素人宇宙論  COSMOLOGY

1. はじめに 

 宇宙がビッグバンで始まったというのなら、ビッグバンの前には何もなかったのであろうか。ビッグバン説はどうも納得できない、と自分で考えてきた。なぜ大半の科学者たちがビッグバン説をよしとしているのか。  
 専門的に勉強してきたわけではない。自分の知識は、読んだ本の中から自分で納得できる部分だけを取り入れてできたものである。だから個人的な、独りよがりかも知れない素人の考えである。こう考えたらどうであろうかという提案、ずぶの素人の考えである。それで、これを、「素人宇宙論」として述べてみたい。 

2. 物質=エネルギー 

 原子爆弾の強大な爆発は、物質がエネルギーに急激に変換することから生まれるものである。物質がエネルギーに変換できるということが証明されたようなものである。極論すれば、物質=エネルギーということである。宇宙はエネルギーのかたまりであるということである。このエネルギーはどこから来たものであろうか。

3. 宇宙の始まり

 宇宙のエネルギー(物質)存在についての考えは大きく分けて、二つある。最初からエネルギー(物質)があったとする「恒常宇宙論」と、限りなくゼロに近い小さな点から始まったとする「ビッグバン理論」である。  最初から物質(エネルギー)があったとすると、それではそれはどうしてここにあったのかということになり、疑問が残る。その理由は、これを当然のものとして、考えないようにするか、そうでなければ、神が作ったものとして考えるしかないといった考え方である。  限りなくゼロに近い1点から始まったとする「ビッグバン説」は、その最初の1点が、やはり問題として残る。宇宙は広がっている。だから過去にさかのぼれば、一点に集中するはずであるということで、最初の始まりの1点について、色々と考えられてきた。  科学ではやはり解明できないのかということで、やはり神が作ったとしか考えようがないと、キリスト教を背景にしたヨーロッパでは、宇宙は神が作ったとでも言いたげな雰囲気が漂っている。そうすればすべては解決するとでもいいたげであるように、自分には思えるのである。

4. 「無」からスタートする考え方

 考え方の根本として、『最初は「無」から考えるべきである』と書いてあるところにでくわした。それは自分の考えていたことと同じであった。  
 最初は「無」を考える、少なくとも考えの上からは無を出発点とすべきであるという考えに自分は引きつけられた。それがとにかく納得できる考え方ではなかろうかと考えたのである。

5. プラスマイナス=ゼロ

 何もないところから何かができるとはどういうことか。そこで考えられるのは、「プラス・マイナス=ゼロ」という考え方である。 物質(エネルギー)が最初にできるときに、物質の反対の物質、即ち「反物質」がマイナス要素として、同時にできて、その「反物質」の方が何かの理由で消えてしまったとする。それがどこに隠れてしまったのか分からないが、とそこら辺までが考えられているということがある。  
 「無」から考えをスタートさせるのはいいにしても、最初に「無」から、プラス・マイナスに分かれた理由は一体何であろうか。そこで考えられているのが、「ゆらぎ」という考え方である。
 『「ゆらぎ」というものはあるのだ』と、最初から決めつけてかかるしか方法がないのか、そうまことしやかに言われている。それしか考えようがないからといった雰囲気である。「ゆらぎ」がなぜあるのかというのが、疑問として残っている。

6. 「万有引力」

 ニュートンは「万有引力」を発見したけれども、なぜ万有引力があるのかという問いには答えていない。宇宙のはじまりと同じように、「万有引力」も説明のしようがない程に考えても始まらない当然のものであるといった雰囲気である。  自分は「万有引力」がなぜあるのかということにも、疑問を持ち続けてきた。そして得たのが、万有引力は、マイナスエネルギーではなかろうかという考え方である。  

