読後抜き書き集
                        目  次
1. ハウステンボス物語 上之郷利昭 プレジデント社
2. 吉田松陰 森友 幸照 三笠書房
3. ユダヤの力(パワー) 加藤 英明 三笠書房
4. 眼からウロコが落ちる本 笠巻 勝利 PHP
5. 人生に必要な知恵は幼稚園で学んだ        ロバート・フルガム   河出書房新社
6. ライフマネジメント 小林 一平 実業之日本社
7. 人間開発 加藤 秀俊 中公新書
8. 成功哲学 ナポレオンヒル 産業能率大学出版部
9. ”異色”創業者の発想 田原総一郎 PHP文庫
10. 人生というゲームの新しい遊び方 長谷 章宏 たま出版
11. マインド・コントロールの恐怖 スティヴン・ハッサン 恒友出版
12. 改修中學教育修身教科書巻一 吉田 静致 東京寶文館
13. ドタンバの神頼み サトウサンペイ 光文社
14. 宗教集団に学ぶ企業戦略 小田 実 はまの出版
15. 死んだつもりで 菅原 義道 日新報道
16. 臨終の視点で生きてみなさい 藤原 東演 大和出版
17. 道は開ける D.カーネギー 創元社
18. こころの旅 神谷美恵子 日本評論社


 1.  『 ハウステンボス物語 』        上之郷利昭   プレジデント社

・ 潮のうず巻く西海橋をくぐって佐世保湾から大村湾に入り、左へ舵を切って進む。すると、豊かな緑に囲まれた海の一角、静かな入江の正面に、忽然と巨大なオランダの町が姿を現す。「ハウステンボス」の町である。
・ 「ハウステンボス」は、オランダのベアトリクス女王が、現在、実際に住んでいる宮殿の名前であり、オランダ語で「森の家」の意味である。
・ ハウステンボスプロジェクトは、敗戦によって、厳しい家庭状況に立たされた一人の聡明な少年が、この美しい自然の中に住む大村湾の人々を何とか豊かに出来ないかと思い続けた夢からスタートしている。
・ 神近義邦は、小学校のころから仕事をして家計を助けた。中学卒業の時、家計のことを考え就職をしようとしたが、母が高校進学を強く進め、働きながら4年で卒業する定時制高校に通うことになる。高校2年のとき、養子に行き神近となる。高校卒業のとき、答辞を読む義邦の姿を見て、母は泣いた。
・ 卒業後、西彼町役場に就職、かたわら土地を借り、父に習った花の栽培を本格的に開始。朝早く起きて出勤前に手入れをし、役場から帰ると日が暮れるまで畑を見回り、日曜祭日、一日も休まず働く。昭和40年の大旱魃のときには、役場から帰って毎晩、懐中電灯を口にくわえ、池から水を運んでは菊に与えた。
 このころ、14万本の菊を栽培。町内の農業後継者の青年たち十数人が弟子入りする。指導に当たっていた稲作の増産が町長の減反政策と対立、西彼町役場を退職。町長選挙戦の対立候補の実質的リーダーとなって、圧勝、その助役となる。
・ 元町長と対立のころ1年間県地方課財政係へ出向。この時、西彼町の55万平方メートルが、東京永田町の料亭「一条」に買占めらていることが判明。ラブホテル等が無秩序に建てられないようにするための取締りの折衝役に、神近が当たる。 乱開発をやめることに同意した「一條」の女將が、その土地の利用を考えるようにと神近に提案。国指定の自然休養村事業事務局の事務局長として、自らの観光果樹園も指定を受け補助を受けることになった神近が、自然休養村に取り込む形で「一條」の土地活用を企画することになる。
・ 「一條」の相談役となり、観光果樹園事業に着手するが、オイルショックで「一條」が経営破綻、果樹園造成の工事費4千万円を神近自身が背負い込むことになる。そこで「一條」の専務取締役として、料亭「一條」の再建に取りかかる。
 月曜から終末まで永田町「一條」の番頭として働きこれを借金の分割返済に当て、終末は長崎へ帰っての観光果樹園の事業に当たる超人的な生活が続く。
 「一條」を見事再建。その日々の中で、多くのことを学ぶ。多彩な人々を知り、将来の人脈を培っていった。
・ 「日本には、こんな海がありますか」「ある」と神近は力強く答えた。「私が生まれ育った長崎に大村湾という素晴らしい海がある。この地中海の海に決して負けない」「そんな素晴らしいところなら、この地中海のようにたくさんの人々が訪れて楽しんでいるでしょう」
 電光の如きアイデアが神近の脳裏に閃いた。
 神近義邦が「長崎オランダ村」の計画を発想したのは、1979年夏、彼がミネアグループの不動産部長を兼ねて、社用で初めてヨーロッパを旅行したときのことであった。
 時とともにアイデアは神近の頭脳に広がり、興奮が神近の身体を包んでいった。ヨーロッパから東京に向かう飛行機の中で、神近は次々に浮かんでくるアイデアを紙に書きなぐった。アンカレッジまで一睡もしなかったという。これが神近のオランダ村計画の発端である。 
・ 観光果樹園は農林省の自然休養村事業の指定で、農林金融公庫の融資を受けた。西彼町の青年たちと一緒に「有限会社グリンメイク」を設立。6万坪の土地を「一條」から買い取ることになる。
・ 渋沢栄一の孫、正一が「東京農大の息子の主任教授が『伊豆シャボテン公園』を作って成功しているので相談しては。」とアドバイス。この近藤教授の助言と指導で出来上がったのが、動物が檻の中に入っていない動物園「長崎バイオパーク」である。その入口の入場券売り場に、風車小屋を作った。「国道からバイオパークの入口までの広い田圃にチューリップを一面に咲かせたい」、まだ最初の頃、神近はそんなことも言っていた。
・ 生簀料理「松乃井」の経営行き詰まりの相談をうけていたとき、神近は「長崎オランダ村」構想を提案した。
 ハウステンボスプロジェクトの母体ともいうべき「長崎オランダ村」は、豊かな自然に恵まれた大村湾を望む、長崎県西彼杵郡西彼村に誕生したテーマパークであった。外観だけからいえば、最初は風車と売店だけが寒村の国道沿いにひっそりと立つドライブインに過ぎなかった。
 神近義邦の発想したこのアイデアは見事に的中した。神近は、その資金力からすれば大胆というほかない拡張を進めていった。
・ 「長崎オランダ村」の設計図を描いたのは日本設計社長の池田であった。池田は戦艦大和に従って沖縄特攻に出撃していた。奇跡的に生還した時、その乗って帰った駆逐艦がこの大村湾に入港した。静かに澄んだ大村湾の入江、春の陽光が注ぎ、山桜が咲き乱れていた。その美しい印象は強く胸に焼き付いた。消そうとして消えないこの感動が、金のない神近のアイデアの設計を引き受けさせることになったのかもしれない。
・ 長崎の発展にとって何かをやるようになるのではないか。そのような予感を感じさせるものを神近に感じ、「バイオパーク」のための2億円の銀行融資を実現させたのは、長崎自動車社長、長崎商工会議所会頭の松田であった。
 「長崎オランダ村」のスタート時の運転資金2億5千万円の担保にと、個人として全面保証もしてくれた。只、神近もそのとき3億円の生命保険に入った。
・ 池田や松田らの支援と協力を引き出し、オランダ政府、日本有数の企業数十社、長崎県、佐世保市など地方自治体を含めた何万人もの人々を巻き込み、総額5千4百億円の巨大事業「ハウステンボスプロジェクト」にまで発展させる原動力となったもの、それは只々、神近義邦の壮大な夢であった。
・ レンガ作りのオランダの街と建物を再現するために50万坪近い広大な土地に、合計2千万枚にのぼるレンガが使用された。日本で焼いたものもあったが、重要な部分はオランダで焼いて輸入された。
 チェックの結果、レンガとレンガの間の接着部分であるメジの幅が本物のハウステンボス宮殿のそれよりも2ミリ広いということであった。4千万円の損失を知りながら、神近は自分の責任においてこれをやり直させた。
 日本側は本気だ、これなら支援しても大丈夫、という強い信頼感をオランダ政府側にとりつけたという。
・ ハウステンボスプロジェクトは遊休地となっていた工業団地を、地域活性化のために活用するという趣旨からスタートしたため、「第三セクター」方式を取っている。50万坪近い広大な土地に展開される住宅、ホテル、コテージ、レストラン、美術館、博物館、アミューズメント施設、ショッピングモール、・・。
 3千5百人の雇用、年間4百万人と想定される観光客。この巨大な都市づくりが、過疎化に悩んでいた大村湾周辺一帯の活性化を促す大きな起爆剤になること、九州全体の活性化にも貢献することが、今や誰の目にも明らかになっていった。
・ 1986年9月のある夜、高田長崎県知事は神近義邦に電話をかけた。
 「神近さん、私は興奮して眠れない。もう一度、あなたの声が聞きたくて電話した」と、知事は神近に言った。
 それは持て余していた針尾工業団地を、長崎オランダ村で何とか活用してもらえないだろうかと高田知事が神近に要請していたのに対して、「やってみましょう」と神近が答え、その壮大な計画案を提示した日の夜のことであった。
・ 「何とかやってみましょうと引き受けると、それに取り掛かり、オランダ側の関係者やリゾートの専門家を含めた有識者による15人委員会をつくり、日本工業銀行を説得し、さらに今日ハウステンボス計画に参加している日本のそうそうたる企業を次々と説得し、一つ一つ着実に積み上げて、あのとてつもない計画を実現するところまで持っていったのです。彼はあの事業に賭けています。私も行政の立場から、そして人間として、その彼に賭けているんです」高田知事はそう語っている。
・ 日本設計の池田社長と同様、プロジェクトに入れ込んだ日本郵船の富岡会長も、沖縄特攻の船団に乗っていて触雷し、九死に一生を得ていた。
 長崎自動車の松田社長は、その富岡会長と海軍同期の入隊で、フィリピンの激戦から奇跡的生還をした人であた。
 又、清水建設の今村社長は、海軍78期の、ハウステンボスのまさにこの地にあった海軍兵学校針尾分校で訓練を受けていた。
 日本の将来のために戦場に散っていった人々が、神近義邦という人物になりかわって、生き残った戦友たちを21世紀の日本のために立ち上がるようにと、呼び寄せたのではなかろうか。
・ 「京都は昔、長安の都を模した計画都市であった。1000年の時を経て、京都はもはや長安の模倣ではなく、追随を許さない日本の古都となった。都市はそこに生活する人々が新しい文化を生み出し、熟成させていく。オランダを模した計画都市ハウステンボスも1000年後には、誰もオランダの模倣とは言わない日本の古都となっているであろう」神近はそう言っている。
・ 昭和17年 8月 神近義邦誕生       昭和37年 6月 西彼町役場就職
  昭和48年 3月 役場退職、(株)一條に就任 昭和50年 (株)グリンメイク設立
  昭和54年 7月 ヨーロッパでハウステンボスのアイデア  昭和54年 長崎バイオパーク(株)設立
  昭和57年12月 長崎オランダ村(株)設立    昭和58年 長崎オランダ村オープン
  昭和62年 佐世保市ハウステンボス計画委員会設立 昭和63年 ハウステンボス(株)設立
  平成2年 2月 ハウステンボス(株)工事開始   平成3年 オランダ村ハウステンボス合併
  平成4年 3月 ハウステンボス第一期オープン    平成7年 3月 第二期オープン予定
  平成10年 3月 ハウステンボス第三期オープン予定


