることもできる。
   それが最も合理的で、一般的な考え方ではなかろうか。
   そのような考えが、自分の結論であった。
 
   宇宙がすべてのものの生みの親であると、長い間考えてきた。
   神が宇宙を生みだしたという考えには、同意できなかった。
   「宇宙が生みの親である」とする考え方とは、
   「宇宙を生んだ親が神である」という考えと同じではないか。
   と、これは最近になっての考えの変化である。
 
   宇宙の始まりについて現在の科学では、まだ、説明できない。
   これを解きあかすことは、永久に不可能なのではなかろうか。
   科学者たちの中には、「ビッグ・バン説」を唱えた人もいる。
   しかし、「ビッグ・バン説」は、納得しがたい。
   「ビッグ・バン」の前には、何もなかったのか。
 
   「無」から「有」が、生まれるものか。
   そんなことはあり得ないというのが、自分の判断であった。
   物質そのものの存在しているということが、不思議である。
   降る雨も、咲く花も、考えようではすべてが不思議である。
   すべてが奇跡であると、ホイットマンは「草の葉」で詠った。
 
   自己誕生の時点で、宇宙を認識し始めた、この私という人間。
   宇宙開闢以来、その終焉に至るまで、ただ一回切りの存在である。
   他の誰とも、他の何ものとも異なる、唯一無二の、存在である。
   このいのちが尽きる時、宇宙を認識するこのこころも途切れる。
   宇宙は自己と一体のものである、共に生き共に死ぬとも言える。
 
   「宇宙と自己とは一体のものである」、これはヨガの考え方。
   宇宙のこころと、人間のこころとには、相通じるものがある。
   宇宙にも、我がこころにも、人間を越えたものが存在する。
   人間を越えたものの存在を認めると、すべてが氷解する。
   こころと宇宙共に、人間をこえた何者かの所産ではなかろうか。
 
 
        『 コスモソウル[Cosmosoul] 2』
 
   いのちの大先輩、アメーバは、人間と同じDNAを持つという。
   人間と同じいのちを、共有していたということである。
   35億年前に、すでに複製力、遺伝情報を持っていたのである。
   それは、記憶力そのものがあったということでもある。
   記憶力、判断力のもと即ちこころのもとを持っていたのである。
 
   「源」からの「こころ」の流れは、あらゆるものに及んでいる。
   犬の振るしっぽ、きれいに咲くコスモスの花の中に現れている。
   大宇宙の分身であるすべてに、大宇宙のこころが伝わっている。
   すべてのものに、その宇宙のいのちとこころが表れている。
   共通して表れている宇宙のこころとも言うべきものがある。
 
   それを言葉で表した「コスモソウル(宇宙の魂)」。
   そのようなものの存在するということの不思議さを考える。
   悉有仏性はすべてのものに仏性があるという教えである。
   「コスモソウル」が万物に行き渡っているとするのも同じ考え。
   自分のこころ、花、星、あらゆるものに、それが感じられる。
 
   宇宙はマクロコスモス、人間のこころはミクロコスモス。
   マクロコスモソウルが、全体を包む宇宙の魂。
   ミクロコスモソウルが、個々のものに存在する魂。
   コスモソウルは、我がこころの神。
   コスモソウルは、我がこころの守護神。
 
   弘法大師と共に歩く「同行二人」という考え方がある。
   守護霊があるという考え方も、納得のいくものとなる。
   いつも自分を見守ってくれ励ましてくれている守護神がいる。
   そう思うことができるなら、こころ強いに違いない。
   それならば、是非、そのように考えていきたい。
 
   我がこころの中に、確かに、善の部分がある。
   その善の部分を、確かなものとして、信じて生きる。
   安堵感を覚え、こころが落ち着いてくるのではなかろうか。
   「鰯の頭も信心から」というではないか。
   この二様のコスモソウルを信じてはどうか。
 
   自分で確かに納得がいくなら、それでいいのではないか。
   コスモソウルは、二様に働いているが、一つのものである。
   祈りの焦点を、そこに当てて、生きてみてはどうか。
   弥勒菩薩の微笑みに、コスモソウルの面影がはっきりと見える。
   そのような微笑みをたたえた人を目指していきたい。



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