     『マイナスエネルギー=万有引力』という考え方である。  

 この宇宙のエネルギー(物質)を「プラスのエネルギー」と考えた場合の、「反物質」に当たるものとしての「マイナスのエネルギー」を、「万有引力」と考えてみてはどうであろうかという、これは、単なる偶然の思いつきである。そう考えると、つじつまが合うと、素人考えに思うのである。
 「力」というものがなければ、この宇宙の存在は考えられない。 力の釣り合いがニュートン力学の基礎である。例えば、月が落ちてこないのも、力が釣り合っているからである。月の回転による遠心力と、地球の引力とが釣り合っている。この時、力は、向きが反対のもの、即ちFと−Fが釣り合っているとするのであるが、離れようとするFと、反対方向に働く力Fとが釣り合っている。ここで考えられているのは、プラスの力Fである。引く力をプラスの要素で考え、それにマイナス記号を付けている、即ち、プラスの要素を方向が反対と言うことで考えている。力は、プラスの押す力でしか考えていないのではないかということである。引く力では考えられていないということである。
 力(F)の反対は、−力(−F)で、方向が反対になるとして、押す力(F)を反対に押す力(F)で説明しているけれども、押す力の反対は、引く力ではないかという風にとらえたいということである。
 現実の世の中は、プラスの要素(プラスのエネルギー)で現れている。確かに存在する物は、見える範囲、皆プラスの要素(プラスのエネルギー)である。
 しかし、プラスの要素だけで、この宇宙ができているという考えは理屈に合わないということである。プラスマイナスゼロが、出発点であり、同時に現在であるとしなければ理屈に合わないのではないかと考える。
 この世の中(宇宙)は、プラスの要素と隠れたマイナスの要素の混合ではなかろうか。そう考えた場合、始めて、宇宙の在りようが納得の行くものとなるのではないか。マイナスの要素(マイナスのエネルギー)が、引く力(万有引力)であると考えるとどうであろうか。そう考えた場合、この宇宙が納得の行くものとなると、素人考えに思うのである。これをまだ物理学的に説明することはできないけれども、この考え方が自分は好きである。

7. いのち

 話を変えて、全然別の角度から、同じ理屈を考えてみるとすると、「生」と「死」の問題がある。「死」の反対は「誕生」であり、「死」の反対が「いのち」ではない。生きていること、「生かす力」 の反対は「殺す力」、即ち、「生命力」は、「殺す力」と対をなすものである。「生み出す力」の反対は、「破壊する力」であるという風に考えるべきではないか。生み出そうとする力(生命力)と、殺そうとする力の両方の同時的存在が、世界・宇宙の在りようである。これは、押す力と引く力とに対応するものではなかろうか。常に人間は殺す力と一緒に生活を送っているという人生観にこそ、真実が在るのではないか。
 生かす力と、殺す力の同時的存在、プラスエネルギーとマイナスエネルギーというものの同時的存在、これが宇宙の在りようではないか。
 刻々生まれつつあるが、同時に刻々死につつある。「いのち」は、生み出されつつあり、同時に殺されつつある。
 人間の生活では時々しか、死を目にしない。即ち、殺す力を具体的に目にすることが少ないので、殺す力には気づきにくいのではなかろうか。目に見えるものは皆生きているものばかり。死を目にすることはとても少ないということも、そのことを気づきにくくさせているように思われる。破壊する力(生命力の反対物)、殺す力、は目に見えないが常に人間と共に、現実にこの世に存在しているという事実を意識する必要がある。目に見えないからつい、考え間違いをする。生み出す力と殺す力とが半々である。
 宇宙全体で見ると、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーとは半々であるという理屈が同じように当てはまる、と考えてはどうであろうか。  

8. ブラックホール

 不可解な地球上の力学では理解できない不思議な物体ともいうべきブラックホールは、強い重力で光をも吸い込んで行く重力体である。ブラックホールは、宇宙にあるマイナスエネルギー、引く力が部分的に強く現れた存在ではなかろうかと考えたりもする。
 暗黒物質は、地球から観測される宇宙の物質の10倍〜100倍の質量を擁すると言われている、これも解明されていない物質であるが、強い引力のためか、光や電波・X線ではまったく見ることのできない物質であるとのことである。地上の常識を越えた物質であるが、これも、宇宙にあるマイナスエネルギー、引く力と大きな関係があるという風なことが解明されないとも限らない。