2. 『 吉田松陰 』              森友 幸照     三笠書房

・ 吉田松陰は、長州藩士、杉百合之助の次男として誕生した。4歳のとき、父の弟で藩の山鹿流兵学師範・吉田大介の養子となり、5歳のとき、養父が28歳で病死したため、吉田家を継ぎ、当主となった。しかし、幼年であったため、実家の杉家に同居。父の弟玉木文之進らが後見人となって松陰の教育にあたった。
 父は半士半農で、妻瀧とともに農家同様の生活。兄、妹、弟、叔父たちと共に、松陰は、貧しく、厳しくはあるが、共に助け合って働き、学問を怠らず、温かい愛情で結ばれている家風の中で成長した。
・ 養子先の吉田家の兵学は、山鹿素行を始祖とする山鹿流で、その家伝兵法の伝授と、師範にふさわしい教養としての儒教が、松陰にたたき込まれた。
 父は、長男梅太郎と次男の松陰をつれて山へ草刈りや薪採りに行き、道すがら四書五経や史書を口授した。また、田畑にあって耕作をするときには、幼い子供二人を畦道に座らせて、『論語』などを素読させた。親子が読誦する朗々たる声はあたりに響き、松本村の名物だったという。
 父の弟で、山鹿流兵学に造詣の深かった玉木文之進も松陰にとって厳しい教師であった。性格が剛直かつ峻厳な文之進の伝授には、童児だからと手ごころを加えるといったところがなかった。松陰の母の瀧は、そのありさまを見るに忍びず、心のなかで「早ようお逃げ」と叫ぶほどであったというが、松陰は叔父の厳格な授業によく耐えた。
・ 9歳で正式に藩校明倫館に出仕、先代や叔父の文之進などの指導を受けながら、年上の弟子たちに初講義。10歳で藩主の前で御前進講。17歳で独立の兵学師範となり、20歳の御前講義では、藩主が「そちの弟子になろう」というほどまでに成長した。
・ 松陰は、人民すなわち農工商の人々を、非常に大切にした。
 これは田畑を耕すような生活で幼年期を過ごし、労働の大切さを肌で感じていたこと、さらに、山鹿流の始祖、山鹿素行が「農工商を天下の三宝となす」と喝破しているのに出会い、これに強く教えられたことなどが関係していた。
 また、儒学のなかで松陰がとりわけ傾倒していた、『孟子』の影響もあった。「民を貴しとなす」という民本主義的な思想が『孟子』にはあり、松陰はこれを消化して、その意を読み取ることができたと思われる。
・ 人を信じすぎること、これは松陰の性格の一大特徴で、このためしばしば失敗もした。しかし、これは一生直らなかった。
 普通の人なら、こともあろうに、敵対するような形でやってきた黒船を密航の手段に使おうなどとは考えもしなかったであろう。へたをすると殺されるかもしれない。しかし、松陰は、相手が異人であろうが、言葉が違おうが、誠意は必ず通じるものと信じていた。「日本国江戸の二書生、謹んでこの書を、閣下ならびに各将校に呈す・・・」の文書をもって臨んだ。
 ペリーは疑った。結果この密航計画は失敗に終わり、松陰は牢獄の人となった。
 しかし『ペリー提督日本遠征記』で、生命さえ賭けようとした教養ある日本人として松陰らを賛美したペリーは、当時幕府当局に対して、「最も厳重な刑罰を与えないことを望む」と嘆願書を送るに及んだ。幕府がそれに応じたということである。
・ 松陰は歩くときの姿勢も、座ったときの姿勢も、つねに左肩が上がっていたという。本の重みが左肩にかかるものだから、意識的に上げるようにしていたのが、いつしか癖になって左肩上がりの姿勢になったという。
 松陰の読書量はたいへんなもので、外へ出るときも懐に何冊も本を抱え込み、寸暇を惜しんで読んだ。彼はまた何でも記録するという筆まめで、どんな本を何冊読んだということまで書き残した。それは、兵学、儒学、歴史を中心に、民政、農業、地理、医学、詩文、洋学など多岐にわたった。彼の記録によれば、例えば、 20歳、平戸に50日滞在した間に約80冊。
 24歳、野山獄に入った10月から暮れまでに106冊。
 27歳、その年、秋までに356冊であった。
・ 松陰は万巻の書を読んだ読書家であったが、ただ閉じ込もってばかりではなかった。現実の社会にふれて実学的な生きた学問をするという姿勢で、旅を非常に重要視した。武士は勝手に藩外には出られない時代であったが、積極的に旅の機会をつくった。
 20歳、長崎、平戸、熊本へ九州遊歴の旅。
      その後、藩主に随行して江戸に出府、滞在。
 21歳、藩許を受けずに東北地方の事情調査をして、亡命罪となる。
 22歳、藩主の特別の計らいで、浪人ながら遊学許可を受け、江戸留学、滞在。
 23歳、ロシア艦で密航しようとして江戸から長崎への旅。
      ロシア艦は出た後でまた、江戸へ戻り、ペリーの黒船で密航しようとして下田へ向かい、とらわれの身となる。
・ 旅の道すがらには、農民の生活や農耕作業を見て、その困苦ぶりに心を痛め、民政の重要性を痛感した。長崎では、出島のオランダ屋敷を見学、オランダ船に乗り、船上では、オランダ人から、スープと洋酒を振舞われた。触発されて、海外関係の書物をむさぼるように読む。平戸では、知行合一の王陽明の思想に感激、実践を重んじる実学志向の松陰には大きな収穫となった。また熊本藩の兵学師範、宮部鼎蔵と知り合い、肝胆相照らす仲となり、兵学、儒学、他に国学等思想面で影響を受けた。
・ 江戸に来ると、学者がひしめいていた。自分が井の中の蛙であったことを思い知らされ、また発憤。さらに歴史、西洋兵学、オランダ語の習得を始める。
また、他藩の同憂の士と交流。出府していた宮部と計画、海防策を考える目的で、まず東海岸は千葉を、続いて、日本海側を北上、本州最北端まで踏破することになる。帰りは太平洋側を下った。
 江戸で待ち受けていたのは、勝手に他藩に脱出したための士籍剥奪であった。松陰は一介の浪人になり下がった。
・ 松陰が、旅、つまり地理と並んで力を入れた学問は、歴史であった。この覚醒を松陰にうながしたのは、儒学と洋学をかね備えていた江戸の古賀茶渓であった。ただちに古賀に入門。ここで中国21史を読破する。
 中国の長い封建制の歴史を学んで、松陰は「封建の世は農民必ず苦しむ」という歴史の法則を学んだ。
・ 彼の成長は、読書と同時に、多くの友人知己良師に恵まれたことにもよった。
 山田宇右衛門は15歳の松陰に対して、世界地図を広げて、指でさし示しながら、「日本が文化を学び続けてきた、世界の一大強国であった清国が、数年前、この小国のイギリスに敗れ、領土の一部を削り取られたのです」と教えた。宇右衛門はまた、海防兵制に卓識のある長沼流兵学の山田亦介に入門することを勧めた。新しい師、山田亦介は、今度は異国事情を研究した兵学者の林子平の「海国兵談」を紹介した。林子平は海岸の無防備を憂い、幕府を批判して、処罰されていた。更に、「海防八策」を書き、大砲を鋳造、実射に成功していた佐久間象山に入門する。その象山に松陰は心酔した。象山は、海軍をおこし、大艦をつくり、異国と通商し・・と大胆に述べていた。清国がイギリスに敗れたのは、たんに軍事力の差で負けたのではない。清国内の政治が乱れ腐敗して自滅のような形で敗れたのだということも学んだ。
・ その頃突如、江戸の沖合いに、ペリーが4隻の鉄製の軍艦、黒船を率いて現れた。2隻は見たこともない煙を吐く蒸気船であった。幕府は慌てふためいた。その幕府のふがいなさを松陰は見た。ペリーは予告通り、翌年再び来航、今度は船は7隻に増え、江戸の近くに停泊、いまにも江戸に大砲を打ち込みそうな気配であった。幕府の鎖国政策は、そこでついに終りをとげることになる。
・ 「戦いを恐れて、いやいや条約とはなにごとか。無責任なのは幕府だけではない。こうなったら身をもって実践するほかない」 
 これが、国禁を犯しての下田からの密航計画となる。
・ 密航失敗の後、象山、松陰、重之助の獄中生活は6カ月に及び、刑は「在所において蟄挙」、松陰は、重罪人扱いで国許の萩へ送還された。
・ 長州、萩の野山獄は、冬ともなると、日本海から酷寒の風が吹いて膚を突き刺す。松陰は、ここでも入獄早々から猛然と読書を始める。1年3カ月の在獄期間中に読破した冊数は、なんと600冊にものぼった。
・ 下田踏海から安政の大獄での刑死までの約5年間、松陰にとっては半分近くが獄中生活であったが、まったく自由を奪われた状態のなかで、社会を動かし、人々を感化していった。
・ 当時の野山獄にはほかに囚人11名がいたが、9名は肉親も持て余し、世の中から捨てられたような存在で、心はねじけた人たちであった。松陰入獄半年にして、前代未聞の獄中勉強会、『孟子』の講義が始まった。獄中の教育は、最年少の松陰が師で、すべて年上の同囚が弟子であった。
 「人の性は善なり、民を貴しとなす、革命是認」、このような思想内容を持つ『孟子』を通して、いま我々は何を為すべきかを、松陰は熱心に説いた。司獄の福川犀之助も強い感銘を受け、牢格子の外に端座して講義を聞いた。犀之助は、松陰が夜も読書・著述ができるように、牢格子の外に行灯をつける許可をとりつけた。翌年には、囚人11名のうち8名が悔悛の情を認められ放免された。
・ 自宅謹慎になって2日後、父と兄、それに叔父や従兄弟が集まり、松陰に『孟子』の講義を聞かせてくれるように申し入れた。講義は聞く者の胸を打ち、肉親親戚だけでなく、近隣の心ある者も聴きにくるようになった。
 松陰は謹慎の身であったが、やがて藩庁は、松陰が松下村塾の主宰者であることを正式に許可した。彼はどんな人間でも、教育をすればそれだけ社会に役立つ人になるとの信念で、学びにくる者はこれをこばまなかった。
・ 「学問が正しく進むか進まないか、そして立派なことができるかできないかは、志があるかないかによる。ゆえに武士たるものは、志を立てなければならない。志を持ったら、その志すところを身をもって行動にあらわさなければならない。志のないものは、無志、すなわち虫も同然である」と、手紙で述べた。
・ 「真に深く真理を知れば、誰でも必ず行動に及ぶ(武教全書講録)」というのが彼の実践論であった。この源をなしたのは、陽明学の「知行合一」説であった。実践を重んじる松陰は、これを体現しようと、全身全霊で打ち込んだ。
・ 松下村塾は、たんなる学問塾ではなく、政治結社のような存在となり、藩庁は、村塾諸生が過激な反幕活動に出そうな気配を危険視していた。その政治活動を封じようとして、ついに松下村塾の閉鎖命令が出た。松陰は再び野山獄につながれることになる。
・ ハリスは「条約調印ができないなら、大砲がやってくるであろう。清国を破ったイギリスやフランスが、日本に押し寄せてくるに違いない」などと威圧。井伊直弼はついに勅許を得ないまま、日米通商条約に調印する。
・ 「国患を思わず、国辱を顧みず、しこうして天勅を奉ぜず。これ幕府の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。少しも許すべからざるなり」と、松陰は意見書を藩主に呈上、この大義を根拠に、藩論を動かそうとした。
・ 井伊大老は、老中の間部詮勝を京都手入れの総指揮者として派遣、京都所司代を動かし、志士の逮捕を強行(安政の大獄)。
・ 松陰自身は萩を出られない。松下村塾の有志を分身とし同志として行動を開始した。その頃、松陰はすでに危険人物として幕府に目をつけられていた。
・ 幕府の「吉田寅次郎を東送せよ」との召喚命令に、容易ならぬ事態の到来を、藩庁も肉親も縁者も、友人門弟も感じていた。毎日のように獄を訪れ泣き出す門弟たちを、松陰は逆に慰めた。
 「至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり(孟子)・・・」
・ 江戸伝馬町の牢の師の身を案じる高杉晋作に、松陰は書いて送った。
 「この世に身体は生きているが、心は死んでいる者がいる。身体は滅びたが、精神は生きている者もいる。心が死んでいては、生きていても益はないし、心が立派なら死んでも決してそのままに終るはずがない・・・」
 親宛には永訣の書を送った。
「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ(手紙)何ときくらん」
・ 「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」
 この辞世の句を残し、伝馬町の刑場で首を刎ねられ、吉田松陰は29歳3カ月の生涯を終えた。
・ 松陰の門下生は、松陰の死後、師の教えを自分のものとし、師の志を継いで、幕末の激動のなかで変革活動に奔走し、じつに多くの者が師のあとを追うように、若死にしていった。高杉晋作(29歳)、久坂玄瑞(25歳)、入江杉蔵(27歳)、吉田稔麿(24歳)、杉山松介(27歳)、寺島忠三郎(22歳)、有吉熊次郎(23歳)、松浦松洞(26歳)、玉木彦介(25歳)、時山直八(31歳)、駒井政五郎(29歳)。何れも、禁門の変の戦いや新選組に討たれたりの若死にであった。
・ 人を得るか、得ないか。それは、その社会、その国、また会社や組織が、生き残るか滅びるか、治まるか乱れるかを決定する重大な要素である。
 吉田松陰は、明治維新を引っ張っていった、たえざる自己変革の男であった。
人から学び、書から学び、学びつつ行動した。わずか6年の活動で、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋・・・とあまたの人材が集い育ったのである。


3. 『ユダヤの力(パワー)』     加藤英明    知的生き方文庫(三笠書房)


・ ユダヤ人はチグリス・ユーフラテス川の河口で発祥した小さな部族の一つであった。今日のイスラエルがあるカナンの地にやってきたのは、紀元前18世紀頃。その後、いくつものユダヤ国家が興っては滅ぼされた。その間、飢饉から逃れるためにエジプトへ移って奴隷となり、今日のイラクにあったバビロニアへ連行されて、捕囚生活を余儀なくされた。紀元70年に最後のユダヤ国家がローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤ人は国土を持たない民族として世界各国へ離散する。ユダヤ王国が滅びて1879年後、1948年になってイスラエルが建国されるまで、異郷において、言い尽くせないような迫害をこうむった。いわれのない差別、迫害の数々を受けたのである。ユダヤ人ほど荒波に翻弄されてきた民族は他にいない。
・ 現在全世界に1300万人いると言われているが、世界人口56億の0.2%にしかすぎないそのわずかな人口で、ユダヤ人は世界の歴史を動かしてきた。1901年以来、ノーベル賞受賞者は、経済で65%、医学で23%、物理で22%、化学で11%、文学で7%を占める。ユダヤ人はアメリカの人口の2%。しかも富豪の上位400家族の23%を占め、上位40家族になるとなんとその40%がユダヤ人である。アメリカの大学院におけるユダヤ人の占める割合は、実に29%になる。
・ ユダヤ人はなにも、生まれたときから優秀であるわけではない。それは生まれてから後の「教育」によっている。子どものころから『タルムード』などの教典を何度も繰り返し読み、また聞かされて、教義をしっかりと身につけさせられる。ユダヤ人にとって、教育とは、ユダヤ教の戒律を学ぶことである。この戒律を厳しく守ることが自分を鍛え、どんな困難にも耐えられる不屈の精神を養う。聖典に書かれた考えを自分なりに消化して毎日の生活に役立てるように教え込まれる。
・ 家庭の中にあっては、何をおいてもまず、子どもの教育が最優先である。どれほど金を儲けても、けっして浪費しないのがユダヤ人であるが、こと教育に関しては別で、教育にかける金は、どんなに大金であっても「浪費」とは言わない。
 ユダヤ教の「聖書」とは、キリスト教の「聖書」の前半部分、「旧約聖書」をさす。『タルムード』は、ユダヤ教の聖典である聖書の解釈や律令を、膨大な時間をかけてまとめあげた大著で、国を持たないユダヤ人にとって、聖書とこの『タルムード』が、実質上の祖国となった。ユダヤ人は血によってユダヤ人になるのではない。戒律によってユダヤ人になるのである。
・ アメリカにおけるキリスト教徒のアルコール中毒患者の割合は、5.9%とかなり高い数字であるが、ユダヤ人のそれはわずかに0.03%にしかすぎない。
・ 「私があなたに命じるこれらの言葉を、あなたの心に刻みなさい。そして、あなたの子に、よく教え込みなさい。家に座っているときも、道を歩くときにも、寝るときにも、起きるときにも、これらの言葉を唱えなさい。」
・ 「愚か者は鞭打ちの刑に処せられても、鞭が振り上げられているあいだに、前に打たれた痛みを忘れてしまう。」
・ 昔、ラビの間で、神がアダムが眠っているあいだに、アダムの胸から肋骨を一本取ってイブを創ったことを巡り、論争が行われた。いくら神であっても、人が眠っているときに無断で肋骨を取ったというのは盗みではないか、というのである。すると、一人のラビが「それは神が、盗むという行為の結果がロクなものではないということを人類に示すために、そうしたのだ」と主張した。


4. 『眼からウロコが落ちる本』         笠巻 勝利     PHP

・ カエルを水の入った洗面器のような容器に入れ、下から徐々に熱してやると、しだいに水温が上がってくる。カエルが「オーイ、熱すぎるぞ!」と思った頃には、外へ飛び出すタイミングを失っていて、ゆでられて死んでしまうという。ところが、カエルにとっては生死にかかわる熱いお湯の状態の、40℃前後の中にカエルをポンと放り込むと、カエルは必死になって容器の外へ飛び出して助かるという。これは非常に大切なことを示唆している。たとえば企業の場合でもズルズルと業績が悪化していき、ある日静かに息を引きとるということになる。
・ タバコや酒をやめる人は、ピタッとやめてしまう。ところが、結局やめることのできない人はいつまでもやめられない。私たちが成長することは、つまり自分を変えることである。自分を変える人は、ある日、思いっきり過去の習性を変えてしまう。まさに突然変異なのである。今、自らをとりまく環境条件は大変化している。小変化や中変化ではなく、まさに大変化なのである。生き延びる人間は変化には変化をもって対応していかなければならない。
・ 必要は発明の母である。必要に迫られることが道を開く。どうしてもやらなければならないとなれば、眠っていても考え出す。潜在意識が働きだすようでなければ、本物にはならない。
・ 40歳のその社長は、一念発起して、車の中にテープを持ち込み、30回〜50回は歌ってみることにした。とにかく人の10倍がんばってみようと決意したのである。上手とはいかないにしても、その歌は人並み以上になった。何よりも40年間の壁を乗り越えたことが立派であった。
・ @まず、一日にやらなければならない仕事を全部書き出す。Aつぎに、どうしても今日やらなければならない重要な仕事を選びだす。B最後に、どうしても処理しなければならない仕事を三つにしぼって、それに順位をつけて処理する。こうすることによって、仕事の99%は処理できるはずである。
・ 通常、セールスマンは、第一回の訪問で諦める人が48%、第二回20%、第三回7%、第四回5%と、四回までの訪問で80%の人が諦めてしまう。
・ はじめからダメと思ってかかったら、うまくいかないように、自分でもっていってしまう。自分でダメだと思うと、失敗するように筋肉が動いていく。自分で失敗のタネを蒔き、自分で失敗の刈り入れをすることはない。マイナス回路を作ってはならない。そこからは否定的な結論しか出てこない。これからものごとをうまく運びたいのならば、少なくとも「できない」の否定語は使わないことである。「今度は、イエスと言わせてみせるぞ」、「今度は、必ずしとめてみせるぞ」、「今度は、きっとうまくいく」を使って行くことである。
・ 同じ水でも牛が飲めばこれを乳とし、毒蛇が飲めばこれを毒に変える。同じ会社に入った同期生が、何十年かたつと、一方は重役や社長になり年収は2千万円から数千万円となる。年間収入だけでも1千万円以上の差がついてくる。生涯賃金では1億円以上の差も出る。これは、一方は働く目的を明確にして会社や社会の役に立つ努力をし、一方は自分本位の考えにより、少しでも楽をしようとした結果である。水を乳に変えるのは、結果的には使命感を持ったことになる。なぜならば乳をたくさん出せば多くの人の役に立ち、毒を出せば自分の身は守ることができても人の役に立つことにはなっていないからである。


5. 『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』 R・フルガム 河出書房新社

・ シャルル・ボワイエをご存じだろうか? あの人当たりのいい、小柄で渋い往年の二枚目だ。名だたる銀幕の美女たちはほとんど例外なく、一度や二度は彼と深い仲になった。
 といっても、それはあくまで映画のなかのことで、私生活においては浮いた話はかけらもない。
 シャルル・ボワイエは、妻パトリシアと44年間添いとげたのだ。周囲の親しい友人たちは、二人の仲を生涯かけた大恋愛と評した。結婚後44年経た後も、二人ははためにも羨ましいほど親密な恋人であり、互いのよき伴侶だった。
 ところが、パトリシアは肝臓癌に冒された。
 彼はとうてい妻に話す気になれなかった。それから半年、シャルル・ボワイエは片時もパトリシアのそばをはなれず、彼女を慰め、励まし、献身的な看病に務めた。しかし、彼の誠意をもってしても運命を変えることはできなかった。薬石効なく、パトリシアは彼の腕のなかで息を引き取った。そして、二日後、シャルル・ボワイエは妻のあとを追って自らの手で命を絶った。パトリシアなしに生きていたいとは思わない、パトリシアは「わたしの命だった」と話していたという。
 これは、シャルル・ボワイエの、最後の実話である。
 正直な話、その行動にわたしは強く胸を打たれ、また、不思議に心を洗われる気持ちを覚えた。一見虚飾に満ちたハリウッドの人間模様の蔭にかくも真摯な愛情があったと知って感動し、息の長い二人の愛のかたちに感銘を受けたのだ。
 ごく平凡な日常生活の折りふし、ふと顔を上げて、そこにわたしが妻と呼んでいる、友だちであり人生の伴侶でもある一人の女性を見いだすことがある。その姿を眺めていると、シャルル・ボワイエがあのような行動に出た気持ちがよくわかる。
 人間はそこまで深く愛し合えるのだ。これは本当だ。わたしはそう思っている。
・ わたしが密かにガミー・ランプ(べたべたのかたまり)と名づけているあるものがある。このガミー・ランプは、もともとは靴箱だった。一番上の子がそれに飾りつけをして、わたしに贈ってくれたのだ。その後、下の子供たちが何やかやと記念にくれるたびに、その贈り物をこの箱に入れた。
 靴箱は、やがて、わたしの大事な宝石箱になった。飾りつけといったところでたかが知れている、すっかり色褪せたボール紙の箱である。まわりに得体の知れないものがごてごてと張りつけてある。今は何ともみすぼらしい、見る影もない靴箱である。全体がベージュ色に変化している。
 そんな箱ではあるけれど、蓋を取ってなかを覗けば、わたしが大切にしているわけがわかるはずである。小さくたたまれたまま、年月に黄ばんで折り目からちぎれかけている紙をそっと広げると、それは太い罫線の雑記帳の1ページで、綴りも怪しげな幼い字で「お父さんへ」「ハッピー・ヴァレンタイン」「お父さん大好き」などと書かれている。大きな字で、「お父さん大好き」、と箱の底にはマカロニで作ったXやOの印が23も糊づけされている。わたしはこれを何度数えたかわからない。ここかしこに、3人の子供の名前が書いてある。
 長い長い生涯を通じて、人は高価な、きらびやかな贈り物をたくさん受け取るかもしれない。さまざまな愛も経験するだろう。しかし、心から信じることができるという点でガミー・ランプに勝るものはない。
 子供たちは3人とも成人している。今も父親のわたしを愛していることに変わりはないが、形のある証拠となるとなかなかお目にかかれない。
 この靴箱は戸棚の一番上の棚に置いてある。これはわたしのお守りであり、思い出のよすがである。ときどき棚から降ろしてなかを見る。
 何ともはや、でれでれと親馬鹿丸出しで、とてもつき合いきれないという声が聞こえてくるような気がする。
 わたしが死んだら一緒に埋めてもらいたい。わたしは、どこまでもこれを持って行こうと思っている。
・ 以前、湖の畔(ホトリ)の古い小さな家でしばらく暮らしたことがある。 当時そのあたりはまったくの自然のままだった。
 リスや、ウサギや、ヤマネコや、声はすれども姿は見えぬさまざまな生き物たちが、わたしたちよりもずっと前から我が物顔に棲(ス)みついていて、違法占拠者の既得権を主張していた。
 アライグマもその仲間だった。まるまると太った大きなアライグマが数匹。神ならぬ身の知る由もない何らかの理由とホルモンの働きによって、アライグマどもはきまってわたしの家の床下で交尾した。毎年、春のことである。
 寝ている枕の下で夜中の3時にアライグマが交尾するというのがどんなことか、これは実際に体験してみなくてはとうていわかろうはずがない。震天動地とはまさにこのことだ。控えめに言っても、まずもって形容を絶する凄(スサマ)じさである。春の夜のネコの喧嘩をご存じなら、想像の手がかりがないこともない。あのけたたましさ、激しさを十倍にしたら、何とかそれらしい情景が思い浮かぶことだろう。なまめかしいだの、官能的だのといった話ではない。地震、雷、火事にいちどきに見舞われたようなものである。
 はじめての時のことを、わたしは今でもよく覚えている。眠りを妨げられて、わたしは跳び上がった。嘘ではない。
 懐中電灯を手に、わたしは外に出て床下を覗いた。ひとつがいのアライグマが必死の形相凄く、牙を剥(ム)き、血を流し、泥まみれになって組んずほぐれつしていた。そのありさまは、お世辞にもセクシーとは言えなかった。
 わたしに覗かれようと、懐中電灯で照らされようと、二匹はお構いなしだった。
咆哮(ホウコウ)、嬌声(キョウセイ)、悲鳴、呻吟(シンギン)。鳴物入りで激しい情交は続いた。
が、やがて二匹は絶頂に達し、燃え尽きて体を離した。
 二匹は恍惚(コウコツ)の余韻にとろんとした目つきで床下からのそのそと這い出し、何であれ、アライグマの暮らしのなかで次に控えていることに備えて、毛繕(ケヅクロ)いをした。
 雨のなかにしゃがんで、わたしは考えた。
 人間の愛や人生が、ややもすれば少なからず苦痛や緊張、波瀾を伴うのは、いったい、どうしてなのだろうかと。アライグマはどう思うだろうかと。
・ V.P.メノンはインドがイギリスからの独立を目指していた時代の指導的な政治家であった。13歳で学校を止め、職業を転々とした。志を立ててインド政府に事務官の職を得てから、彼は彗星のように頭角を現した。
 そのメノンについて、彼の没後にその娘が語っている。
 政府に職を求めてデリーにやって来たメノンは、停車場で有り金と身分証明書ごと荷物を盗まれてしまった。このままでは、失意のうちに歩いて国へ帰るしかない。藁(ワラ)をも掴む思いで、行きずりのシーク教徒に事情を話し、身の置きどころが決まるまで当座のまにあわせにと15ルピーの金を無心した。シーク教徒はその金を用立てた。後の返済のためにメノンが住まいを尋ねると、老シーク教徒は、期限は生涯として、見知らぬ困窮者が助けを求めてきたらその者に返すようにとその時言った。このことを、メノンは忘れなかった。
 娘の話によれば、メノンの死の前日、バンガロアの彼の家に一人の乞食が現れて、足にマメができて難儀しているので、新しいサンダルを買う金を恵んでほしいと言った。メノンは娘に、財布から15ルピー出してその男に渡すように言いつけた。それがメノンの意識が確かなうちの最後の行為であった。
 以上の話を、わたしは見ず知らずのある男から聞いた。ボンベイ空港の手荷物一時預かりのカウンターで隣り合わせたインド人である。
 わたしは荷物を受け取りに行ったのだが、あいにくもう手持ちのインド通貨がなかった。早く荷物を受け取らないと次の飛行機に遅れそうで、わたしは気が気でなかった。それを見かねてインド人が料金を立て替えてくれた。アメリカの金で80セントばかりだった。さて、この借りをどうやって返したものかと困り果てているわたしに、その必要はない、と言って彼はメノンのことを話してくれたのである。
 彼の父はかってメノンの部下だった人で、メノンの徳を偲(シノ)んでその喜捨の精神を息子に伝えた。彼は父親の心を継ぎ、いつでも自分が借りているものを行きずりの人に返す気持ちであるという。
 彼の親切は何ものにも代え難い。私は本当に有り難かった。
 これによって、わたしもまた債務を負う身となったのである。
・ 「もう誰も信用できない」という言葉をよく耳にする。医者も、政治家も、商人も・・・。
 ステイーヴン・ブリルという人が、本当に人間は信用できないかどうか、ニューヨーク市内のタクシーの運転手を実験台に調べたことがある。英語が通じない裕福な外国人を装って、運転手がどこまで足下(アシモト)を見るか確かめることを思い立った。友人たちは口をそろえて、タクシーの運転手が彼を何らかの形で食い物にするに違いないと予言した。
 ブリルは、37台の車に乗った。料金をごまかしたのは、そのうちたった1台だけであった。ほかは全部、まっすぐ目的地へ彼を運び、不当な料金を吹っかけることもなかった。何人かの運転手は行く先を聞くと、そこならほんの角一つだからタクシーに乗るまでもないと言い、わざわざ車から降りて、指をさして場所を教えてくれた。何よりも皮肉なのは何人かの運転手が、ニューヨークというところは悪いやつがうようよしているから気をつけたほうがいい、と注意してくれたことである。
 この先も、不正や悪徳を伝える記事が新聞から消えることはないだろう。市民の信頼を裏切って盗みを働く警察官。病気を治しもせずに人から金を巻き上げるばかりの医者。賄賂をとる政治家・・・。
 しかし、報道に惑わされてはいけない。
 そういうことはめったにないからこそニュースなのだ。世間一般で言われているよりも人間は信用できるという証拠がある。実際、人々はそれほど人間不信に陥っているわけではないのだ。最近のギャラップ調査によれば、70%の人がどんな場合も人間は信用できると答えている。
・ 懇意にしているある女性から電話をもらった。陰鬱な真冬の気候のせいで、彼女はすっかり塞(フサ)ぎの虫に取り憑(ツ)かれていた。
「でも」彼女はかすれた声で言った。「あなたは気が滅入るなんてこと、ぜんぜんないでしょう?」
「どういたしまして」わたしは答えた。「しょっちゅう落ち込んでいるよ。どん底まで落ち込んだ時には消防用の機械梯子でも持って来なきゃ這い上がれないくらいだよ」
「そういう時、あなたはどうするの?」彼女は尋ねた。
 わたしの場合、塞ぎの虫の特効薬は信仰でもなければヨガでもない。アルコールでも昼寝でもない。ベートーヴェンである。ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。ベートーヴェンこそはわたしの最後の切り札だ。わたしはベートーヴェンの『第九』のレコードをかけ、ヘッドフォンをしっかり耳にあてがって床に横たわる。天地創造第一日といった雰囲気で曲がはじまる。
 聞きながら、わたしはベートーヴェンのことを考える。苦悩と悲運を知り尽くした人間である。安住の場を捜し求めての模索の生涯であった。愛は実らず、友人たちとはことごとに衝突した。甥の後見人として心労の絶える暇(イトマ)はなかった。ベートーヴェンは弟の息子であるこのできの悪い甥を本当に大事にした。
 48歳の時には、耳は完全に聞こえなくなり、『第九』は、その5年後に書き上げられたものである。
 テインパニーが雷鳴のように轟き渡る頃には、もう寝そべってなどいられない。
 感動の終楽章。やがてこの世の終わりが訪れ、神は万軍の天使を率いて顕現したもう。歓び喜べ!
 舞い立つような歓喜。圧倒的な感動。わたしはすっかり興奮して、身内からもりもりと力が湧いてくる。生きてこそあれ、だ。
 その強靭な精神と言い、高雅な曲想と言い、魂を揺さぶられずにはいられない。
わたしはベートーヴェンの音楽に限りない希望を見出し、強く勇気づけられる。
・ 人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、わたしは全部残らず幼稚園で教わっている。
 レーガン大統領は毎日欠かさず昼寝をする。幼稚園で学んだことをちゃんと忘れずに覚えているのである。
 何でもみんなで分け合うこと。
 ずるいことをしないこと。
 人をぶたないこと。
 使ったものはかならずもとのところに戻すこと。
 おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、離ればなれにならないこと。
 種から芽が出て、根が伸びて、草花が育つこと。
 金魚もハムスターも、二十日鼠も、みんないつかは死んでしまうということ。
 ・・・。