9. 疑問点

@ 目に見える物は疑いを挟まずに信じ易いということについて
 目に見える物は疑ってかからないという点があるのではないだろうか。
 車を運転しているとき、フロントガラスの向こうに見えるシーンが何か不思議な世界のように思えることがある。今ものを考えている自分のことであるとか、自分がこうして生きていることとか、物が見えているというそのことなどについても、何と不思議なことかと思えてくるのである。物の存在自体、即ち物質・エネルギーそのものが不思議に思えてくる。
 アメリカの詩人ホイットマンの詩集『草の葉』の中に「Miracles」という詩があるが、その中では、すべての物が奇跡である、草の葉も、輝く太陽も、と詠われている。
 見える物は疑わないということがあるのではないだろうか。普通、人は、目に見える物については、見えるばかりに自分でそのことを当たり前、当然のことと思うというのではなかろうか。疑ってかかろうとはしないのではなかろうか。
A 現時点からスタートする考え方について
 認識できる現状、即ち今のこの宇宙は、見ること感じることのできる世界である。遠くに見えるものは昔のものであるにしても、とにかくこの目で見ることができる。この全宇宙が、どうしようもない事実として認めない訳にはいかないものである。
 150億年ほど前の宇宙の始まりをビッグバンとして、それを経て現在の宇宙があるということであれば、どうしても、なぜビッグバンが起こったのかという疑問が起こってくる。ビッグバン以前には果たして何もなかったのだろうかと。
 考え方の一つとして、現時点をスタートとするという方法があるのではないだろうか。これはビッグバンをスタートとする考え方に対する考え方である。現在の宇宙をどうしようもないものとして認める。即ち、どうしようもない事実として、そしてその上でそこからスタートする考え方である。
 現状のプラスのエネルギーを認めた上で、マイナスのエネルギーなるものが同時的に存在し、釣り合っていると考える考え方ができないだろうか。
 宇宙の始まり時点でプラスとマイナスに分かれたと、見てもいない遙か昔の過去のことを無理に考えるのでなく、現時点を起点にして考える方が分かり易いということから、そのような考え方もあるのではなかろうかと思うのである。確認することができるところからスタートする。ゼロから始まったと言う考え方を変えて、そのように考えてみる。現在の時点を起点にして、過去にさかのぼる。さかのぼることはできることはできるが、始まりに行き着かないかも知れない。
 超新星爆発で、どろどろに溶けて、元素がそこから生まれてくる。そのようなことが繰り返されているのかも知れない。50億年後には、大きく膨張した太陽がこの地球を飲み込むと、超新星爆発などの観測結果から、そういうことが予測されている。地球上の進化そのものが、一度ゼロ地点にまで戻されるということが予測されている。
 宇宙は変化しているにしても、現時点で、プラスのエネルギー(見える世界)とマイナスのエネルギー(見えない世界)が混ぜあった状態として存在していると考えてはどうであろうかということである。
B 現在のこの一瞬が実時間の終わりであることについて
 「宇宙の始まり」は最大の疑問点であるが、今過ぎゆくこの瞬間の時間というものも同じように不思議であると思う。
 見える物と同様に、自分で感じることのできるもの、例えば「時間の経過」なども、当たり前と考えやすいのではないだろうか。
 刻々と移りゆくこの瞬間の時間は、実時間の終わり、現実の感じられる時間の終わりである。グラフ上のX軸の、左右無限大に広がる時間ではなく、実際の実時間としては、いまこの瞬間、瞬間が感じられる実時間の端、つまり実時間の最後である。ここから先はまだ来ていない。まだ来ていない未来は、実時間ではない、虚時間であると言えるものである。
 感じられる実時間の始まり、それがビッグバンであるというのであろうか。
 宇宙の始まりは伝々とされているが、終わりについてはあまり問題にされていないように思う。まだ来ていない時間は、しかし確実に存在するものである。
 宇宙の始まりには、空間も時間もなかったと書かれている所に出くわすことがあるが、あまり書かれていない「宇宙の終わり」についてはどうであろうか。時間というものがなくなるという考えには感覚的に行き着かない。
C 時間と空間を引き離す考え方について
 時間は、空間との対比で捉えられている。が、時間と空間を引き離す考え方も、一つの考え方としてあるのではないだろうか。
 現実には、時間を無視して空間は成り立たないということであろうが、現在のこの一瞬の空間は、空間として時間なしでも考えられるのではないだろうか。
 空間についても、時間と同様に、実空間と理論上の空間というのがあるのではないだろうか。
 頭の中で、宇宙の端まで行ってみることを考える。時間を止めて、この制止した空間宇宙の端まで、行ってみようとしてみる。頭の中では、瞬時に宇宙の端まで行けるはずである。しかし、幾ら行っても行っても、宇宙の端には達することができないのではないだろうかと感じる。その先はということになるからである。宇宙の端には行き着かない。無限大の端には、時間も空間も、頭の中で行き着くことはできないように思われるのである。
 ハットンが述べた「人間の観察にもとづくかぎりはこの世界には初めもなく終わりもない」という考えを採用して、そのように考えるのはどうであろうか。
D 「ゆらぎ」
 宇宙がゆらぎから始まったという考え方に行き着いた時、このゆらぎをどうしようもない存在の事実として認めるべきかどうか。
 どうしても、最初の一押しが必要ではないかという風にも考えられる。プラス・マイナスゼロにしても、「ゆらぎ」の理由が見いだせない。ゆらぎがあるのだとするしか仕方がないように思われる。それで、宇宙の始まりからスタートするという考え方がむつかしく感じられてくる。現時点から物を考えることを初めるべきではないか、その方が理にかなっていると自分では考える。
E 自分を中心に考える考え方の当否
 宇宙の大きさを考える場合、人間は自分を中心に考えるような気がする。自分から一番遠いところを宇宙の端とする等、自分が宇宙の端の方にいるかもしれないという考えはないように思われる。この点についてはどうであろうか。150億光年の宇宙の大きさを言う時、人間はそのどこらあたりにいるのか。多分その真ん中にいることを予想しているのではなかろうか。
F 「進化」
  ベルクソンの哲学、『変化の知覚』について、大学の授業で学んだことがある。変化することが常態で、静止はその変化の一形態に過ぎないというものであった。確かに、進化・変化は、理屈抜きに不思議な現象である。理由がないようにさえ思える。時間の進む方向が一定であるのに似ている。生き残りを賭けた闘いによって、勝者が生き残る、そういうのが進化というものであろうか。
 事実として認めざるを得ないようなものが確かにあるということがわかる。果たして「進化」に原因があるのかどうか、この点も疑問である。
G 「可能性」としてのいのちについて
 いのちの発生は35億年ほど前ということが言われている。いのちの発現の可能性はすでに、もともとあったのではないかと考える考え方はどうであろうか。
 鉄が錆びると酸化して、その部分が浮き上がってきたりする。このときその部分は自然に盛り上がって来て、動く形を取る。酸化は鉄の部分を変化させるということであるが、動きが見られるということは、酸素を取り込んで呼吸をする動物の動きと通じるものがあるように思える。鉱物にもいのちのもとはあるのではないだろうか。
 急に、突然変異的にいのちが海から生まれ出たのであろうか。
 もともと遺伝子的に、条件がそろえばいのちが生じる、そういう「可能性」としてのいのちが宇宙にはあるのではなかろうか。