6. 『 ライフマネジメント 』          小林一平   実業之日本社

・ 遺体がかまに入れられ、しばらく待っていると、やがてやけ焦げた白骨となって引き出され、会葬者の手でかわるがわる骨壷に遺骨が納められる。
 私が最も深く考えさせられる場面は、遺体が寝かされたまま、無造作にかまに導入され、それとなくその内部をかいま見た時、さらにかまに遺体が入れられ蓋フタが閉められて、内部でただちにオイルバーナーの火が八方から射出され、ゴーッという音が耳に伝わってきた時である。
 とにかく間違いなく早晩、自分もこのようにして焼かれる運命にある。生あるものは必ず滅びなければならない。しかもわれわれに残された時間は、もうそう長くはない。
 人生をたくましく生き抜く真の勇気は、「火葬場のかま」を凝視し、ここに発想の起点を求めればわいてくるはずである。
・ マホメットは、中年まで平凡で誠実な一市民にすぎなかったが、40歳の頃、預言者として教理を作り布教を初めた。マホメットは、大自然の中に一人立ってさまざまななことを思索したに違いない。天空にきらめく無数の星、広漠とした砂漠、無限に広がる海原など。それらは空間的に、はかり知れないほど大きく、時間的に、絶えることのない永遠の存在である。その大自然に比べて自分一個の存在はどうだろう。それは豆粒よりも微小であり、ごく一瞬の刹那的な有限の存在にすぎないように思われる。自分がこの地上から消滅しても、この大自然は少しも変わらずに残るであろう。自分ばかりではない。すべての人間、その作った文明や形あるもの、生あるものは動物も植物もすべて、必ずやがては消え去ってゆくものである。ではそれで自分は満足すべきか、諦めるべきか。
・ マホメットの強靭な思想の根底には、かなりはっきりとした死生観と勇気ある生き方のための発想があったといえる。そこに強烈な生きる勇気を学びとることができる。真の勇気は人生の「無常感」と、このような「死生観」に根ざして発想することによって不動の力を持つことができる。今に今にと思って、時を過ごすものは、結局、その繰り返しで人生を終ってしまうであろう。
・ 人間には、大きな目的と、それに向かって前進しようとする向上心が絶対に必要である。「人生目的」と言うものは、一生の間にこれさえ達成できれば後は死んでも構わないといったようなものである。
・ 人生目的の五つの条件としては、
 1.自らが終局的に好むもの.
 2.自らの性格に適したもの.
 3.達成の可能性について確信の持てるもの.
 4.なるべく大きく一元的に集約化されたもの.
 5.普遍妥当性のあるもの.
・ 人生目的を持ち得ないまま一生を送る人がいたとすると(こういう人は実際には非常に多いと思われるが)、それは人生最大の不幸といってよい。断片的な幸福はあっても、本当の意味での幸福をつかめないからである。それゆえに、しっかりとした人生目的をそれもなるべく早い時期に確立することが必要である。
・ 目的がいったん設定されたなら、それに向かって一意専心、脇目もふらずに邁進し、決して安易な妥協をしたりしてはならない。失敗しようが挫折しようが、反復して、当面の目的に向かって邁進あるのみである。そこの所の厳しさは肝に銘じる必要がある。
・ 「終りよければ万事よし」とか「人の真価は棺を覆って知る」という諺がある。人生を勝負のゲームとすれば最後に勝ち残った者がやはり勝者である。
 途中、勝ったり負けたりするのはゲームでは当り前のことである。勝負の途中の勝ち負けは、実は勝ち負けではない。中途の失敗は、決して最終的な失敗ではない。むしろ、成功のための礎石作りであり、成功の変形である。
・ これはと思う人物をよく観察してみると、「時間の活用と管理」が実にうまいことに気がつく。英雄といわれるような人たちが一代のうちになした事蹟は非常に多く、後世、誰かが誇張したにしても、一生にあれだけたくさんのことができたというのは、よほど「時間の活用と管理」が上手であったのでなければとうてい考えられないことである。
・ 人間一人ひとりの能力は違うといっても、それはごくわずかの差であって、天才と凡人の能力の間に天と地ほどの隔たりがあるとは思えない。時間を大切にするかしないかで、その人の一生は決してしまうのである。
・ 世間を見渡すと、何と時間の浪費家の多いことだろう。それはあたかも、自分の一生をまるで死を待っているが如くに辛うじて過ごしているかのようである。そして、やがてその生は痕跡すらとどめず消え去ってゆく。
・ 歴史上の英雄、文豪、偉大な芸術家などの後世に名声をはせたような人々をよく観察すると、「自分の信ずる道に向かって強烈に活力を発揮し、それが多くの人々を感動させている」という共通項でくくることができる。
・ 逞しく生きようとするなら、何といってもやる気を出して「活力」を発揮し、「行動する」ことが大切である。しかし、人間は考える動物であるので、やろうかやるまいかと先に考えすぎてしまい、行動力は減殺される。なすべきだ、と思うことをせずに考え込んでしまうぐらいなら、やりたい放題とことんやって、たとえ失敗しても、そこで苦しむ方がましで男らしくてよい。
・ 人間というものは元来弱いものである。どんなに完全に見えても欠点や隙がある。そういう中で底光のする人物には鋼鉄のような強固な何かがある。つきつめて見ると、その何かというのは「しっかりとした信条」があり、それに徹頭徹尾、忠実であるということに尽きるようである。
・ がっちりとした「人生観」なり「処世観」をもち、自ら戒めることはいつの場合でも必要なことである。これを自分なりにまとめて、頭に入れるなり、身につけるなりしてこれを守るように努力するなら、性格の改造も徐々に可能になる。
・ 「自分の信条」を日常の生活の中でたえず守りぬいていくには、信条の中に次の4点が盛り込まれていることが必要である。1. いつもそこに帰れるその精神に帰れる信条であること。2. 今それを守ればよいとされるものであること。3. 観念的ではなく行動の指針であること。4. それ以外の生き方を廃し、それに絶対的に依存する不動の信念であること。ために生じた犠牲にとらわれない事。
・ 不完全な人は、生活が散漫で一貫性がなく、右往左往してふらついており、優柔不断で支離滅裂である。
・ 不満分子は、他人が不完全だと思いたがる。他人に対し独断が悪いなどと非難するが、肝心の自分に独断があることを認めようとしない。この種の人々のいうことに余り耳を傾けるのは考えものである。


7. 『 人間開発 』               加藤秀俊     中公新書

・ 「生きる」の主人公は、都会の区役所に勤める中老の吏員である。毎日同じ時間に出勤して机の上に山積みした書類を、ぼそぼそとひっくり返している。あまり、やるきが無い。この吏員は、身体の具合いが悪い。胃が痛む。だから、よけい無愛想になる。胃の痛みが酷くなる。ついに彼は決心して病院に行く。そして、最悪の宣告を受ける。ガンだったのである。
 あと数カ月の生命しかないことが分かる。しかし、その絶望状態の中で、彼はあとわずかしか残っていない生命の価値を発見する。
 彼は、自分が、本当の意味で生きていなかったのだ、ということに気が付く。人生はもっと素晴らしいものでありえたはずだ、もっと充実した喜びに満ちたものでありえたはずだ。生きていることの楽しさを実感しうるような生活、それが生きるという事なのではないか。残された時間は少ない。少ないけれど、この数カ月を、本当に生きてみよう----彼はそう決心する。
・ 胃の痛みは、ますます激しくなる。しかし、そう決心した時から彼のすさまじい活動が始まる。
 陳情にきた主婦達の訴えを真剣に聞く。ついこの間まで、全然相手にもしなかった児童公園の建設を、主婦達の身になって考える。お役所仕事というのは、いろんな手続きが面倒くさい。下級吏員の一人の力でどうなるものでもない。しかし、この児童公園をどんな事があっても、作り上げようと彼は決意する。まるで人が変わったように、彼は熱心に上役に陳情を取り次ぐ。
 いろんな妨害もある。事なかれ主義の高級吏員はあいまいな態度で彼をあしらう。だが彼は負けない。頑張りに頑張って、とにかく公園建設の決裁を取り付ける。工事が始まると、雨が降っても建設の現場に出かけて進行状態を見守っている。
 ほとんど殺気だったような彼の熱心さで公園は完成した。小雪のばらつく夜、彼は自分の作った児童公園のブランコに腰掛けて、ゆらゆらと揺らしながら、歌を歌う。喜びに満ちた笑顔が蘇る。そして、その喜びに浸って、彼はブランコの上で息を引き取るのである。
・ 果して我々は、本当に生きているのか。
 我々は、今、こうしてここにいる。しかし考えようによっては、ガンの宣告を受けたあの吏員と変わらないのではないか。「生きる」の主人公と青年との間にある違いは、深淵までの距離が数カ月であるのと、数十年であるのとの違いに過ぎないのではないか。
 生きることの意味をいつ発見するかには個人差がある。例の老吏員のように、人生の終わりの数カ月で発見する人もいるし、数十年に渡って生きることの意味を探求し、本当に生きることの出来る人もいる。そして、もしも、生きるということが、生命の充実感を伴った幸福な状態であるとするならば、はやく生きることの意味を発見したほうが、より幸福になることにならないか。
・ 重大なのは、生きる決意をした人間には、驚くべき可能性が開けているという事実である。私達の多くは、その可能性をあまり試したことがない。本当に自分が無力であるのか、或は無力であると思い込んでいるだけなのかを、この辺で検討して見たらどうだろうか。


8. 『 成功哲学 』            ナポレオン・ヒル   産業能率大学出版部

・ 成功への道を切り開いて行こうとする人々のスタートは惨めなものである場合が少なくない。その上、途中では心も張り裂けんばかりの苦難にさいなまれなければならない。だが、彼らが人生の転機をつかむのは、いつも最悪の事態の真っ只中なのである。
・ 不幸には必ずそれと同等の価値が隠されている。後になってみるまでは、その不幸が一体どんな価値を持っているのかは想像もつかないのである。
・ 信念を持つことが大切なのである。まさに、「燃えるばかりの願望」こそ、不可能を可能にする力である。
・ あなたが何を望んでいるのか、それをはっきりと知ること。目標の明確化が最重要事である。強力な動機付けこそ、我々にあらゆる困難を克服して行く力を与えてくれる。
・ 人生の最終目標を一つに絞って、集中的に努力の出来る人間になることが大切である。すべて、目標達成の出発点は「願望」である。小さな火は少しの熱しか出せないのと同じように、小さな願望は、小さな結果しかもたらさない。もしあなたが、忍耐力に欠けていると思うなら、その弱点はあなたの願望に原因がある。目標を達成するまでは、どんな障害にもへこたれないで前進して行く、と言うような人々はわずかしかいない。あなたの能力、あなたの価値を信じること。自信が勇気と忍耐力を支えてくれる。
・ 誰でも、山ほどの「無責任な意見」を持っているものである。他人の意見に惑わされて、信念の無い決断を下してしまうようなら、あなたはどんな仕事をしても成功の見込みはない。他人の意見に左右されるような人は、まだ本当に真剣な願望を持っているとは言えない。あなたはあなた自身の決断に従うべきである。あなたが選んだ協力者以外の人々の意見に、あなたの心を左右されてはならない。
・ マハトマ・ガンジーは信念の驚くべき可能性を心から信じた人であった。その信念の力が2億の民の心を揺り動かして、一人の心のようにまとめ上げたのである。一体、信念以外にこんな離れ技を成し遂げる力が他にあるだろうか。
・ モハメッドが布教を始めたのは40歳を過ぎてからであった。彼は世間から馬鹿にされ、気違いだ、と決めつけられた。子供達にはこずき回され、女達には汚物を投げつけられた。彼は故郷のメッカから追い出され、従者達も身ぐるみはがれて彼と共に砂漠に追放されてしまった。10年間、彼の伝導に対して与えられたものは、追放と貧困と嘲笑だけだったのである。だが、それからもう10年後には、彼は全アラビアの指導者となり、メッカの支配者となって、ドナウ川からピレネー山脈に及ぶ広大な地域に影響力を持つ世界的新宗教の長となったのである。
・ この地上で最も偉大なものは何だろう、神はそれを愛と呼んだ。
・ 男性が偉大になるためには、必ず女性の愛が必要である。性は本質的には肉体的なものかも知れないが、多分に精神的なものでもある。
・ 愛も信念と同じように、人間を変えてしまう力を持っている。偉大な成功者達は、いずれも女性の愛でしっかりと支えられてきた人ばかりである。
・ リンカーンは40才を過ぎるまでは、やること為すことが失敗の連続であった。しかし、アン・ラトリッジに巡り会って経験した愛の刺激によって、自らの才能を発見し、これを活用することが出来たのである。
・ 偉大な指導者達を実際に分析してみて、彼らの成功が必ず女性の励ましによっていた、と言う発見は非常に重要な意味を持っている。
・ 歴史のページは、女性によってそのセックスの願望が刺激され、その結果、創造的想像力が開発されて偉大な指導者となった人々の記録で満ちている。
・ 成功を遂げた人々を2万5千人以上も分析した結果、次の事が分かった。即ち、40歳以前に成功した人はほとんどいないこと。そして、ほとんどの成功者が50歳を過ぎてから自らのペースを発揮していること、である。若い間は、セックス・エネルギーを肉体面以外に、もっと重要なものに転換出来ると言うことが分からない。このことが分かって来るのは、セックス・エネルギーが最も激しい時期を過ぎた40歳から50歳になってからなのである。
・ ヘンリー・フォードも40歳まではその成功の兆しも見えなかった。アンドリュー・カーネギーの努力が実り始めたのも、やはり40歳をかなり過ぎてからの事であった。ジェームス・J・ヒルは40歳の時は、まだ電信のキーを叩いていた。人間は大自然の原理によって、30歳から40歳になると愛と性の感情が調和し始め、それを刺激剤として偉大な力を引き出すことが出来るようになる。
・ この世ではセックスだけが行動への全能の神となる。
・ 偉大な成功をおさめた人々は、すべて強いセックス・エネルギーの持ち主であり、そして、性の衝動を上手に転換する技術を学んだ人々である。莫大な財産を築いた人々や、文学、芸術、産業、建築などの分野で世間に認められるようになった男性達は、すべて、女性の影響によって動機付けられている。この発見は、過去2千年以上にも渡って伝記や歴史を研究して得られたものである。偉大な成功を遂げた人々は、男性によらず、女性によらずその生涯を調べてみると強いセックス・エネルギーを持っていたことが分かっている。
・ 性の衝動は抑えることの出来ない力であり、たとえ身体を縛りつけてしまっても止めることは出来ないものである。この衝動によって駆り立てられる時、人間は超大な行動力を発揮する。去勢されると雄牛でも子羊のようにおとなしくなってしまう。人間であれ動物であれ、性のエネルギーを取り除かれると、全ての闘志を失ってしまう。
・ 性の願望は、人間の願望の中でも最も強力なものである。この願望に駆られる時、人々はふだんには見られないような旺盛な想像力や、勇気や、意志の力や、創造力などを発揮する。
・ 性の願望は余りにも強く激しいものなので、人々は惜しげもなく誇りや生命までも賭けたりするのである。この心を揺り動かす強烈なエネルギーを、もし他の方面に利用することが出来れば、あらゆる事が可能となる。
・ 人間の心は刺激に反応する。この刺激の内で、最も偉大で最も力強いものが性の衝動である。これを利用し、転換する時、この偉大な力は人々を高い思想の世界へ持ち上げ、低い所ではつい巻き込まれてしまいがちなつまらないことや、悩みや、苦痛から人々を解放させてくれる。セックス・エネルギーの肉体的な交わりに対する願望を他の願望に「転換」して行動を起こすとき、初めて天才が生まれる。
・ セックスのエネルギーは、人々を行動に駆り立てる刺激の中でも最も影響力の強いものである。又人間の感情の中でも最も波の高いものである。だからこれを上手に利用して肉体的な満足以外の目的にそのエネルギーを活用しなければならない。セックスは人間の感情の中で最も強いものなので、これを上手に転換して行けば、偉大な成功をおさめることが出来る。
・ 人間の行動のほとんどは、理性よりも感情によって左右されている。人間の魅力であるパーソナリテイを生み出すものは、 セックス・エネルギー以外の何ものでもない。
・ アルコールや麻薬などの人工的な刺激剤を使わなくても、人間の心は大自然の恵みによって、もっと安全に刺激を得られるように創られている。
・ 愛の思い出は永遠に消えるものではない。愛は終わってしまった後もいつまでも人々を導き感化していく。真実の愛を経験した人なら誰でもそれが人の心に永遠の足跡を残して行くことを知っている。なぜなら、愛はもともと精神的なものだからである。もしあなたが失恋をしたという理由で、自分自身を不幸な人間だと思い込んでいるならば、それはとんでもない誤りである。本当に愛することを知った人は、決して、全てを失ってしまうことはない。
・ 愛は機嫌のいい時にやってきて、なんの予告もなしに立ち去っていく。だから、愛がやってきた時には、それを受け入れて楽しむべきであり、愛が去って行くのをいつまでも悲しまないようにすべきなのだ。
・ 愛は一度しかやってこない、と言う考えも捨てるべきである。愛は数限りなくやってきて、そして去って行く。だが、全く同じ影響を与えてくれる愛は二度とは来ないものである。しかし、我々の心に焼きついて忘れられないという愛の経験は、普通、一度だけであろう。過ぎ去った愛を嘆いてはならない。愛とセックスの違いを知っている人なら、嘆いたりはしないはずである。その大きな違いとは、愛は精神的なものであり、セックスは生物学的なものである、ということである。
・ ロマンスとセックスと愛は天才を作り上げる3本の柱である。最も激しい燃えるような愛と言うものは、それがセックスと結び付いたときに経験されるものである。節度のあるセックスと、永遠の愛が結合した結婚で無ければ、幸福にもなれないし、長続きもしないものである。この愛とセックスの結合にロマンスが融合されると、人間の限りある心は無限の知性との間の障壁が取り除かれて、そこに天才が生まれるのである。
・ 「男を奮い起たせる最大の原動力は女性を喜ばしたいという願望である」。どうしてこう言えるかと言うと、男の生涯から女性の存在を取り上げてしまえば、富も地位も名声もほとんど無意味になってしまうからである。
・ 男は他の男達といる時には、不屈の魂に支えられた「巨人」であるが、好きな女性には簡単に操られてしまうものなのである。女性の影響力なしに、如何なる男も幸福になることはできないし、又完全にもなれない。この重要な事実を認識できない男性は、他のどんな力よりも素晴らしい、この成功をかち取るための力を、自らの手で放棄してしまっているのだ。
・ 「生命力」の中にこそ尽きることの無い富の源泉が横たわっている。
・ 「夫を生かすも殺すも妻次第」と言う古い諺があるが、そう言われる原因は明らかにはされていない。
・ 批判を恐れるな。数多くの人々が結婚に失敗していながら、その契約を守り抜こうとして、結果的に自分の一生をあわれな惨めなものにしてしまっている。それは彼らがその間違いを正そうとするとき、必ず出て来る世間の批判を恐れているからである。
・ 配偶者の選び間違いは、人が失敗する一番多い原因である。結婚はあらゆる人間関係の内で、その親密度が最も濃厚である。結婚の失敗は最も惨めであり、不幸であり、絶望的である。
・ 自信と勇気に欠けたリーダーに支配されたいと思う人間は誰もいない。勇気は知識と経験から生まれて来るものである。有能なリーダーとは、勇気を与えることによって部下を指導するような人物の事である。部下達は単独で行動するより、有能なリーダーのもとで行動する方がより能率が上がることを知っている。
 リーダーには尊敬が集まらなければならないが、そのためにも快活であることが重要である。
 決断が出来なくて、いつも迷っているリーダーについて来る人間がいるはずが無い。人を支配する前に自分を支配出来る人間にならなければならない。だが、自分を支配することは必ずしも容易なことではない。もし自分を支配できなければ、自分に征服されてしまう。自らをコントロール出来ない人間に、他人をコントロール出来るはずが無い。また、だらしの無い、不注意な人間はリーダーになれない。
 リーダーに従うことの出来ないものは、ほとんど例外無しに、立派なリーダーになることはできない。賢明なフォロアーだけがそのリーダーから知識やチャンスを授けられる。最も偉大な人間とは、どんな事にでも召使いになれる人物である。
 リーダーとして当然必要なことを余りの忙しさのためにおろそかにするような者は、立派なリーダーにはなれない。
 現代はあらゆる分野で新しいリーダーや新しいタイプのリーダーが求められている時代である。
・ 人間の心はエネルギーである。二つ以上の心が調和の精神で協力し合うとき、この協力者は第3の心となる。二人以上の人間が、調和の精神で一つの目標に向かって協力し合うとき、エネルギーは無限の知性の偉大な万能貯蔵庫から、直接に引き出される。無限の知性は、エネルギーのあらゆる源泉の中でも最も偉大なものである。天才や偉大な指導者達が常に頼りにしてきたのもこの無限の知性であった。
・ どんな分野においても、40歳を過ぎるまでに創造力を最大限に発揮した人は稀にしかいない。普通の人々がその創造力を十分に発揮できるのは40歳から60歳の間である。40歳まではセックスをコントロールすることに気がつかない人が多い。一般に、40歳から50歳が人生で最も実りの多い時期なのである。
・ どんな情報でも、それが繰り返し繰り返し潜在意識に教え込まれると、次第にその人の性格が変化し、ついには完全に人間そのものを変えてしまう。
・ すべて人間と言うものは、その心の奥底で自分が描いているとおりの人間になって行く。反復された思考は、静かに心の中に根を降ろし必ず芽を出して来る。
・ 心で信ずることができるものは必ず手に入れることが出来る。
・ 誰一人として、あなたの代わりに考え、行動を起こし、成功をかち取ってくれる人はいない。
・ あなたを成功させる人は、あなただけなのだ。


9. 『 "異色"創業者の発想 』        田原総一郎    PHP文庫

・ 《高宮行男》‥‥代々木ゼミナール理事長。日本最大の予備校(生徒数2万3千5百人)の創立者であり、校長でもある。
・ 「高校の教師は、内申書を書くという権力を持っているからこそ、教師でございとかっこをつけていられる。お前は悪い生徒だ、と書かれてしまったらおしまいだから生徒は仕方なく言うことを聞く、いや、聞くふりをする。つまらん授業だって、出席しないと悪い点をつけられるので、仕方なく出席する。
 ウチは、内申書もない、卒業証書もない。何の権力も持ってはいない。
 もしも、教師に魅力がなかったら、授業に魅力がなかったら、生徒は絶対にやっては来ない。
 要するに、生徒にとって魅力がある教育が出来るかどうか、が勝負なのであって、その意味では、予備校こそが本物の教育をやっていると言えるのじゃないですか」。
・ 「生徒がどんどん集まって来て、現在のような、日本一の規模(第2位駿河台予備校・生徒数1万5千名)になったのは、何と言っても、やはり教師ですよ。教師の質、そして教え方です。
 自慢話をするようですが、生徒達が、よく言います。
「代ゼミに来て、初めて物理なり数学なりが分かった。もっと早く来ればよかった」、とね。
 生徒からの投書で、何々先生は素晴らしい。「先生」と言う言葉を使うのはもったいない。他に、何か呼び名はないものか、などと書いて来るのもいますよ」
・ 「高校の教師というのは、いいかげんにやっていても、月給も下がらなければ、首にもならない。その上、のんべんだらりとやっていれば、退職金も出るし、恩給も付く。これじゃ、誰だって堕落しますよ。
 ウチは全然違いますね。
 実力と実績主義‥‥。
 要するに自由競争ですよ。
 ある先生の教室は生徒が溢れて、ある先生の教室は、閑散。2学期になり3学期になると生徒が誰もいなくなってしまう、なんて先生は、やはり、お引き取り願う、ということになってしまう。
 ウチは、内申書書く訳じない、卒業証書がある訳じゃない。本当に勉強したくて来る生徒ばかりですから、それは厳しいですよ。
 良い先生の授業は、3日も前から行列ができる。2晩徹夜する訳です。
そうかと思うと、がらがらの所もある。
 ウチの先生方は、こうした厳しい自由競争に勝ち抜いて来て、人気を維持し続けているのだから、普通の学校の先生方とは全然違う。
 勉強だって、3倍も4倍もやっているし、何より真剣勝負だ」。
・ 「収入の額もだいぶ違う。人気のある先生は、総額所得で3千万円にもなる。1千万円以上なら、それこそたくさんいる。
 無論、安い、いわゆるニコヨン教師もいる。
 だから、ウチの先生達は、一般の高校とは無論、他の予備校と比べても、真剣さが全然違う」。


10. 『 人生というゲームの新しい遊び方 』   長谷 章宏    たま出版

・ 私は、人生のある時期から、自分の「内なる声(直感)」を信頼し、「周りの声(今まで学んだ常識)」ではなくて、常に「自分の声」を聞き続けて生きるという生き方に切り替えました。
・ 「自分に正直に生きる」という生き方を自分自身が実際に体験すればするほど、これが「人間にとっての自然な生き方」であることをあらためて実感していくことになりました。
 今までは、「正しい生き方」というものがあると錯覚し、自分のしたいことをせずに、自分を良く見せる、人の期待にそう生き方、「正しい自分」を見せるゲーム、「自分は正しい人なのだ」というフリをするゲームをしてきただけだったのです。それはただ、「自分の評価が下がるのを恐れていただけ」、「人の良い評価が欲しかっただけ」のパフォーマンスに過ぎなかったのです。そこには、「自分のしたい生き方を認めていない自分」、「本当の自分を偽っている自分」がいたのです。「人の期待通りに生きること」が最良の方法なのだと学び、それを演じていただけなのです。それが楽に生きていく方法、それが人生というものなのだ、と信じて、自分が自分を疲れさせているとも知らずに、本来の自分と偽りの自分に分裂して生きてきたのです。
・ 「あなたの人生についての最も偉大な専門家は、あなた自身」です。あなたの人生のすべてを知っているのは、あなたという学者だけです。そのあなたの研究成果だけが、あなたの人生の唯一の指針です。どんなときにも、最後の決定はあなたがするのだということをしっかりと覚えておくことです。
・ あなたの内側の正直な声に従ってすべてを選択してください。「(他がどうあろうと)自分はどうしたいのか」、あなたの選択の基準はこの一つだけです。
 あなたの人生をどうするかは、あなた自身が自由に決められるのです。「常識」も「社会」も「法律」も「宗教」も「親」も「先生」も、あなたの行動は制限できません。あなたが、その人の言う通りにして、したくないけど仕方なくやったとして、その結果、何が起こったとしても、何を感じたとしても、それはあなたの責任です。「言うことを聞いた方が自分のためだ」、「それを受け入れた方が安全だ」と考えて、それを選んだあなたの責任です。
・ 常に、自分の「直感」に答えを聞いてください。どうするかは、あなたの自由に、好きなようにしてください。あなた自身はどう言っているか、その自分自身の声を聞いてください。あなた自身が出した答えが、唯一あなたの結論になります。あなたが自分の「直感」に従って次々に行動を起こしていったとき、最も早く、あなたの欲しいものが手に入るのです。本当に望んでいる人生を生きたいならば、人に文句を言ったり、人を頼ったり、人を気にしたりしている暇はないのだということです。どんな問題も、どう解決していくかということを、様々な情報を参考にして、すべて、あなた自身が決めるのです。
・ 人は、あなたの期待通りの行動はしません。あなたも、人の期待通りの行動はできません。あなたが絶対に信じられるのは自分自身だけなのだということをよく覚えておくことです。あなたのことを、あなたの本当にしたいことを、あなたの人生を、誰よりも一番よく知っているのはあなた自身です。自分の人生については、自分に相談するのが一番なのです。誰かに相談するというのは、あなたの内側の声を、その人の声を通して確認するというだけのことです。その人が何を言おうとも、選ぶのはあなたです。
・ あなたが、誰かの「迷惑だ」を聞き入れて、自分の行動をその人の言う通りに変えると、あなたはその人のシナリオで、その人のプログラムで、その人のために生きていることになります。その時のあなたはあなたではありません。あなたはご丁寧に、サービス精神旺盛に、自分の人生を後回しにして、その人の人生を形にして見せてあげているのです。でも、その人に文句を言っても始まりません。それは、あなたが選んだことなのですから。人の提案やゲームに乗る必要はないのです。あなたはあなた自身の人生を生きればよいのです。
・ あなたを含めて、すべての人の発言は「私は○○と思う」、「私は○○に見える」ということに過ぎません。それはその本人だけに使えるルールであって、あなたがそれを鵜呑みにすることもありませんし、誰かに押しつけることもできません。あなたの意見にどんなにたくさんの人が同意していようと、それが正しいわけではないのです。そして、あなたの意見にどんなにたくさんの人が反対していようと、それが間違っているわけでもないのです。周りの声は「自分勝手」です。すべて「私は○○だと思う」と言っているだけです。
・ あなたが気にしている周りの反応というのは、単に、あなたが気になっているだけのことです。あなたが心配している「失敗」というのは、他の人が期待している「成功」以外の形を創り出すことです。周りの反応というのは、あなた以外の人が、自分の感じる感情を、勝手にあなたの責任にしているだけのことで、あなたが気にする必要はないのです。その人は、あなたが自分の得にならないと思えば、あなたから離れて行くだけです。いつまでもあなたに文句を言い続けている暇もありません。人にはそれぞれの人生があるのです。人が何と言おうと関係ありません。「人の反応を気にするドラマ」、「人の反応を期待するドラマ」は、あなたの失望を創り出すだけです。
・ あなたが何をしようと、人が何を言おうと、すべてお互いに自分の責任です。人がどう感じるか、ということにあなたは責任を負う必要はないのです。そして、あなたが感じることも自分の責任なのです。自分の感情と行動に責任を取っているならば、人に干渉することは一切ありません。つまり、自分で責任をとれば、あなたは何でも自由にできるのです。あなたの人生で、あなたが何をするかは、あなたの自由です。あなたがしたことは、すべてあなたの責任としてあなたのところに戻ってくるだけです。
・ 「責任追及を逃れようというゲーム」、「自分に安全を保障しようとするゲーム」をやめることです。「人の承認、評価をもらおうとするゲーム」をやめることです。自分に正直に、自分の声に従って生きてください。人はあなたの人生に責任はとれません。
・ すべての考え方は、言わば「宗教」です。この世界には、人間の数だけ「宗教」があるのです。それぞれがそれぞれの「宗教」でお芝居を楽しんでいるのです。お互いが楽しいゲームを創り出すためには、「自分の『宗教』を人に押しつけないこと」、そして「人の『宗教』を無条件に受け入れないこと」が、とても大切なルールになります。人生というのは、本来、誰が何と言おうと、すべて、あなたの自由な意志で決めてよいものなのです。あなたの人生の鍵を握っているのはあなた自身です。


11. 『 マインド・コントロールの恐怖 』    スティーヴン・ハッサン   恒友出版

・ 私はその前、24時間営業のコンビニエンス・ストアーで 徹夜の資金集めをしていた。2日間一睡もしておらず、しかも一人で運転していた。いまでは滑稽に思えるけれども、私は悪霊が私を取り囲み、私の中へ侵入して私にとり憑こうとしていると本当に信じていた。これもすべて、マインド・コントロールによる教え込みの一部だった。私の注意力が揺らげば、私はやられてしまう。このような恐怖症のおかげで、私やほかのメンバーは文鮮明に頼る従順な信者でありつづけたのだった。ブレーキを踏んだが遅すぎた。バンはつぶれ、私は挟まれ、ひどい痛みを覚え、身動きできなくなった。
・ この事故は、私に対する文鮮明の支配を、いくつかの仕方で壊しはじめた。第一に、睡眠と食事と休息をとることができた。第二に、とうとう家族と会うことになった。第三に、信仰を絶えず強化される状態から離れた。第四に、両親が私を脱洗脳しようと決心した。第五に、ギブスをはめられたため、たかうことも逃げることもできなかったのである。
・ 私は完全に洗脳されていたので、この脱洗脳チームはサタンが直接つかわしたのだとすぐにわかった。恐怖の中で、彼らの顔が悪霊に見えた。だから、彼らが温かく優しいことがわかったときにはとても驚いた。リーダーたちから脱洗脳のことはみな聞いていた。神への信仰をサタンが砕くのを許してなるものか。その時点では、私はまだ、彼らが自分を崩すことなど決してできないという自信があった。逃げるチャンスもまだあるだろう。それで、私は父を殺さないことにした。むちゃくちゃなことを言って父を脅かした。父は運転席から振り向いて泣きだした。そして親の気持ちを真剣に訴えた。この人たちと話し合ってくれ、5日間でいい。私は統一原理をそらんじていた。何を恐れる必要があるか。それに私は、自分が洗脳されているのではないことを両親にきっぱりと証明してやることができると確信していた。
・ 脱洗脳の働きかけには祈りや唱えごとで対抗し、また否認と理屈づけと正当化と願望的思考の巧妙なバリケードをきずいた。元メンバーたちは、精神医学者R.J.リフトンの「思想改造と全体主義の心理」を持ち出してきて、共産主義の中国が1950年代に囚人たちを洗脳するのに使ったテクニックと操作のことを話した。「理想世界を作るのに、神がサタンと同じ戦術を使わなければならないのか」という疑問が湧いてきた。「文鮮明がヒトラーに似ていたってかまいません。僕は彼に従うことを選んだんだし..」自分がそう言うのを聞いたとき、不気味な寒気が背筋を走った。元メンバーだった3人が自分は文鮮明に洗脳されていたと、かわるがわる話している。私は長いこと泣いた。
・ 心とは、生存のために作られた、信じられないほど精巧なコンピューターだと言われている。心が環境およびその人の必要に対して創造的に適応し反応する能力は、驚くべきものである。私たちにはある程度まで意識的なコントロールがあるけれども、それよりずっと多くのことが無意識によってコントロールされている。無意識こそ、情報の第一のコントローラーであるということである。
・ 洗脳されている本人に影響力を与え、脱洗脳することを可能にするための最も強力な手段、それは本人との間の「親密な関係」である。マインド・コントロールを解く第一の鍵は、親密な人間関係をきずくことなのである。