<2003年11月10日共同ニュース −鉄の脚”持つ軟体動物 インド洋の深海で発見 −スウェーデンなどの研究グループ>

 鉄と硫黄が化合した硫化鉄でできた「うろこ」に覆われた脚を持つ新種の軟体動物を、スウェーデンと米国の研究グループがインド洋中部の深海で発見し、7日発行の米科学誌「サイエンス」に発表した。タコやイカと同じ頭足類だが、身を守るために独特の進化を遂げたらしく、体の一部が硫化鉄の生物の発見は初めてだという。
 この生物は古代生物のオウムガイに似ており、大きさは約5センチ。脚の表面が長さ約8ミリ、厚さ最大0・2ミリのうろこ状物質に覆われている。魚類などのうろこは体の保護や乾燥防止の機能を持っているが、この生物のうろこは捕食者から身を守る効果などがあると推測されている。見つかった場所は海洋科学技術センターの深海調査船「かいれい」が発見した水深約2500メートルの「かいれいフィールド」で硫化鉄を豊富に含む熱水が噴出している。この生物は独特の環境に適応し比較的最近、硫化鉄を利用できるように進化したとみられるという。

<2006年12月2日 読売新聞 −生命の息吹?カナダに落下の隕石に46億年前の有機>

 カナダへ落ちた隕石(いんせき)に、46億年前の太陽系創成期にできた有機物が含まれていたことを、米航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センターの中村圭子研究員らが突き止めた。  「地球生命の原材料となった有機物は、太古に降り注いだ隕石によって供給された」との説を支える発見で、1日付の米科学誌サイエンスに掲載された。  中村さんらは、2000年1月にカナダ西部の湖に落下、地球上の物質が混入されないよう保管されていた、隕石の薄片を電子顕微鏡で観察。内部が空洞になった有機物の“玉”(平均直径5000分の1ミリ)を多数発見した。玉には通常より中性子が1個多くて重い原子(同位体)が、窒素で1・2〜2倍、水素で2・5〜9倍も、地球上の有機物より多い割合でそれぞれ含まれていた。  この割合から、氷点下260度という、現在の太陽系内ではあり得ない極低温で生成されたものと判明、「原始太陽系の外縁部か、その元になった分子雲でできた」と結論づけた。
 中村さんは「有機物自ら球状を形作ることが生命誕生への第一歩ともいわれており、今回の“玉”はその条件に当てはまる」と話している。