12. 『改修中學教育修身教科書巻一』 東京高師教授 吉田静致著  東京寶文館

・ [勅語] 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰するに足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕汝臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日 御名御爾
・ 本書は之を五巻に分つ巻一より順次各學年に配當するものとす巻一より巻三までは教育に関する勅語と實践道徳とを説きて専ら道義的情意の養成を旨とし巻四には家國に對する道徳並に戊申詔書を述べ巻五には社會道徳及び國民道徳の由来特質を叙せり
・ 第一課 幸福なる御代 すゑの世のすゑの末まで我國はよろづの國にすぐれたる國 我等はこの優れたる日本國に生れ、 而も勢のさかんなること古今に稀なる明治大正の御代にあふ。まことに幸のきはみと云ふ可し。 ・・・
・ 第二課 我等の學校 
・ 第三課 師弟の間柄 人は、 始め、 その教育を父兄より受くるが常なり。されど・・・ 教育の大部分を教師の手に託するに至れり。學校私塾等はこのために生ぜるなり。されば、 教師は父兄の代理者なり。父兄に代りて子弟の教育に當り、 立派なる人たらしむるを以てその天職とはするなり。教師の生命とする所も自ら亦ここにあり。生徒は我子なり我弟なり、 「行よく修まれりや」「學科はよく理解するか」「病氣にはかゝらずや」。これその日々に憂ふる所なり。「言語明瞭なれり」「身の丈すらすらと伸びたり」「虚言せぬ様になれり」「勇氣が生じたり」「順良になれり」。これその喜ぶ所なり。實に教師たるものの一喜一憂は、 悉く生徒の身の上にあり。教師の職は変化にも乏しく、 赫々(カクカク)たる功名も立て難けれど、 教師はよくその業に力めて終日倦むことなし。我身の陋巷に老ゆるも知らず、 専ら生徒の為につくし、 其幸福を以て己れの幸福とし、 其前途を己れの前途とし、 風の夕雨の晨も、 かってこれを念頭より離すことなし。教師の一言一行は、 みな我等生徒を思ふの親切より出づるなり。されば、 我等は教師の言動に對するに、 徹頭徹尾好意を以て對せざる可からず。時としては夏日の如く鞭撻はげしきこともあらん。或は秋霜の如く呵責きびしきこともあらん。されど、これ皆我等を鍛へ我等を錬りて善に就かしめんとする熱心の余りに出づるなり。此理を悟りても、 尚教師の言に従はず不平を洩らすが如きものあらば、 そは弟子の情に背けるものぞ。・・・教師が如何に我を愛し我を近づけ給ふとも、 常に尊敬の念を失ふこと勿れ。 又教師が如何に厳格にして凛然(リンゼン)たらるゝも、 徒に之を恐れてその温情を忘るゝこと勿れ。従順に教を守りて學業も励めよ。かくの如く師は愛し弟は順ひてこそ、 美しき師弟の間柄とはいふべけれ。
・ 第四課 蛍雪の功 
・ 第五課 規律 ・・・ 諸子は、 嘗て帝国軍艦の内部を見たる事ありや。非常に手狭なる多くの室々も、 秩序正しく整頓せられて、 一絲乱れず一塵をも止めざるは、 見るものの驚嘆して止まざる所なり。士官兵卒等は此中に生活して少しも窮屈に思ふことなく、 不都合を感ずることなく、 頗る愉快に日を送り居るなり。
蓋し艦内生活の如きは、 その必要上、 厳重の上にも厳重に規律を保てるものにして、 普通の家屋住居に取りては応用し難き点もなきにあらねど、 その精神を學び、まづ一身の起居勉學休息運動より始めて、 部屋の内外其他の事にも充分に規律をたて、 やがては之を習慣たらしむるやう勉む可きなり。・・・
・ 第六課 健全なる心身 凡そ老若と男女とを問はずこの世に最も願はしきものは何ぞと問はゞ、 恐らくは十人が十人まで声を同じうして答へん「そは身體の健全なり」と。然り、 身體の健康は實に我等が幸福の源なり延いては美徳善行の基となるものなり。されど、 尚有體にいはしむれば、 精神の健全こそ更に望ましきものならずや。健全なる知識健全なる道徳健全なる文明は、 何れもこの健全なる精神より生れ出づるものなり。かの心ゆがみて妄(ミダリ)に他人と衝突し、 思慮足らずして事々に失敗し、 或は意思弱くして不正を改めて善に向ふ能はざる人は、皆精神の不健全なるものにして、 幸福に縁遠きを免かれず。・・・心身は相関のものなれば、 身体健全にしてよく肥満すとも、 不善の快楽を追ひ不正の欲望を遂げ、 道徳上の罪人とならば、 常に良心に責められて、 宛も針の筵に坐するが如く、折角の身體も衰弱するに至るべし。故に、 如何なる行動も良心の命令に背くことなく、 悪を避け善に就きて内心の満足をはからば、 心廣く體胖(ユタカ)かに、千苦来たり犯すとも驚かず、 萬難併せ至るとも怖るゝ所無かるべし。孟子が「浩然の氣を養ふ」といひしも、 この精神健全法を指せるに過ぎざるなり。
・ 第七課 我家我郷  
・ 第八課 親子の間柄 ・・・ 白金も黄金も玉もなにせんにまされる寶子に如かめやも これぞ天下の父母たるものゝ心なり。されば、 「身體髪膚これを父母に受く敢て毀(ソコナ)ひ傷(ヤブ)らざるは孝の始なり。身を立て道を行ひ名を後世にあげ以て父母を顕すは孝の終なり」と孝經にいへるは、 誠によく情を尽せりと言ひつべし。子たる者、 ゆめ、 これを忘るゝこと勿れ。
・ 第九課 墓参  
・ 第十課 五本の指 ・・・要するに、 兄弟はもと同根より生じ、 家の存続発展の為に尽す可きものなれば、 家を継ぐものと継がざるものとに論なく、 内は和合して父母に仕へ、 外は他人に對して其悔を禦(フセ)ぎ、 家門の繁栄を図り、 家名を世に高めんことを期せざる可からず。昔毛利元就其死に臨み、 ・・・ 
・ 第十一課 隣近所
・ 第十二課 世は情
・ 第十三課 言葉遣ひ
・ 第十四課 起居振舞
・ 第十五課 国旗  我國は、 豊栄(トヨサカ)のぼる日の本にして、 天照大神を皇祖と仰ぎ、 世々の日嗣は大神の御裔にして洪徳を天日と等しくし給ふ。この天日を象(カタチド)り洪徳を寓するものは我日章旗にして、 その向ふ所、 威はよく草木を風靡し、 萬邦に光被す。・・・
・ 第十六課 君恩  ・・・我國は萬世一系の天皇之を統治し給ふことなれば、・ 第十七課 教育に関する勅語其一  第十八課 教育に関する勅語其二 
  第十九課 教育に関する勅語其三  第二十課 教育に関する勅語其四


13. 『 ドタンバの神頼み 』         サトウサンペイ    光文社

・ 私は4つか、5つぐらいのころから、母に連れられてよく教会に行った。
 母がそうしてたびたび連れていってくれたおかげで、私は中学生ぐらいになると、試験の前の日には、何の抵抗もなく一人で教会へ行って、「神さま、あしたの試験、どうかよい点とれますように」と頼んでくるようになった。すると、不思議なことに、日ごろ勉強していなかったのに、前の晩やったところが出たりした経験がある。
 それから何十年たっても、「神さま、どうか面白いマンガが、あまり時間をかけないでサッサッとできますように」とか、あいかわらず、繰り返している。
 ドタンバの神頼みである。
・ 小学生のころ、朝、学校へ行く支度をしているとき、「お母さーん、色えんぴつどこへやったのー!」 とお母さんの助けを求めて大声を張り上げる。
 すると、不思議なことに、たいてい見つかるのである。「アッ、あった」。
目の前の本とノートの間に、はじっこがのぞいていたりしているのが見つかる。
 あれは「お母さーん」と叫んだとたん、イライラや不安や心配をお母さんのほうに預けることができ、今まで立ちこめていた白い霧が晴れて、目の前がハッキリ見えたのではなかろうか。
 だれでも子どものころは、お母さんを絶対に信頼している。
「お母さんに聞けば、なんでもわかる。お母さんに頼めばなんでもしてくれる」。
身も心もお母さんにまかせることができた。
 ところが、こっちが大きくなってくると、だんだん "母なる人" はそれほどでもないことがわかってくる。
・ もし、お母さんの代わりに "絶対に信じられるもの" があったとしたらどうだろう。
 それをもし、神さまと思ってみたらどうであろうか。
 神さまは姿も形もないから、初めはなかなか信じられないけれど、もし、ナニカのひょうしに信じられたら・・・。
 そのときは、心配や不安を神さまのほうへぜーんぶ預けることができて、目の前が晴れて、なんでもよく見えるようになるのではなかろうか。
・ 学生のころ、ときどき、大阪に帰ると、「金もないし、ヒマつぶしにちょうどいいやと」と思って、昔、母によく連れて行かれた中之島近くのT教会を思い出して出かけた。
 そのころちょうど、私の母の信心友だちが、よく娘さんを連れてお参りにきていた。20歳ぐらいの目のクリッとした可愛い子で、それからは、その娘に会えるかもしれないと、はるばる京都からその教会へ月に2、3回は行くようになった。
 結局、その子とは映画を見たり、お茶を飲んだりしたことが1、2度あったきりだったが。その代わり、教会で先生の話を何度も聞くハメになってしまった。
・ 難波近くの下宿に変わって、私はまた「ヒマつぶしにちょうどいいや」と思って、N教会の夜の部に参加してみた。するとこの教会にもまたまた、お母さんに連れてこられた21、2歳のチャーミングな娘さんが座っていたのである。 お祈りのためにうつむくと、長い髪の毛がパラリと垂れる。それを片手でかきあげながら、切れ長の目で1、2回こちらを見てくれた。ただそれだけのことである。ただそれだけで「今夜はどうしたのか?来ないのか?」などと、1年間、教会に通うことになった。雨の降る日も、雪の日も。
 そうしてまた毎晩、先生から信心の話を聞かされて、子どものころとは違った角度で、だんだん神さまを信じていくようになっていった。
 どうも神さまは私を引き寄せようとされて、女の子をエサにまいてくださったようである。神さまは私のようなものを助けるためには、どんなエサが一番好物かをよくご存じだった。
・ 学校を出て就職し、サラリーマンを7年間やった。
 周りは飲んべえばかりだった。はじめのうちは、会社からの帰りに、N教会にチョコチョコ寄っていたけれど、だんだん酒が強くなり、バーを何軒もハシゴするようになり、教会から遠ざかるようになっていった。
 入社して2年目ぐらい、22、3歳のころであったが、大阪のある夕刊新聞に4コマの連載マンガを描くチャンスを与えられた。はじめのうちはマンガ家になる気はぜんぜんなかったが、4、5年たつと、だんだんと本気になり、マンガ家になりたくて、しょうがなくなった。
 でも、マンガ家になったら、原稿料だけである。食っていけるか、どうか? 最後の1年間ぐらいは、迷い続けていた。
 そのころのある日、会社を終わって、梅田新道で珍しくたった一人でビールを飲んだあと、チャプリンの「ライムライト」を見る機会があった。
 バレリーナが、足が動かなくなって傷心の末、アパートの部屋でガス自殺をはかる。それをチャプリンが助け出し、励まし、ついには彼女が一流のプリマドンナになるというお話である。
 私は涙がポロポロ流れてしかたがなかった。その映画の中で、チャプリンの「勇気と希望とサム・マネー(わずかなお金)があれば生きていける」と言った言葉が耳に残った。「そうか、サム・マネーでいいのか」と、そう思ったとき、「勇気」が湧いてきた。
 神さまは、そのころは、若い私には難しすぎると思われて、私の足を教会に向けないで、映画館のほうに向けて下さったのであろう。28歳のとき、私は会社を辞め、マンガ家の道へ進むことになった。
・ 「元旦は明治神宮、受験のときは天神さま、結婚式はキリスト教の教会、お宮参りは近所の氏神さま、交通安全のお守りは成田のお不動さん、42の厄除けはお大師さん、商売を始めるときは、戎(エビス)さんにお参り、お葬式はお寺さん」 こういう人が日本人にはけっこう多い。
 それぞれの宗教をひとつに絞って、熱心に信仰を続けていれば、教えも受けられて心も改まり、おかげも受けられると思うのであるが、年に何回もアッチコッチ回っていては、たぶん、それほどの "ご利益" は受けられないのではなかろうか。
 人にものを頼むときでも、アッチコッチに頼んで回ったら、「まあ、だれかがナントカしてやるだろう」と、そう真剣には取り合ってくれない。
 神さまや仏さまも、恋人と同じように1人と決めて、「アナタ1人しかいないの。アナタ1人が頼りなの。お願い」と迫ってゆくほうがキキメがあるように思うのだが。
・ 私が信仰しているところの教祖さまは、『女は神に近い』と、おっしゃっている。
 「女の信心が、神さまのお楽しみ、お喜びである。妊娠のとき、こころを改めて磨き、真心のこもった赤ん坊を産んで養育し、日々、命の元の食べ物を大切に取りあつかう。この注意、不注意によって、病気の起こることもあり、病気を除くこともできる。
 子どもの間は、母親が子どもの真心を作るのである。また、洗濯をして衣服をきれいにするのも子どもの健康のためである。この役目を油断なく、注意しながら行うのを見て、神さまは楽しみ、喜ばれる。これは母親の大きな責任でもある」と言われる。
 すべての産物は大地から生まれるが、この産物を生み育てる"神さまのお働き"と、真心のこもった赤ちゃんを生み育てる "母親の体と心" とは、似通ったところがある。そういうことから、『女は神に近い』と、言われるのであろう。
・ 「赤ちゃんはどうしたらつくれるか?」は、みんなよーく知っているけれど、「赤ちゃんはどうしたら出来上がるのか?」となると、お医者さまだってよく分からない。
 「赤ちゃんが生まれると、どうしてお母さんからお乳が出て、赤ちゃんが大きくなると、どうして自動的にお乳が止まるのか?」
 こんな当たり前のことでもみんなよく分からない。
・ 栄養学者の故川島四郎先生がこんなことを言われた。「母乳はね、乳首のすぐ下に少したまるだけで、赤ちゃんが2口、3口吸うと、なくなります。
 すると、周りの赤い血が、すぐに白いお乳に変わるんですよ。また吸ってなくなると、また周りのお母さんの血がお乳になるんです。
 だから昔、チが重なってチチと呼んだのですね。
 人間でも血液からお乳を作れますが、丸ビルぐらいの大きさの設備と、長い時間がかかります。とても、あんなにインスタントにはお乳は作れません。
 科学者の私が言ってはいけませんが、やっぱり神さまはいらっしゃるのです」。
・ たかだかお月さまの上を歩いただけで、人類が宇宙にチャレンジしたなんて言い方ははおこがましいのではないか。真理を探究し尽くした立派な科学者ほど、自然の偉大さや、神秘の深淵に、常に謙虚であるように思える。
・ 高原や海辺で、夜空を見上げて無数の星を眺めているときに感じるあの神秘的な感動・・。
 私は宇宙を想像するとき、どうしても科学よりも神を信じてしまう。
・ アメリカの宇宙飛行士たちが、水蒸気たなびく青い地球を眺めたとき、間近にクレーターの並ぶ月を眺めたとき、宇宙に無数の球型が浮かんでいるのを眺めたとき、神を感じないものは一人もいなかったという。
 彼らは帰還すると、ほとんどが熱心に信仰し始めたり、牧師さんになったりしている。
 「天女になった気分」と向井千秋さんも言っている。
・ 私は思うには、地球の上にときどき、非常に人を思う情が強く、しかもすぐれて知的で、しかも幼いときから神仏に敬虔な人が現れる。
 そういう人を宇宙にただ1つの神がご覧になると、稲妻のようなものがピカピカーと走り、その人にガシャーンと当たるんじゃないか。
・ 私が信仰している教祖さまのことを始めて聞いたのは、小学校の高学年だったと思う。
 教祖さまは、お父さんが信心深い人で、子どものころの教祖さまを背中におんぶして、あっちこっちのお宮やお寺にお詣りしておられたそうで、そういう育ち方だから、教祖さまも子どものころから "信心がいちばんの楽しみ" だった。
 "ラジコン" や "ファミコン" が楽しみじゃなかった。
 この人に次から次へと神さまはテストをされた。教祖さまは、神さまのお指図には何事にも「ハイ」と素直にお答えになり、実行された。とても普通の人にはできそうもない、あられもない行(ギョウ)を、生活の全面にわたって神のお指図そのままに受けていかれた。
 神さまを信じて、1から10まで神さまのお指図どうりに、 "お試し" を受け切ることの出来る人が果たして何人いるだろうか。
 それを "百点満点" でパスした人でなければ、超能力はたんに人をびっくりさせるだけの道具に過ぎず、人を助ける道具にはならないと思う。
 私なんかにもし千里眼があれば、たちまち女子学生寮、女子ロッカールーム、女湯などが次つぎと現れ、ホクロの場所まで言い当てて、相手をびっくりさせ、ケイベツされるのが落ちであろう。そういう人間には神さまは間違っても超能力を与えて下さらない。
 「今まで何百人もの人間を試してきたが、お前ほど実意ていねいに神を信心したものはいなかった。お前によってここに天地の神が現れることができ、大勢の人々が助かる道が開けた。天地の神からも、そのほうに礼を言いたい。これから先、死んだと思って欲を放して、世界中の難儀な目に会っている人びとを助けてやってほしい」、このように教祖さまは、神さまから言われたに違いない。
・ どの宗教もだいたいこういう具合にして教祖が生まれ、こういう具合に神さまがお現れになるのではないかと思っている。
 あるときはイスラエルの荒野に、あるときはインドの密林に、あるときは中国の山奥に、あるときはアラブの砂漠に、あるときは高千穂の峰に、あるときは岡山の農村に……。
 民族や風土や言葉の違い、教祖さまのご気性などで、宗教の内容が少しずつ違ってくるとは思います。
 また、歴史がたつと、次つぎにそれを伝えていくお弟子さんたちの性格や、勉強の程度でも、宗教の内容や教え方が変わっていくかもしれません。
 が、いずれにしても、神さまはこの天地宇宙にただ一つであることは、間違いないと私は信じています。
・ 神さまというのは、"天地宇宙のすべての働きを司っていらっしゃる神さま"のことである。
 「天にまします父なる神」という言葉は外国にもあるのだが、「地にまします母なる神」という言葉はあまり聞いたことがない。両方とも大切だ、というのがウチの宗教である。ウチの神さまは、「どの宗旨もけなすことはない。みな天地の神の子である。道ばたの地蔵さまでも、ありがたく思って礼拝するがよい」と言われ、おおらかである。
・ この本は『女性自身』に毎週1ページ、1年間連載した「絵ッセイ・ドタンバの神頼み」をまとめたものである。


14. 『 宗教集団に学ぶ企業戦略 』       小田 実    はまの出版

・ 「回心」というのは、それまで精神的に低い段階にあった魂が、神秘の世界に目覚めるということで、一種の生れ変りのことである。
・ 「二度生まれ型の回心」というのは、突破的受動的になされる回心のことである。一人のごく個人的なレベルの「回心」が宗教的な出発点となることもある。
・ 宗教が誕生したあとは、教祖のまわりに何人かの信者が集まり、その信者たちが非常に強固な信念を持った集団を形成する。
 教祖は多くの場合、神秘家あるいは半ば病的な人物であったりする。
・ 宗教は最初のうちは非常にローカルなものである。それが大きくなっていくのは、教祖自身に天性にも似た魅力があるからである。他の人々をひきつける魅力が大きな宗教集団がつくられるには不可欠である。教祖に魅力がないと周りに信者集団ができない。
・ 初期の段階で教祖のまわりに集まってくる人たちの多くは、格別の悩みを持ち、社会に対しては違和感を持っている人たちである。また、社会一般の尺度で見れば、少し変わった人たちであることが多い。それが拡大していくにつれ、信者の数が増え、しだいと信者の中の正常な人の割合が多くなっていく。
・ ケンカに勝つということも大事で、勝っていくことによって、'うちの大将についていけば間違いない'という信者が内部に生まれてくる。
・ すべて大きくなった宗教集団の教祖は、例外なく女性も顔負けのやさしさを持っている。しかも、非常に強い男性的な側面を持ち合わせている。
・ 釈迦は、自分の名前さえ忘れる周梨槃特を立派な聖者に仕立て上げた。
・ 今の若者たちは自己愛人間、つまり他人を愛することを知らず、自分が愛されることだけを求める人間が多くなっている。自分を預けて献身しようということが少なくなっている。これは、父親の人間像が希薄になり、父親との同一化がなされていない人間が多くなったということを意味している。
・ 人が成長していく過程では、力強い父親像、自分が同一化できるような理想的な父親像が必要である。若者はそれに向かって自分を同一化させていく。
・ 「ほっといて・かまって症候群」と言われる今の若者たちも、人気ロックグループやビートたけしさんのキャラクター、旧イエローマジックオーケストラの坂本龍一さんなどの芸能人を「教祖」のようにあがめる傾向がある。若者たちは何かと同一化したいのである。
・ 日本の財界人の一人、土光敏夫さんなどは、宗教的と言ってもいいほどに、同一化の対象になった人であった。
・ 社員にうちの大将のやることは間違いないと思わせること。この人についていけば間違いがない、約束の地に導いてくれるというようなニュアンスを与えることが大切である。
・ 戦後、裸一貫からスタートして、一代で上場企業を築き上げた経営者に共通するのは、誰もが宗教集団の教祖と同じ特性をそなえていたということである。今や宗教集団の発想は、企業戦略立案の際に無視することができないものとなりつつある。 
・ 3E、エキサイトメント、エンジョイメント、そしてエンタテインメントを提供しないと若者はついてこない。企業はそういう対象にもなる必要がある。


15. 『 死んだつもりで 』        菅原 義道         日新報道

・ 究極的には、孤独に耐えることが偉業を成し遂げることの必須条件である。しかし、それにはそれなりの信念と哲学がいる。
・ 人間、毎日毎日、何かに打ち込んで真剣に修行していると、ある時ふと、底が抜けたように道が開けてくることがある。
・ 人間は誰でも、楽をしたいと願っている。だから放っておくと、すぐだれる。人間は、怠惰に走っていたら、どこまでもだらしなくなっていく。だらしなくなっていくことにより、自分の命を宿めてまで五欲煩悩のとりこになっていく。燃えてくる煩悩をじっと親指で押しおさえて、「炎天下を悠々行く禅坊主」のような心境こそ尊い。
・ 恋に命をかけるのも一つの生き方であるから、私は決してそれを否定しない。やはり自分で自分のことを決めねばならない。自分の気がすむように、自分の心が晴れるように、自分のしたいようにするほかない。自分の生きたいように生きる、それができれば幸せである。
・ 煩悩即菩提で、あやなせる煩悩をほどよく調和して生きていくところに悟りがある。血の通った人間同士の生命の交流の中にこそ人生の素晴らしさがある。
・ あれをしてはいけない、これをしてはいけない、と毎日おっかなびっくり、小心翼々として必死で守ろうとするのが戒律なのだろうか。はたして人間的なことなのだろうか。あの大徳寺の一休禅師は酒を飲み、肉を食い、性の自由を享受してはばからず、悪罵毒舌をほしいままにして、一生を終えている。彼は一生懸命戒律を守る僧を偽善僧ときめつけ、あざ笑っている。そんなに無理矢理本能的なものを抑えずして、自然界を見よ、春になれば美しい花が咲いているではないか。一休は、戒律を否定している。戒を破れ、と言っている。戒律に束縛しとらわれているようでは、ロバになってしまうという。これを超越し、乗り越えねばならない。
・ ただあなたの心次第である。あなたが幸福だと思えば、それでいいのである。
人間の価値判断は、決して他人がするものではない。あなた自身で決定するものである。自分の行くべき道は自分で決めることのできる、強い男になりなさい。
・ 人間はやはり、一度は死んでみるものである。そうすれば度胸がつくものだ。
人間が本当に頭を下げるものがあるとすれば、それは「死」だけである。あとは”彼も人なり、我も人なり”、なんら恐れるものはこの世にない。
・ なんの修行にしても同じである。体力の限界のギリギリまでいったとき、涙が出てくるものである。体力の限界のギリギリまで努力してみることだ。そうしてこそはじめて、道は開けてくる。
・ 道が開けないというのは、努力をしていないからである。できないことの言い訳を考えているからである。
・ 釈迦の最後の言葉は、「依頼心を捨てて、自らを灯明とせよ」、であった。人に頼ることなく、自分に頼ればいい。結局、人生とは自分が自分を生かすことである。
・ ものは考えよう、という言葉があるが、どんなつらい環境にあっても、常に積極的な見方で物事に対処していく。心の持ち方で、そこを楽園に転ずることも可能である。自分の心が世界をつくっているのである。


16. 『 臨終の視点で生きてみなさ 』       藤原 東演    大和出版

・ 大いなる心の転換が起こったのである。大喀血後、四十五日目の真夜中のことである。この時胸に手を当てていた私は、手の下に心臓が、コトコトと規則正しい運動をつづけているのに、ふと気づいたのである。この心臓の鼓動にじっと耳をかたむけていた時、私の心には、今まで経験したことのない、異様な感動が浮かんできた。『やはり俺は生かされているのだ!』という感情である。生かされているという、この最も平凡な、そして当たり前の事実を、私はこの時今更のように、不思議ないきいきとした響きをもって、感じたのである。今まで自分だけの力で生きていると思っていた私は、実は小自力を越えた大他力に生かされていることに、ふと気づいたのである。この私を生かそう生かそうとして努めてやまない、不思議な力の存在することを感じたのである。片時の憩いもなく、働き給う、不思議な大きいみ力を、自分自身のうちにいきいきと感じてきたのである。その瞬間、ある厳粛な気持ちが、私の全心身を支配していたのである。大自然は私を、大慈悲の中に抱き取って生かしはぐくんでやまないのである。
・ いつまでたっても現況に腹を据えることができないし、かといって今の境遇から脱出する勇気もない。では、どうしたらよいのか。
 江戸時代の黄檗宗の禅僧潮音道海は、施せという。布施は 「慳貪ケンドンの病を治す」と教えている。でもものを惜しんで、人に与えることが嫌いな人間が他人に布施する気になるであろうか。常識的な判断から言えば、まず不可能と言っていい。しかし、今の境遇を変えようと思ったら、いままでの生き方を百八十度変えない限りなにも生まれないのである。
・ 自分の胸にピカッと生命が光るのを感じるという体験をするまでに、私自身、三十三年の歳月が必要であった。
 なんと言っても情けなかったのは、話を始めると、みんな下を向いてしまう。中にはこちらを向いて平気であくびをする人やもう終わらないかとばかり、時計を見る人もいたことであった。それが、あるとき、わたしが未熟なりに一生懸命話すと、相手も一生懸命聞いてくれることに気づいたのである。そうするとわたしはもっと応えたくなる。わたしの魂と相手の魂が呼応するとき、わたしの体になにか、あったかいものが込み上げてきた。これ程まで生きていると感じたことはかってなかった。わたしはこのなにものかを、生命の光と言いたいのである。
・ いままでの自分がいかにいたらなく、自分を出し惜しみするけちな心に毒されていたかが分かってきた。自分のいたらなさが見えてくると、そういう自分を直したくなってきたのであった。思い悩まされた生苦の真っ只中に、自分の使命を発見できたことはまさに人生の妙としか言いようがない。
・ なにかを外に求めるのではなく、与えられたものに、相手に、身も心も生命がピカッと光るまで自分の力を惜しまず施し、投じないかぎり真に生きているという人生の喜びを自分の手中にすることはできない。
・ 生苦をなくそうとするよりも、どんな境遇であれ、自分は自分の置かれた状況になにを施すことができるのか、なにを与えることができるのか、そのことに力を注いだ方がはるかに自分の人生を後悔のない、無駄のないものにすることができるのではないだろうか。これこそ生苦を乗り越える、最も近道であるのだと思うのだがいかがだろうか。


17. 『 道は開ける 』               D.カーネギー  創元社

・ 私は小さな時、農家の空家の2階で友達と遊んでいた。ふとしたはずみで窓の敷居に足をかけて飛び降りる芸当をやったところ、左の指にはめていた指環が釘に引っかかって、人差指をもぎとられてしまった。私は号泣した。きっと死ぬに違いないと思い込んでしまった。しかし傷が治ってしまった後では、もうそのことは考えもしない。今でも私は、自分の左手には指が4本しかないことを忘れている。
 数年前、私は、あるオフィスの貨物運搬用エレベーターを運転している男の手が、その付根から切断していることに気がついた。私はその男に、手のないことが悩みの種になりはしないかときいてみた。すると彼は「いいや、ちっとも」と答えたのである。不可能なことは強いて求めないこと、境遇に順応することが世間を渡る秘訣である。価値のないものには価値をつけないことである。
・ 私の兄が大怪我をして、2年間苦しみ続けた。彼は自分で食事をすることも寝返りをすることもできなかった。私は彼の苦痛を和らげるために、昼も夜も3時間毎にモルヒネを注射してやらなくてはならなかった。
 身体を動かすことができて、食事ができて、激痛に悩まされていない人間が、この世で愉快にしていられないはずはない。どんなことがあろうとも、決して、決して、決して、それを忘れてはならない。私は自分に恵まれている数々の恩寵に対して耐えざる感謝の念を抱こうと努めた。毎朝私は眼を覚ますと、私が自分で起き上がって行って、自分で食事をしたためることのできるのを神に感謝した。世間には私よりも幸福な境遇にあっても、私よりも不幸な人が沢山いる。それはまだ感謝ということを知らぬためである。
・ 世間には多くのよきものを与えられているのに、それを知らずに不平をこぼしている人がある。例えば、自分は器量が悪い、財産がない、技能がない、などと悲観しているが、実は百万ドルにも代え難いよきものを受けているのである。 ある有名な独唱家は、歯が汚いのでそれをかくすために不自然に顔をゆがめていた。ところが、ある人の忠告に従い口を開いてその悪い歯並みをむき出しにしたことから、かえって人気が出て演芸界の寵児となった。彼の成功は自分に欠けているものでなく、自分にあるものをあくまでも生かしたからである。
 すでに持っているものを楽しむことができるのは大いなる特権である。他人の真似をするな。一刻も早く自分自身を見いだせ。ここに成功の秘訣がある。この世では、自分の持っているものをできるだけ利用し善用する以外に、成功の道はない。
・ 机の上を整理することは第一の必要である。何となれば、その人の不能率は机の上の整理さえできないからである。手近の問題に関する以外のすべての書類を一掃せよ。私は机の引出しをあけて見せた。引出しは空である。私の手許には未決の書類などは一通もない。すぐに処理するからである。 
・ 「お前がみんなに好意をもって、みんなのために何かつくして上げたら、みんなもお前をいじめたり、親なし子なんて言わなくなるよ。」私はこの教訓を受け入れた。私は他人に奉仕するために多忙をきわめるようになり、煩悶する暇はなくなった。
・ 「もちろん煩悶に対する第一の治療は宗教的信仰である。」
・ 全く母の信仰はゆるぎないものであった。私は、私の母がかって煩悶したことがあるかどうか知らないが、すべての問題を祈りにおいて神にもっていったことを知っている。H大哲学教授W.J.は言っている、
・ 重要性の順序に従って物事をなす力を持った人には、いくらでも月給を払う。アメリカで最も成功せる保険業者F.B.氏は、前夜プランを立てておいて、朝食後直ちにそれを実行した。J.B.ショーは、第一のことを第一になすことを生涯のモットーとしている。彼の計画は毎日必ず5ページの原稿を書くことで、彼はそれを実行した。実に9年間毎日5ページの原稿を書いた。
・ 世の中に批評ほどためになるものはない。批評はいかなる悪評でも、よってもって自己改善の資となすことができる。批評に対しては汝の最善を尽くせ。批評を善用せよ。
・ 私は15歳のときから煩悶と恐怖と自意識に甚だしく悩まされた。私は身長が6フィート2インチもあり、子供にしてはひどく背が高く、手足は火箸のように細かった。その上私の顔は斧のようにとがっていた。まる1週間家族以外の人の顔を見ないで過ごすこともあった。尤も、私としては誰にも会いたくはなかった。その後まもなく4つの出来事が起こって、私の煩悶と劣等感を除去することができたのである。
・ 私は汗の信者である。汗は肉体の病気を治すばかりでなく精神的煩悶をも治すものである。
・ 私は精神的にも肉体的にも打ちのめされてしまった。私は希望を失い、前途に一縷の光明をも認めぬようになった。その時であった。「神は汝を護り給う」が流れてきたのである。それは奇蹟というほかはない。私は初めて、神の力の偉大なることを知った。私の煩悶は私自身の責任であることを悟ることになった。神は愛の手を私に向かって差し伸べておられたのである。その日以来私は煩悶から完全に解放せられた。
・ 私は、その時、人生の何事もなるようにしかならぬことを学んだ。世の中の大抵の物事は、泣いてもすむし、笑ってもすむ。私は自分のなめた困難を後悔していない。それによって私は、人生のあらゆる隅々をも味わうことができたからである。私はそれに対して支払った代償を、決して高いとは思っていない。
・ 何よりも私にとって善かったことは、私が祈りを捧げたことである。私は未だかって祈らずしてベッドに入ったことはない。先ず神に感謝してからでなくては決して食事をしたことはない。しかして、私の祈りは受け入れられた。
・ 私は過労が煩悶の因であることを悟った。それで私は、毎晩十時にベッドに横たわることにした。
・ 私は、煩悶に費やしていた私の精力を私の仕事に打ち込んだ。かくて少しずつ私の状態はよくなっていった。今ではああいう悲惨を経験したことを感謝したい気持ちにさえなっている。
・ 私は、何か気になることがあって頭が空回りし始めたら、身体をへとへとになるまで動かすことによって、煩悶を一掃することにしている。何でもいいから、運動しさえすれば、精神的な暗雲は晴れて行く。肉体を疲労させることは、法律問題から精神を休息させることになる。煩悶に対する最良の解毒剤は運動である。気苦労のあるときは、できるだけ頭脳を遣わないようにして筋肉を使うことだ。運動を始めると煩悶はすっとんで行く。