<2009年12月30日 読売新聞 −お母さんのお腹の中で、赤ちゃん微笑む>

 お母さんのおなかの中で、赤ちゃん微笑む 胎児の微笑。口の端を上げている=聖心女子大・川上清文教授、人間環境学研究誌提供   お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんがほほ笑んでいる様子を、超音波診断装置を使って撮影することに、聖心女子大の川上清文教授(心理学)らの研究チームが成功した。  国際的な基準に沿って「微笑」と判定されたのは、世界で初めてという。  もっとも幼い赤ちゃんの微笑を見せたのは、23週と1日目の胎児。神奈川県鎌倉市で産婦人科を開業する矢内原巧医師とともに約3分間撮影したところ、計6回、1回あたり平均4・7秒の微笑を見せた。  この微笑は「自発的微笑」といわれ、外的な刺激と無関係に表れる。新生児にもみられる。唇の端が上がっている状態が1秒以上続くことなどが、国際的な判定基準とされる。人の笑顔などに反応する「社会的微笑」とは区別される。  これまでに、生まれたてのチンパンジーやニホンザルでも確認されているが、胎児での確認は初めて。自発的微笑がなぜ起きるのかは不明だが、川上教授は「進化した動物には自発的微笑が見られる。この微笑がいつ始まっていつ終わるかという点に、情動の進化を解明する手がかりが隠されているかもしれない」と話している。

<2010年4月13日 3人の研究者による報告− Dark Energy

最近の様々な宇宙観測から、宇宙の物質の80パーセント以上は目で見ることのできない未知の物質=暗黒物質であると考えられるようになりました。現在その正体は不明ですが、ビッグバンの際に作られた未知の素粒子であるという理論が有力です。(〜最近のある報告「名古屋大学、国立天文台、ハーバード大学の3人の研究者による」)

<2011年8月22日 読売新聞 −34億年前の岩石から最古の化石?硫黄えさに >

 西オーストラリアの約34億年前の岩石から、地球最古の微生物化石が見つかったと、西オーストラリア大と英オックスフォード大の研究チームが発表した。  同時代の微生物化石の発見報告はこれまでもあったが、異論も多かった。今回は、電子顕微鏡など最新の手法で微生物である証拠を確認したという。成果は、21日付の科学誌ネイチャー・ジオサイエンス電子版に掲載された。  当時の地球は、酸素がほとんどなく、表面の多くは水温40〜50度の海で覆われていた。発見された微生物は、直径約10マイクロ・メートル。グループを作って生息していたとみられる。  硫黄化合物をえさにしていた証拠も見つかったという。硫黄をえさにする微生物は現在も、海底の熱水噴出口付近に生息しており、今回の研究は生命の起源の解明につながることが期待できる。
H 「花の美しさ
 コスモスがきれいに咲いているのは、虫たちを呼び寄せるためである。
 それは実は、自らの雌雄が一緒になるためである。
 生き残りを賭けてのサバイバルゲームで、自らの欲望を叶えようとやっきになっている。
 しかし、なんとも美しい欲望ではないか。
 それを見て人間も、喜びを感じる。
 喜びを与えることで、自らも喜びを感じようとしているコスモス。
 コスモスには、人間のような自意識はないはずである。
 しかし、潜在的な意識、無意識は働いているのではないだろうか。
 この無意識は、宇宙に普遍的に存在する働きではないだろうか。
 「可能性」としてのいのちと同様に、宇宙に偏在しているものではないだろうか。
 「宇宙は神の創造物ではない。神の表現である」という言葉を、どこかで読んだ記憶がある。
 人間を超えたものの働きがあるに違いないという気がしてくる。
 この宇宙に、潜在的な意図、人間を越えた智恵が、偏在しているということかもしれない。
 コスモス(花)に限らず、満天の星にしても、何と美しいことか。
 コズモス(宇宙)に意図があるに違いない、そう思えてならない。

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