18. 『 こころの旅 』             神谷美恵子   日本評論社

・ 人生とは生きる本人にとって何よりもまずこころの旅なのである。
・ 人生への出発点はいつかといえば、まさに受胎の瞬間とみなすべきであろう。もちろん本人も母親も、ましてや父親もそれを自覚しているわけではない。このことは、考えてみれば、驚くべきことである。自覚的存在であるのが特徴といわれる人間なのに、その生の出発点が、自分にも他人にも気づかれないのだ。人生は発端からして人間の意識を越え、同じく終末も意識のまどろみの中で迎えるようにできているらしい。
・ 乳児が乳を吸っているとき、母も子も根源的な安らぎの中で固く結ばれている。思う存分吸い終わると乳児はようやく乳首から口をはなす。このとき、まだ乳でぬれている唇がほころび、みち足りた表情にほほえみが浮かぶ。
・ 母親にとっても授乳のあとのゆったりした時間こそ、子との人格的な出会いの…少なくともその可能性の…はじまりであろう。母と子が人格的に出会うということは、じつはもっとも困難な課題として一生ためされるテストのようなものなのだが、新生児の段階ではその困難さは子にも母にもわからない。子どもはただ無心に無償のほほえみを浮かべ、無意識かつ自発的なおくりものとして母にこれを与える。このとき母のこころには子を「いとしいさずかりもの」と感じる思いがごく自然に生まれるのがふつうである。
・ 乳児のこのほほえみを見ると「ふつう」母親のこころは生きるよろこびでみちあふれる。ここで初めて女性として生まれた甲斐をおぼえたという人も少なくない。女性は生物学的に大きな負担を負わされているため、ともすれば自己の性に不満を持ちやすいが、今や自己の身体との間に深い意味での融和が成立する。
・ 乳児は口もきけず、何から何まで周囲の手を借りなければ生きて行けない存在だが、そのほほえみ一つ、泣き声一つに周囲の者のこころをゆり動かす大きな力がある。ことば以前の彼の呼びかけに対して周囲の者は彼に応コタえるのだ。確実に応えてくれる世界にとりかこまれた赤ん坊のこころには、おそらく基本的な世界への信頼の念がつちかわれるのであろう。この信頼度を彼はさまざまなやりかたでためし、たしかめる。その対象は母親や保育者から次第に他の人や事物へと拡大されて行く。
・ 子どもが多少ともつらい社会化訓練をなめらかに有効にうけ入れられるためには、母の愛だけでなく、その背後に父親の存在、父親と母親とのよき関係などが必要だが、いうまでもなくこうしたものがみな揃わない場合も多い。子どものノイローゼの多くはこうした家庭状況の欠陥や、そこから来る母親ないし母親代理者の子どもへの態度のゆがみから生じるようである。
・ 一般に「男性的原理」が家庭にないと子どもは男女ともに健康なこころの持ち主に育ちにくいと言われているが、どうしてもここには父親の配慮が欲しい。
・ 若き日に一生をつらぬくほどの友や師とのこころの交りが与えられたら、それは人生の最大の幸福の一つにちがいない。青年にとって知識以上に大切なこころの糧カテはこうした「われとなんじ」の体験であると思う。
・ せいぜい親にできることは「うそをつかないこと」、誠意をもって子どもに対することだけではなかろうか。子どもは親をたたき台ともふみ台ともして成長し、成長した上でまた親のところにこころをもどしてくる。多くの場合、多少のあわれみといたわりをもって。
・ 恋愛が必ずしも結婚と結びつくとは限らないことはいうまでもない。また長い年月の間つづいた恋愛のあげく結婚した人が、たちまち離婚した例もあるから、恋愛が必ずしもいい結婚を保証するとはいえない。そもそも両者はきわめて近いところにありながら、その本質はかなりちがったものだからであろう。恋愛には、自分についても相手についても、二人の結びつきについても多くの幻想がふくまれている。この幻想を多少ともぶちこわすのが結婚なのであろう。
・ たとえ悲劇で終わったとしても、恋愛することによって人のこころは大きく成長する。詩人テニスンは「愛して失ったほうが、全然愛さなかったよりいいことだ」と歌っている。とりわけ二人の思いが単なる「こころのできごと」に終わった場合にはこれはよくあてはまると思う。異性の存在の重さ、ほかでないこの人のかけがえのなさ、内省、献身の思いなどさまざまなものが恋愛の中でつちかわれる。それはそれまでの自己の固いからをつよくつきやぶる可能性がある。人はここで新しい自己を発見しておどろきもする。
 このように恋の思いが深く内省するのは生まれつき内気な人や、外から恋愛の成就をさまたげるものがある場合に多い。出口をみつけられない思いはこころの中でうずまき、さまざまの願望、想像、あこがれ、反省をひきおこし、それがこころを深くかきまわす。
・ 現代でも真剣に深く思いつめた恋をする若い人にときどきお目にかかる。それが結婚に結びつかなかった場合、ニヒルになる人や、こころが荒れる人や、こころが病んで「恨みの人」になる人もあるが、苦しい隠忍ののちに今まで以上に他人の人生に思いやりが深くなり、こころの旅の味わいがゆたかになる人もある。
・ 夫婦とは他人同士でありながら、いかなる身内よりは互いにありのままの自分をさらけ出すことになる。であるからどんな対人関係よりも自他を深く知る機会がここにある。それは相手の人がらを知るとともに自分の強さや長所よりも、むしろ弱さや欠陥を思い知る機会でもあろう。相手にゆるしてもらい、助けてもらわなければ存在しえない自分を知るとき、人間はより謙虚になり、他人への思いやりも深くなりうる。
・ 20歳をすぎた青年が精神生活上でまだ親に依存しているようでは、発育不全というべきであろう。それ自体、これまでの親のやりかたに責任がある。
・ こころにゆとりとユーモアが介在すれば、母子はよき友として、乳児期に始まった人格的な出会いを完成することができるかもしれない。しかしもちろん、それには母子の性格の相性ともいうべきことが必要だし、また母親みずからが「人生学校」で充分きたえられ、自己への洞察を深め、人格的に成長してきたのでなくてはむつかしいことであろう。また父親の存在は子が幼いころは多少とも遠く感ぜられたかもしれないが、思春期以後はにわかに近く重いものとなってくるのが自然であるようにみえる。ことに男の子にとっては父親を「仲間」としてあるいは「抵抗の対象」として意識することが人格の完成にとってほとんど不可欠にさえ思われる。
・ 向老期にさしかかると、自分の一生の時間も、悠久たる永遠の時間から切りとられた、ごく小さな一部分にすぎないことに気づくことになるであろう。自分は自ら志願してこの世に生まれてきたわけではなかった。この永遠の時間の一部分を意識して生きる人間存在になろうと願い出てきたわけではなかった。
・ 他人が自分をどう見るかは大した問題ではない。その他人もまた死んで行くのだから。
・ 永遠の時間は自分の生まれる前にもあったように、自分が死んだあとにもあるのだろう。人類が死にたえても、地球がなくなっても、この「宇宙的時間」はつづくのだろう。自分はもともとその「宇宙的時間」に属していたのだ。だからその時間は自分の生きている間も自分の存在を貫き、これに浸透していたのだ。げんに一生のうち、その「永遠の今」を瞬間的にでも味わう恵みを与えられた人もある。
・ げんみつな意味では人間はその観察者たりえない。人間は流れそのものの一部なのだから。だれかが観察しているとすればそれは「神」か、なんらかの超越者だろう。
・ 老いつつある人間には、すべてはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるであろう。そのとき、人間はどれだけのしごとを果たしたか、ということよりも、おかれたところに素直に存在する「ありかた」のほうが重要性を帯びてくるだろう。
・ 晩年に自己をしずかにかえりみ、人生への諦観がふかまるとき、そのこころにはしばしば宗教的というにふさわしい響きが加わる。
・ ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲も、彼の他の作品とはまったくちがった深みと静ひつをたたえたものとしてぬきんでている。
・ 人間は青年期いらい、自己を実現することに精一杯の努力をふりしぼって生きてくるが、それはからだの成熟の随伴現象ともいえる。ところが壮年期いらい、からだのエネルギーは下降してくるのに、こころは依然と上昇をつづける。
・ 20年かけておとなになる人間は、20年かけて死ぬ準備をしてもよいのではないか、という意味のことをユンクは述べたが、少なくとも中年期以後は死を覚悟しつつ生きる者のほうが、生をよりよく充実させ、死をも自然なこころで迎えられるのではなかろうか。
 生が自然のものなら死もまた自然のものである。死をいたずらに恐れるよりも現在の一日一日を大切に生きて行こう。現在なお人生の美しいものにふれうることをよろこび、孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、さいごの旅の道のりを歩んで行こう。その旅の行きつく先は宇宙を支配する法そのものとの合体にほかならない。
・ 知能だけが人の存在意義を決めるものではない。知能や学歴如何にかかわらず、安らかな老いに到達した人の姿は、あとから来る世代を励ます力を持っている。彼らはおだやかなほほえみを浮かべ、ぐちも言わず、錯乱もしていない。有用性よりも「存在のしかた」そのものによってまわりの人びとをよろこばすところが幼児と共通している。こうしたありかたを妨げるものはもちろん数かぎりなくあるから、こういう老人に接するとき、やはり人間の可能性について心打たれるのである。
・ 矛盾したことのようだが、過去の生涯を無意味だったと確信する人は決して死を受け入れようとせず、充実した生涯を送ったと確信する人ほど死ぬ用意ができており、死に対してあまり不安を抱かないものである。
 本当の自己を知ることができた人は内面的に安らぐことができる。つまり、恐れ、罪悪感、敵意などがなくなり、自分は宇宙にかえり、これと合一するのだ、というふうに死を感じるようになる。 
・ よく考えてみれば、地球上の生と死は互いに支え合う関係にある。生命の進化も、多くの生命の死の上に成り立っていることは明白である。おそらく生と死とは、さらに高い次元の世界で調和しているにちがいない。ただ、生と死が生じるこの宇宙的次元にまでこころを高めることは人間にとって至難のわざにちかい。そこを洞察し、さまざまな比喩をもって人間に示したのがさまざまの宗教であり、哲学なのだろう。 
・ だいたいのところをみると、すでに幼少のころから人生の悲しみや苦しみにとりかこまれて来た人、人生途上でしばしば苦痛や病気に出会った人、自分のこころの弱さに気づいた人は、悩みが多かった代わりに、人生をとりまく広大な形而上学的次元の世界に目を開かされる機会も多かったろう。「形而上学的」と言っても、この場合、ただ「人間の思惟を越える」ということにすぎないのだが、これに気づいた人は自分の生が大きな力に支えられてきたと感じるから、死への歩みもその力にゆだね、死は新しい、より高い次元への解放、または、「飛翔」の時として期待されてもふしぎではない。
 死後については、人間のこころやあたまではわからないとするのが、人間の限界を素直にみとめることではなかろうか。「わからないこと」に耐えるには、世界を支えるものへの「基本的信頼」が乳児期から育ち、一生を通じて深められていなくてはならないだろう。こうしてみてくると、人間のこころの旅のいちばん大きな基盤となるものはすでに乳児期に用意されることがわかる。そういう意味で人間の一生は晩年になって乳児期に回帰しようとする、一つの円環を形づくっているようにもみえてくる。少なくともこころの旅にとって時間というものはふつう一直線に「無」に向かって流れて行くものではないと感じられるのではなかろうか。
・ どんな一生を送ってきた人でも、人生の終わりに過去のこころの旅をみはるかすとき、こころというものの変幻自在なふしぎさに感嘆しないではいられないはずである。
・ 生にはほとんど必然的に苦しみが伴うが、これを乗りこえるためにも、人間には時折「自己対自己」の世界の息ぐるしさから解放されて、野の花のようにそぼくに天を仰いで、ただ立っている、というよろこびと安らぎが必要らしい。それは植物や他の動物と同様に、人間もまた大自然の中に「生かされている」からなのだろう。
 人類史がこれからどうなって行くかはわからない。しかし、人類は生きるかぎりこころのよろこびを必要とし、こころのよろこびのあるかぎり人は存続するだろう。
・ 生命の流れの上に浮かぶ「うたかた」にすぎなくても、ちょうど大海原を航海する船と船とがすれちがうとき、互いに挨拶のしらべを交わすように、人間も生きているあいだ、さまざまな人と出会い、互いにこころのよろこびをわかち合い、しかもあとから来る者にこれを伝えて行くようにできているのではなかろうか。じつはこのことこそ真の「愛」というもので、それがこころの旅のゆたかさにとっていちばん大切な要素だと思うのだが、あまり大切なことは、ことばで多く語るべきことではないように思われる。それでこれはヒトのこころの旅がかなでる音楽の余韻ようなものにとどめておくことにしたい。